【悔恨と反省、それでも懲りない?】2~3月の骨折・入院日記④
信州の春はまだまだ、雪景色(3月14日) |
3月3日~
【人口股関節になるということ】
ようやく手術も終わり、痛いけれどもなんとか起き上がって動けるようになった時点で、それまではそれどころでなく、聞かされなかった注意がさまざまに行われるようになった。いわく、「左足を内股にしてはいけない」「足を組んで座ってはいけない」「前屈してはいけない」「しゃがんではいけない」「よじのぼってはいけない」「和式トイレは使えない」…「これは一生、ずーっとです」…ガーン、この時は暗澹とした思いにかられた。さらに言えば組織が復元するまでの3か月ぐらいのようだが「体育すわり」「正座」「畳に座る・寝る」「長く歩いてはいけない(長くってどれくらい?)」など、あれこれあれこれ、制限動作の写真入りリストも渡され、ま、3か月は我慢はするが、そのあと私はどうなってしまうのだと思うことしきりで落ち込む。
周りには、「よかったですね」「回復が早いですね」と言われても全然そうは思えない。
人工関節手術をする人は、たいていは生まれながらに股関節脱臼だったとか、股関節症に長年苦しんできたという人なので、痛みが取れて、制限はあっても普通に日常生活を送れるということになれば、大喜びという感じなのだと思うが、こちらは一朝一夕にして回転自由な関節が制限いっぱいの関節になってしまい、もう普通にはスポーツも旅行もできないのではないかという思いで、少しも喜べないのだ(今さらながらに私のマグロ体質を思い知らされた!)。
院長回診のときに「スキーはまたできるようになりますか?(ほんとに懲りないヤツなんですが)」と恐る恐る聞いてみると、整形の名医の評判が高いI院長に、ニコニコと「まあ、転ぶのがねー、大丈夫ちゃんと歩けますよ」と言われ、またまた落ち込む。
その後の病院生活の(そして今もだけれど)テーマは、そこからどう立ち直り、股関節とどう付き合っていくのかということにに集約されたような気がする。
メールでの友人の見舞い、病院内の人々、いろいろな人がいろいろなことを言ってくれて、その中には好意ではあるが私をものすごく落ち込ませたことばもあり、逆に励ましてくれるような心強いことばもありで、最初は一喜一憂ものすごく動揺してつらかった。
だんだん回復してきて、痛みも薄れ、筋トレ重視のリハビリに可動域も戻ってくると、私を落ち込ませたそれぞれのことばの背景にあるものがちょっと見えてきた。
3・3 ドレインを抜いたあとからの液漏れで、朝起きるとズボンに大きなシミ。痛みはないが、大いに焦る。処置は絆創膏を貼ってオシマイ。歩行器を押しながら2階の回廊をぐるぐる歩き回る。歩いていないと足が衰えてしまいそうで怖い。
3・4 リハビリは自分で座薬を入れて筋トレ、ストレッチ。午後のレントゲン撮影、1階のレントゲン室に車椅子で連れていくと言われたが、車椅子はお尻がごとごとして痛いので、自分で歩行器を押して歩いていく。そのあと1階の外来ゾーンを探検。トイレも使い、売店カフェにコーヒーを飲みに行く。
清掃員のU田さんが声をかけてくれる。彼女は変形性股関節症に悩み、一昨年人工関節の手術を受けたのだそう。飯綱病院で診てもらっていたが、手術自体は自宅近くの市民病院に紹介してもらい、受けたとか。入院2週間、3週目には仕事に復帰したという。入院中、私がしているような足の間の枕はなかった、とも言っていた。
大変身軽に動いていて、しゃがんで床を磨いたり、窓枠に登って高い窓を拭いていたり、まったく不都合は感じないと話してくれた。ただ、転ばないように気をつけるのと、高いところから悪いほうの足をついて飛び降りたりしないように注意しているということ。これには大変に励まされた。
手術の方式についてはいくつかの違った術式があるのかも。また入院期間については、大きな病院のほうが入院期間が短い傾向にある、小さい病院は丁寧に診ますからとは、私の担当看護師O川さんの話だった。
3・5 歩行器を卒業して1本杖に。リハビリでは悪いほうの足での片足立ちなど。病棟2階回廊を暇を見つけては歩き、売店カフェに行って原稿書き。痛みは大分軽くなり、座薬は不要になったが、左足がむくんでくる。横になっているときは足をあげていたほうがいいということで、大きな枕をもらう。これは退院までずっと使っていた。歩きすぎではないかとも言われたが、どのくらい歩けばいいかはむずかしいところ。このあたり2階の回廊中心で、おおむね1日4000歩程度。
3・6 担当看護師のO川さんは我が息子とほぼ同い年。1歳半のお嬢ちゃんの元気なママで、説教がましくなく私を励ましてくれる。抜糸まではシャワーも入浴もダメなので、この日はシャンプーをしてくれた。
ベテラン看護師で、ご本人も膝が悪いというT山さんはちょっと厳しく悲観的。彼女が、手術後3ケ月、さらにはそれ以後もずっとしてはいけないことを連ねたリストを持ってくる。それを見て私が落ち込んでいると、O川さん「でもね3カ月もたてば、けっこう何でもできますよ。今はネットでもブログでもいろいろ情報があるから、ちょっと見てみたら?」これはとってもありがたいことばで、言ってみればT山リストだけが絶対ではなく、このあたりを参考に、注意しながらも自分の体の様子を見ながらどうしていけるかという幅はあるのだと思わせてくれる。
友人のI・A氏からline。いわく、「年齢的に〇〇サプリなどを飲んで骨の強化を図ることが必要でしょう」ちょっとム…「手術した医師は私の骨はしっかりしたいい骨だったって言っていたけど」(lineなのでつい。我ながらそんな返事しなくてもね…)すると「転倒で骨を支えるだけの筋力がなかったということですねー、痛いからと言って筋を動かさないでいると筋は退化します。動かせる筋は積極的に動かしましょう」(ごもっとも、なんだけれど、でもなんか、説教がましくてまたムカっとした。わかってるってば…)
→でも、しばらくたってもなかなか手術の痛み(なのか筋肉痛なのか)?が取れずに、いつまでも痛みをこらえて筋トレをしている状況の中では、このことばは励ましになっています。(手術後2カ月の感慨)
そほのかに「スキーは怖い、私の知り合いの誰とかはスキーの事故で亡くなった、あなたが死ななくてよかった…」っていうメールも、悪意はないとは思いつつ、自分のバカさ加減を批判されているみたい(ていうか、されたんでしょうが)で、ちょっといやだった。もちろんこのメールをくれたのはスキー未経験者。それと逆に、この冬自分は安全に楽しいスキーをしました、というメールをくれた友人もいて、これもムカッとしたなあ。私だって、このスキーの前までは安全で楽しいスキーをしてたんだから…。何にでも怒っているような時期だったのかも。
まだ確定申告をしていない!一応書類はそろえてあったので、連れ合いにメールして、やってくれるように頼む。彼の母は今ガンの疑いで郷里の病院に入院中。そんな中で郷里から戻ってきたところで頼んだというわけ。彼にはこの後、高額医療費の限度額適用認定証の申請にも行ってもらったり、不在配達の受け取りに行ってもらったり、おおいに世話になる。
3・7 朝の体調がよくない。足だけでなく頭も痛く、痛み止めを飲んでも頭痛のほうにはきかない。血圧158-90とかになって仰天。ストレスのせい?やむなく、また廊下をトコトコ。洗濯も。無理にも体を動かしたり、コーヒーを補給して少しPCをしたりしていると頭痛がようやくおさまってくる、という数日がここから始まった。
おばあ様方ばかりだった225(こちょうらん)室から226(りんご)室に移動になる。ベッドの場所は225のときと同じく、飯縄山が見える側の窓際。これはとってもありがたい。
この部屋の住人は入院生活の頼りになる方たちで、大変にありがたかった。病院側も多分、誰をどこに入れるかということには、それなりの配慮をしているのだろう。
K原さん 近隣の旧家の「お嫁さん」らしい。「夫の坊ちゃんぶりに結構苦労してきたのよ」とは、もう1人の同室M木さんの言。60代?雪かきをしていて穴?に滑り落ち左膝を骨折して2月初め入院したとか。とにかく知識欲の旺盛な方で、したがって博識。病院内外のことに詳しく、入院患者の誰ともことばを交わし、上手に相手に話をさせてしまう人で、私もいつのまにか身元調べ?されてしまった。普段ならあまりおつきあいしないようなタイプの方だが、決しておせっかいというのではなく、教えてくださる情報に、とても助けられたのは事実。特に、高額医療費還付に関する資料が私には届かず、支払いに不安を感じつつ悶々としていたときに、資料の存在や、健康保険限度額適用認定証の申請について教えてくれたのは、この方で、この方がいなければ私の経済苦境はいかばかりだったかと思うとぞっとする。彼女はまだリハビリが足りないと言いつつ、15日に退院。長身でなかなか格好いいお連れ合いと息子さんがお迎えに来た。
M木さん 黒姫で民宿を経営し、学生や社会人のサークル合宿やスキー合宿の世話をしている女将,74歳。当然ながらこの方もやり手で社交的。しかもなかなかおしゃれで華やかな感じの方。15年前に退職直後の公務員だったご夫君をガンで亡くし、ご自身はその直後右股関節の人工関節手術(生まれながらに股関節脱臼だったとか)、その後リュウマチにかかり、今回はヘルニアになって3月初め入院したという。満身創痍で、ずっと痛みにも苦しんでいたが、そのあいまにはとまらないおしゃべり。ずいぶん頑張って仕事をしてきたようで、今回も途中で青色申告や、家の用事のために車椅子で一時帰宅(日帰り)をしたり、そしてそのたびにお土産を持ってきてくれる。長野市内に住むお40代後半?のおしゃれでステキなお嬢さん(22歳を筆頭に3人の子持ち。つまりM木さんにはそんな大きな孫がいるわけだ)、仕事の合間にスキースクールの指導員をしているという独身の息子さん、妹、友人の夫、そして夫の死後付き合っているという、元同級生のBFと、大勢の見舞い人。人気も人脈もある方。このあと、売店カフェの休日には226号室でドリップコーヒーをいれて「カフェ226」をすることに。
私たちの「巣」226号室「カフェ226」もここで |
A川さん K原さん退院後に個室から移って来られたA川さんとは以前に225室で2日ぐらいご一緒した。以前に手術した右膝のあと、今回は左膝を手術したそう。84歳で、耳は少し遠いが、意欲的で勉強家でもある。毎日、日記を書き、ベッド上で息子さんにこれからの農作業の段取りを伝授。書類を書いていて「ねえ、ちょっと字を教えてちょうだい」とおっしゃるので伺うと「ローマ字のUってこれでよかったかしら?」。聞けば夫を40代で亡くし、勤めながら3人の子を育て上げ、退職後は農業を一手に切り盛り。友人が同じように膝を悪くしたけれど、手術はいやだ、痛くてももうそんなに動くわけではないとしり込みするのを批判して「動ければずっと自由なのにねえ」。だからリハビリも熱心にやっていらっしゃる。自分でも言うように、見かけは田舎のおばあちゃんだが、とにかくかっこいい人!
ついでに?向かい別室のS谷さん。
彼女は、3年前まで自営のヤクルト配達業者だった60代。入院のはじめのほうで知り合って親切にしていただいた。いつも車椅子の皆さんが集まっている食堂で、折り紙教室?をしたり、「私、本を読まない人だから時間つぶしなのよ」とか言いながら千代紙を三角に折って作った楊枝入れをたくさん、みんなに?配ったり。またちょっと認知症の車椅子の皆さんが「サポーターをはずしてください」「家に連れて帰って」と言われるのを上手になだめて落ち着かせたり。いや、さすが…厳しい営業の世界で活躍してきた人なのだ。
・・・私も実は最初はベッドでの食事に抵抗があって、いつも食堂に行っていた。で、おばあ様方にお茶を入れるくらいはしてあげていたが、だんだんいろいろなことを懇願されるようになり(もちろん、ほとんどは看護師さんに取り合ってもらえないような無理な要求)、返事に困ってしまうのと、自分の部屋の居心地がよくなったこともあり、最後のほうは軟弱にも部屋でご飯を食べるようにてしまった。S谷さん、やっぱり偉い!
食堂のみなさん |
⑤に続く
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