【山形国際ドキュメンタリー映画祭+蔵王山ある記】2023年10月



初めて行ったのが『鉄西区』(2002王兵)が公開された2003年、それから2年おきの映画祭に通い続けて20年(嗚呼!)コロナ禍の一昨年はオンライン開催で、4年ぶりの山形に行きました。今までは2~3日しか行けないという年がほとんどでしたが、いよいよフリータイム人生に突入して、今年は5日から12日の全日程をたっぷり、のつもりでした。が、初日のオープニングセレモニーは急遽整理券配布という人気で、午後3時山形に着いた時にはすでに整理券はすべて配布済み、やむなく映画祭関係でない別の映画を見たりしましたが、後はほぼ希望と予定に従って、21本のドキュメンタリー映画をたっぷり楽しみ、監督や関係者のQ&Aセッションにも出たりして、合間には映画仲間との晩餐も…。そして天気とプログラムを見計らないながら、11日には蔵王山散策まで、おおいに楽しんだ日々でした。
11日地蔵山ロープウェイ駅から刈田岳まで往復縦走「お釜」です!
              「蔵王ある記」は本号末尾に

⑤ー1 地の上,地の下(Above and Below the Ground) ➅-2 ホーム・ストーリー(HOMEmade Stories) ⑦-3列車が消えた日(列車消失的那天)⑧-4 ラジオ上神白ーあのときあのまち音楽からいまここへー(ともにあるCinema with Us2023)⑨ー5何も知らない夜 ⑩ー6原爆許すまじ1954日本のうたごえ ⑪ー7松川事件 真実は壁を透して ⑫ー8 What about china(Looking Sideways at Alors,la Chine?) ⑬ー9 わが理想の国 ⑭ー10 壊された囁き ⑮ー11石が語るまで ⑯-12 自画像47KM 2022 ⑰-13 三人の女たち ⑱ー14 ニッツ・アイランド ⑲-15 東部戦線 ⑳-16 負け戦でも ⑳-17鳥が飛び立つとき ㉑-18あなたの微笑み ㉒-19風が肉体を破壊する(風推肉身)㉓ー20 リスト ㉔-21 ある映画のための覚書


各映画の頭の番号○付きは10月の通し番号、○ナシは映画祭の通し番号(観た順)です。
今回★はつけませんでしたが、受賞作品はどれもさすがに見ごたえあり。あと、私的にはウクライナの2作品⑰-3『三人の女たち』⑲-15『東部戦線』はよかった…。ウクライナ作品が受賞しないのは「山形」の「姿勢」?なんてちょっと思ってしまった。どちらも完成度は高い作品でした。


⑤ー1 地の上,地の下(Above and Below the Ground)
監督:エミーリー・ホン 2023ミャンマー・アメリカ・タイ  ジンポー語・ビルマ語 84分(アジア千波万波)

ミャンマー北部、キリスト教徒の多いというカチン州ーことばもミャンマー語とはちょっと違う響きで中国広東語っぽい響きもあって、この民族のことばなのかなと思われるーでの国家プロジェクト的なダム建設によって居住地を追われた人々のなかで、反対運動の先頭に立つ二人の中年女性、その後を継承する若い女性、そして3人組のバンド(ブロスト)に焦点をあてて、人々のフツウの暮らしの中でどんなふうに彼らが意識をもち運動をミャンマー全体のものに広げていこうとしていくのかという姿をリアルな映像ーきれいなのだけれど自然感もあふれるーによって丁寧―とっても丁寧だと思う―に描いて印象に残った。(10月6日 フォーラム5 281)


➅-2 ホーム・ストーリー(HOMEmade Stories)
監督:二ダール・アルディブス 2021シリア・エジプト アラビア語 69分 (アジア千波万波)

なんとまあ、かわいい幼い娘サルマ―その場面になると思わず顔がほころんでしまう―その彼女を妻とともに産み育てたダマスカスの家(とっても大切な愛着のあるという描き方)を残してシリアの革命での弾圧から逃れ爆撃から逃れて移住した一家。
一方監督幼時の思い出の残るカイロの廃墟となった映画館を改装して文化センター(拠点)として作りなおそうとする試みをもって地域の古老たちの映画館への思い出や、廃墟の様子が映し出される。しかしこの試みは成功せず、やがて監督自身は難民キャンプで子どもたちに映画作りを教えたり映画について語り合う文化センター的拠点を作っていく様子も…ともかく映画愛、家族愛に満ち満ちて、しかもその二つは未来への希望という一点で結びつき重ね合わされる。娘のおしゃまな可愛らしさがまさに消えないように残っていくように、ダマスカスの家に残した子どもの衣類とかいろいろな家族の思い出の品々とともに描かれるのは断捨離を考えつつある身としてはちょっと考えさせられたけれど、戦乱で様々なものが破壊されていく状況の中では物事は多分違って見えるのだと(つまり何か物があることが未来につながる)と感じる。(10月6日 フォーラム5 282)


⑦-3列車が消えた日(列車消失的那天)
監督:沈蕊蘭 2022中国・シンガポール 中国語 73分(アジア千波万波 奨励賞)

ウーン、わからん。若い女性監督が内面を一人の登場人物(監督の知り合いで元列車関係者らしい?30代くらいでなんか全然イケメンでもないし)と風景に託して描き、合間に彼女+彼の心象という詩が挟み込まれていく、いわば映像詩なのかな。モノクロ画面に時に色が入るという作り方も、好みは別れそう。ただQAで登壇した女性監督の若さにナットク。会場からの質問・コメントも当然と言えば当然かもしれないが若手の大好評というとことろ。そして奨励賞受賞という快挙も…(10月6日 フォーラム5 283)


⑧-4 ラジオ上神白ーあのときあのまち音楽からいまここへー(ともにあるCinema with Us2023)
監督:小森はるか 2023日本 70分

最初の予定には入っていなかったが、ちょうどぽっかり当てはまる感じで時間が空いたので見ることに。福島浪江町の団地で、高齢者の思い出の曲を聞き、それにまつわるというか人生について語るというような番組を作っている、東京在住のアーティスト・アサダワタルと若い女性ディレクターたち。
『青い山脈』『左衛門長ブルース』『君といつまでも』というような曲を嬉々としてカラオケで歌う高齢者と、その歌にまつわる人生を聞き取るラジオ側。そしてアサダはクリスマスコンサートとして、バックバンドの参加者を募集、東京で練習を繰り返し、当日のクリスマス会では生演奏をバックに高齢者たちが歌う。その気持ちというか、意気込みは尊敬に値するとは思うが、嬉々として歌い、語る高齢者の方の気持ちにどうも寄り添えない。なんかやらされているという感じが付きまとうのは私がそろそろこの高齢者の年齢域に達しつつあるからだろうか?介護する側、される側で、する側(年齢)からされる側に移行するというのは、やはりものすごく抵抗があるのかなという感じ。される側(一緒に歌って喜べる側)に移行するまで、体がシッカリしていることを切に願う。(10月6日 フォーラム2 284)


⑨ー5何も知らない夜
監督:パヤル・カパーリヤー 2021インド・フランス(ヒンディ語・ベンガル語)100分モノクロ (コンペー大賞受賞!)

映画大学に学ぶ女子学生Lは不可触民(ダリト)であるとして、恋人の両親は恋人を自宅に監禁して付き合いをやめさせる。映画はモノクロの学生たちの暮らしから、2016年におこったヒンドゥー至上主義者の学生運動の弾圧シーンなどが描かれながら、その中でLが学生運動に加わりながら、連絡を絶った恋人へ思いをつづる手紙のナレーションをかぶせていく仕組み。
学生たちの置かれた非差別的な厳しい状況と、その中で「成長」して恋人を自分と連絡を絶った存在から「あるべき恋人」として思いを語る相手へと変換していく様子が興味深い。最初の幸せな時代と、運動の果てのあるべき学生の姿が、暗い画面の中で群舞というより踊り狂う?男女の姿として描かれているが、学生運動の映像とともにこのあたりの描き方はちょっと類型的すぎるというか、映像的には今一つ凝ってはいるが入っていきにくいものを感じた。カースト制度が学生の生活や運動にも絡んで、特に女性を抑圧するという社会の困難が「感覚的」「詩的?」に伝わってくる感じではある。コンペで大賞を取ったのはちょっと意外かも。(10月6日 山形市民会館大ホール285)


⑩ー6原爆許すまじ1954日本のうたごえ
監督:野田真吉 竹内信次 道林一郎 かんけまり 1954日本 28分モノクロ(野田真吉特集)

1954年の「うたごえ祭典」(これって会場はどこなんだろう。東京体育館?まだ武道館も国際フォーラムもない時、すごい人々)を記録した映画。各地(婦人会とか青年団などが母体になっていた―とは知らなかった時代を感じる)や各労働団体など単位の団体の出し物をつなげていったというかなり安直な構成の、ま、ドキュメンタリーというよりは記録映画。各地の出し物はうたごえの定番(とはいっても、この時代の定番は名前だけは知っているけれど曲自体は知らないというものも多かった)ではなく各地の民謡などが多くて、やはりうたごえ運動も、地方と都会、高年齢層や労働者たちと、大学生のやっていたようなものはずいぶん違うのだなと思わされた予期せぬ思いでとの邂逅という感じもあり、なんか懐かしいというか違和感バリバリという上映ではあった。(10月7日 山形市民会館小ホール286)

⑪ー7松川事件 真実は壁を透して
監督:野田真吉 1954 58分モノクロ(野田真吉特集)

⑩-6との二本立て。松川事件の二審までを丁寧に追っている。それにしてもこの時代の一般日本人の日本語(はなしことば)の早口・分かりにくさに驚く。寝た切りのおばあさんへのインタヴュー映像なんて言うのも今では考えられないが、この方の受け答えは一言もわからない。被告たちは組合の活動家で話し慣れた人達だと思われるが、わりと甲高い声での爆弾トーク的な話し方で、声も感情が先に立っている感じでなんか何を言っているのかわからない。私自身の耳の問題かなあと疑いつつ、しかし、ナレーションはもちろん弁護士とか、鑑定人の医師とかが話している言葉はわかる範囲だから、ウーン。偏見を持ってはいけないと思うが、「伝わりにくい話し方」というのも冤罪の一因?と思ってしまった。(10月7日 山形市民会館小ホール 287)


⑫ー8 What about china(Looking Sideways at Alors,la Chine?) 
監督:トリン・T・ミンハ 2022アメリカ・中国 英語・中国語 135分(コンペ)

4種類くらいの声のナレーション付きで、そのうちの1つは監督自身だが、語られる身の上は父は画家、母は元紅衛兵で、(多分客家の円楼に住む?)祖母とともにいて、やがてウエールズに移住してというような境遇なのだが、後のQAに出てみると、監督はベトナム人でアメリカ在住であるらしい。
映画は上海外灘美術館製作で、いくつかの美術館でインスタレーションとして上映されたらしく、そう聞くとなんか腑に落ちる中国との距離感がある。
まずは客家の円楼からははじまり93~4年にビデオ撮影されたという中国の伝統様式の建物のそれなりに使い古され荒廃もしている建物群の外部・内部の映像が続く。そこに先のナレーションはじめ、ほとんど英語のナレーションがかぶっていく(話者は名前から言うとどうも中華系だとは思われるが)一部歌の歌詞とか、唐詩(「元二の安西に使いするを送る」)部分、それに瑶族の村?を紹介した一部分だけがなぜか中国語だった。詩もそうだが、音楽も割とポピュラーで外国人でも聞いたことがあるような曲が多く、二胡曲の『二泉映月』などは3~4回いろいろな場面で繰り返され(と言っても楽器や弾き手?は違うみたい)そういう意味でも外国人にむしろ親しみやすい距離感かもしれない。
私が中国と比較的深い縁を持つようになったのはちょうど93~4年のころからだが、そのころよく目にした風景・風俗や耳にした音・音楽などが(ナレーション自体も何回か繰り返す)解析度の悪い映像によって中国のある時代を切り取り、それが私などにはとても親近感を感じさせる、つまりどっぷり中国というのでなくある程度客観性を持った視点で描かれ、ナレーションの視点はモノによって古代から,現代にまで飛ぶ感じで、多分ある種の中国人にとっては違和感の大きい作品かもしれないとは思わせられる。
実際にQAでフロアから、外で中国人観客が話しているのを小耳にはさんだとして「中国(人)を動物園みたいに見られている感じがした」と聞いたがどう考えるかという質問が出て、監督がちょっと気色ばみ、内から見る視点が正しいとは限らない、外から見た方が正しいこともあると(ちょっと的外れな返事という気もしないではないが)答える一幕もあり、そうなのだ、これはビジュアルとしては伝統が崩れつつしかしその姿を残している中国の時代の一幕を切り取りつつ、そこに現代人の感性で「調和と対立」に関する見解を繰り返し重ねた映画という気がする。
「男は山、女は川(川がすべてを飲みこみ育てる)」「男は頭、女は(頭を動かす)首」というような中国の格言が織り込まれたり、「父・夫が殴り娘・妻の悲鳴が鳴り響いた」という経験談が語られたりで、その現代的視点の中にはジェンダー的視点もあるのだなあ、またプロバカンダ作品を強いられた画家の父と毛沢東のほくろの逸話など、文革や共産主義革命への視点も外部的視点としてはしっかり描かれてはいるが、このあたりもある種の中国人を逆なでにするのかも。でも上海の公的な美術館がそういう意味ではよく製作し、検閲を通ったのだとちょっと感心。原題は『流し目で見る中国』の意。(スプートニクNO.3)(10月7日 山形市民会館大ホール 288)


⑬ー9 わが理想の国
監督:ノウシーン・ハーン 2023インド(ヒンディ語・英語)74分(アジア千波万波 市民賞受賞!)

⑨ー5と同じく?こちらは2019年の市民権改正法案とそれに基づく国民登録簿に反対する学生・市民の運動の中で、それらの法律から排除され差別的に扱われた、インドでは少数派ではあるイスラム教徒の立場としての自分を内省しながら、自由を求め、民族や宗教に対して差別的な市民法や国民登録に反対する人々、特に(学生に限らず)女性の発言や行動を丁寧に拾い描いている。
警官隊が学生寮に「侵入」し、女子学生たちが逃げ惑うという衝撃的な防犯カメラ映像は、⑨ー5とまったく同じ素材が使われていて、そのようなものも含め迫真性・ストレートさにおいてはより直接的に訴えようとしている。⑨ー5とも合わせ、さまざまに価値づけされる宗教やカースト制など、またジェンダー差別の気配も濃厚な、要は分断された人々の集合体のような国における問題の多様性・複雑性を感じさせられるが、その中でもそれぞれの違いを越えて共同で戦おうとする意志には敬服する。
そして⑨-5もこちらもどちらも若い女性監督の作品であることにもすごさというか希望を感じる。市民賞受賞で、インド若手女性監督の快挙!(10月7日 フォーラム3 289) 
表彰式・サリー姿のハーン監督

⑭ー10 壊された囁き
監督:アミール・マスウード・ソヘイリー アミール・アーサール・ソヘイリー 2023シリア・イラン(アラビア語)63分(アジア千波万波)

イランの監督がシリアで撮った映画。映画を撮るのに国境はないというのがQAの監督の弁だった。
戦争で荒れた町でもともとは絵描きだったが10年間の戦争で絵が描けなくなり子どもたちに絵を教えながらがれきの下から請われた楽器を掘り出して修復する画家(ここはモノクロ)と、修復された楽器の弾き手を探して街を歩く子供達の姿(これはカラー)を軸に、戦争で家族を失った人々や、自らの芸術を失った音楽家のインタヴューなどで、美や芸術が犠牲にされる戦争の姿を浮き彫りにし、それにもかかわらず絵を描いたり楽器の弾き手を探す子供の姿や、さらに画家自身も絵を描き始める最後のほうのカラー映像に希望を込めたという感じの作品。
戦禍の痕(崩れた瓦礫など)は出てくるが、戦火そのものが出てくるわけではなくぼーっと見ているとけっこうのどかな映像ではあるのだが、なかなかに奥は深いと感じられる。
(10月7日フォーラム3 290)


⑮ー11石が語るまで
監督:キム・ギョンマン 2022韓国(韓国語)100分(アジア千波万波)

1948年済州島で起こった4.3事件で、理由もわからず(共産化を疑われた)軍隊・警察に襲われつかまえられ刑務所に送られた人々。70年たち名誉回復の再審裁判が行われることになったのをきっかけに、今や90歳を超えたこの女性たち(男性ももちろんいるのだが、監督によれば今回は女性の話としたとのこと。男性版の続編の考えもあるようだが、本編は本編として完成しているとのことだった)にインタヴューをしてそのつらい経験を語ってもらっている。合間を埋めるのは済州島の自然描写、これがもうやたらときれいで、人々が逃げ込んだという山のたおやかな姿などは是非是非登ってみたいと思わせたられる(昔済州島の山に登る計画を立てたがスキーの大けがで頓挫したことを思い出す)。全州刑務所や、当時の裁判所などは現存していないので、西大門などで代用したというイメージ映像だそうだが、かわらぬ風景のイメージとそこにあった人々の経験、そして70年たった今の映像とがマッチしてきれいなまとまりを見せ、見ごたえのある1本に仕上がっている。が、やはりハルモニたちの迫力が何にもまして印象的なんだろうなあ。 (10月8日 フォーラム5 291)


⑯-12 自画像47KM 2022
監督:章夢奇 2023中国 190分(コンペ 優秀賞受賞)

同監督「自画像」シリーズ11作目にあたる、コロナ禍下の湖北省の農村47KMに作者は青い家を完成させ、地元の文化センターのような使い方をしながらパンデミックの1年を暮らし、綴る。
190分は長いが、24節気に分け小エピソード、というか場面でつないでいく描き方は今映画がどのあたりまで過ぎたのか四季の移り変わりとともに見ながらわかる、登場する人物も田植えをしたり、桃の収穫作業、キノコの菌を植える日本風に言えば榾木というのだろうか、おがくずをビニル袋に詰めたものを作る総出の作業、そして稲刈り・脱穀・乾燥などと、映画の撮影にかかわらず村内で行われる営みが中心で、その間に作者とこどもたちのワークショップ?風景、女たちのダンス、清明節の墓参りなど、そして前作で「夢奇が家を建てる」と何度も歌った少女の、ちょっと成長したがあいかわらず達者な一人語り、そして走り回るニワトリやその他の鳥・動物など、どの場面もわかりやすく、ユーモアにも満ちて、美しく撮られているのに驚く。
ここには村を出ることを夢見ながら絵を描く少女、作者がカメラを持たせて撮影に加わっていた少女たちはいないし、わずかに過去の監督の映画を彷彿とさせるような人物と言えば収穫前の稲田でポツンと座り続ける人物の遠景とか、終わりの方一人で林に入り高木にはしごをかけて登り枝打ちをする男とかぐらいだが、どちらも村内の自然な営みの一つとしてあり、孤独も尖った内面探索?のような様子もなく自然にそこで暮らしているという感じでとっても穏やかな仕上がりであるのに驚く。
画面の色合い自体も明るく、緑や黄色系が明るく鮮やかで、かつてこのシリーズで描かれてきた寒々した村のイメージはなくて、豊穣のイメージさえあり、要は1年住み、村人も利用できる家を建て、映画作りによってある意味では富や近代化をもたらして、村人に受け入れられるようになった作者が自身の村人への親近感が子どもや老人たちの世界から普通のオトナたちに広がっていった結果なのかなと感じられる。最後の場面の長回し、死んだかと思われるほど寝たままの画面中央の犬もこのシリーズらしいが。いずれにしろ、「自画像」シリーズ、ある到達点に達したのかな、次はどこへ行く?とも感じさせられる1点。優秀賞も獲得して章夢奇、もはやベテランの風格。(10月8日 中央公民館292)
Q&Aで。左は通訳の秋山さん

⑰-13 三人の女たち
監督:マキシム・メルニク 2022ドイツ ウクライナ語・ドイツ語 85分(コンペ)

ウクライナの西の端、スロベキアとポーランドの国境に挟まれた小村で暮らす3人の女性、最初は撮影を断固拒むハンナ(70代くらい?)、そして国立公園で節足動物を中心とする生物の研究をし博士論文を仕上げようとしているネーリャ(56歳で学位を志したというので、60前後ではあるのだろう)、そして50になったという郵便局員のマリーヤの姿を中心に村の生活を描く。
監督とドイツ人でビーガンというカメラマンらが2人くらいで何度も村に滞在し、撮影していく中で、例えば特に一人暮らしのハンナが息子のように撮影クルーに心を寄せたり、クルーの方も彼女の誕生祝にプレゼント(豚‼・そして風船)をしたり、ハンナがその返礼に豚?(ウシか?)を解体したりして料理をふるまったり、また、生物学者のネーリャのフィールドワークに同行して、彼女の車の故障につきあったり、また彼女が熊の大きな糞を見つけて狂喜、ピンセットで探りながら内容物を説明したりというような、彼女たちの意識や日常のありようを丁寧に追う。マリーヤは夫と子供と暮らし、一番「フツウ」の暮らしぶりで、ハンナも含め村の老人たちに年金を配るのが仕事の中心のように描かれる。しかし郵便局には切手が来ないし、隣村の郵便局は閉鎖されたということもあり、映画のおわりには、外国で働くしかないという感じで追い込まれ、そもそも壮年の男たちの多くが外国に出稼ぎに行っているということで、女ばかりが活躍するこの村自体が、ウクライナ(ロシア侵攻前だが)の貧しさを象徴しているようでもある。
最後に霧に包まれた村で監督がハンナと携帯電話で交信し、彼女の「場所を変えるわ」という声のあと交信が途絶え、監督が「姿が見えるか」と霧に向かって呼びかける印象的な幕切れは景色自体は墨絵のように美しいのだが、この村自体がその後霧にに包まれ、その中で人々の生活が見えなくなっていくのではないかと思われるような、心もとなさを感じさせるのである。なお、ネーリャも博士号はあきらめ、誰も代わりの研究者は来ないこの村でずっと過ごしていくという決意ともあきらめともつかないような言葉を吐くのである。
私としては本映画祭屈指の1本と思えたのだが無冠…(10月9日 中央公民館293)

⑱ー14 ニッツ・アイランド
監督:エキエム・バルビエ ギレム・コース マルク・シェール 2023フランス(仏語・英語) 98分(コンペ 審査員特別賞)

私に理解できるような映画ではない?と思っていたのだが、テレビ(山形NHK)で来山中の監督が出演して話し、一部映像が流れたのも見て心をひかれた。
ノルゥエイのゲーム世界に監督3人が参加し、その参加者である人々(のアバター?)とコンタクトをとり、ゲーム世界を文字通り逍遥しながら参加者(アバター)のインタヴューというかセリフというかで構成している。
最初その仕組みが全然わからずちょっと困惑と退屈に襲われるが、画面は参加者のアバターが冒険をしている(みなザックを背負い、武器を持ち仮面をかぶったりしてものものしい)が、声はPCの前にいる実在の人物らしく(ドキュメンタリーだと監督が力説していたから声優などは使っていないのだと思うが、それにしては迫真の演技?PC前の実在の自分のモノローグと、ゲーム中のアバターの発言との切れ目がない感じで、ゲーム世界とはこういうものかと感心してしまう。背景は自然をよく映し出したような美しかったり、荒廃していたりというような光景―だが概して美しい緑、地の色、空や水の描写。そこを動き回る人々は明らかにアバターというか作り物で、監督が人間の肉体のリアルな再現が最も難しいとQ&Aで言っていたがまさにその通りという感じ。
内容的には仮想現実の危険とかそういうことを言っているものもあり、登場人物は様々だが、案外フツウの事を言っているような気もする。とにかく映画世界も変わり不思議なものを見せられたという感じはある。しくみがある程度わかってからはなるほどと、楽しめた。(10月9日中央公民館294)
ギレム・コース監督は30歳(右)
             

⑲-15 東部戦線
監督:ヴィタリー・マンスキー 2023ラトビア・ウクライナ・チェコ・アメリカ(ウクライナ語・ロシア語)98分(コンペ)

映画ディレクターがウクライナ軍の救急部隊に加わり、2022年2月24日(ロシア軍侵攻)当日から撮影をはじめて、1年後の2月24日にはベルリン映画祭でプレミア上映したという作品で、明るい色調で撮られた家族や友人の平和な生活(幼児の洗礼式のパーティとか)や、川辺でリラックスしながら語る友人の映像と対比するかのように暗い色調での戦場ー救急部隊として負傷した兵士を救急車で病院に運んだり、ちぎれたからだが散乱する戦場を通過する車、またロシア軍の塹壕に潜り込むシーンとか、爆撃音や、負傷兵のうめき、緊迫した救急隊員のやり取りとか、さすがの場面の連続で戦争の姿を見せる。
どうやって撮ったのか、撮影することへの物理的な困難、また周囲の心理的・法的な抵抗はなかったのかなど気になる質問がQ&Aでは出てきたが、とにかく被写体がいつ死ぬかわからない緊迫した状況の中で体にアイフォンなどの機器を縛り付け救急活動をしながら撮影するというような姿勢を貫き、同僚やまわりもそれを受け容れというような状況であったようだ。感動とかいうよりやはり緊迫感に圧倒された映画だったというべきだろう。監督を含めた兵士たちの親密感、笑顔の表情なども印象に残る強さだった。(10月9日 市民会館大ホール 295)
Q&Aでの監督の話しぶりも力強い


⑳-16 負け戦でも
監督:匿名 2023ミャンマー 23分(アジア千波万波 小川紳介賞)

閉ざされた部屋の中の逆光の人影、小さく区切られた窓から見える外の景色だけが白くきらめく明るさである。匿名者の監督と思われる若者のモノローグは自分が捕らえられ収監された日々、自分だけが仲間に先んじて釈放された罪悪感などを語る。後姿の人影の引くバイオリン。短いのだが作者の閉ざされたミャンマーの環境が伝わってくるインパクトを感じさせる。 (⑳-17と二本立て(10月10日フォーラム3 297)

⑳-17鳥が飛び立つとき
監督:匿名 2021 28分(アジア千波万波)

こちらは同じミャンマーで、抵抗運動に興味は感じつつデモなどにも参加はするものの、どちらかと言えば軍事政権下でも自らの楽しみや生き方を追及し、映画作りをする若者たちの自画像的映画で、映画画面の中でクローズアップの顔の映像も名前も出てくるのに、その一人である監督は匿名だそう。エディターとか二人ぐらいは名前も顔もタイトルバックで出すということで、なんかウーン。軍事政権の危険の中で匿名にしたいというのはわかるが、映像自体は誰に見せるために作っているのだろうか。しかも監督は映画祭に参加して顔を見せつつ、ミャンマーの政治状況などについては質問しないでほしい、監督の登壇をそのことを記録したり、SNSに拡散したりはしないでほしいとのことで、後ろの方のオジサン「何のためにきたんだよ」とブツブツ。質問もそのことを意識しつつ遠回しに音楽は何を使ったのか(コピーフリーのネット素材らしい)、登場人物たちは顔を出すことにどういう意見を持っているのかとか、そんな質問に終始。監督自身はあとの「座談会」で「自分は軍事政権に摘発されても仕方がないと思っているが、友達(や家族?)のために匿名にした」との発言あり。

(付記)この座談会も「フィルムメーカーの経験交流の場にしたいので一般参加者を期待しない」旨の主催者発言あり、排他的で感じ悪いなあとも思ったが、興味を持っていた内容なので居座って聞いたのだが、内容的にはフィルムメーカーでなければ理解しにくいような内容もなく、香港や、インド(わが理想の国の監督)のフィルムメーカーの匿名にする、あるいは匿名にはせず自分を出して語るという決意はナルホドと思わせられ勉強になる。マーク・ノーネス氏からは「アクト・オブ・キリング」の話もあった。この会場にいた⑳-17の匿名監督青年もこれらの発言にはやや自分の無責任を感じたような発言あり。名を出して自分の業績にしたい側面と、政治の怖さとのはざまで揺れているのだろうなとも思う。 
(10月10日フォーラム3 298)

㉑-18あなたの微笑み
監督:リム・カーワイ 出演:渡辺紘文 平山ひかる 尚玄 2022日本 103分(アジア千波万波審査員)

昨年の東京国際映画祭公開だったらしいが未見。時間もちょうどありということで見てみた。ウーン。
映画監督渡辺紘文は映画祭受賞を果たすもその後オファーが来ず、家で閉塞した暮らしをしていたが、怪しげな?オファーがようやく入って沖縄へ。尚玄扮するそれこそ怪しげな社長から無理難題を言われるが脚本ができない(実はここまでの話はなんかかったるくて、みせるために演じているという感じが強くて必要かしらんとも思う)。
一転して彼は沖縄から北に向かい、各地の映画館を訪ね自分の作品大田原三部作?の上映を頼む(ほとんどは断られるが)旅にでる。後半はその映画館巡りのロードムービーで、(多分)実在の映画館主たちと半分実、半分虚のような虚実皮膜的な、半ドキュメンタリー的なドラマになる。まあ、はっきり言えるのは映画の売り込みの大変さと、映画館経営の大変さ、その中での館主たちの映画愛というところだろうか。平山ヒカルが、どの土地でも舞踊を介して様々な役柄でヒロインとして渡辺に関わっていくのも面白い設定ではある。しかし、やはり劇場公開を見に行きたいというほどには思わないかな…。(10月10日フォーラム3 299)

㉒-19風が肉体を破壊する(風推肉身)
監督:陳界仁 出演:李正豪  陸月嬌 2022-3台湾(中国語・客家語・台湾語)69分 (コンペ審査員)

モノクロ画面初めにスマホが現れ「期限切れ」ゆえ持ち主情報は当局のものとなるというようなアナウンスが流れる。新自由主義世界の多国籍企業社会支配のディストピアだそうだが、最初の方は廃段ボールのゴミ捨て場という感じでそこに横たわる人々、やがて歩き出し、後半は金網で囲まれた迷路のような収容所?を這っていく男、そこに繰り返しの音楽というより音響的な感じで音がかぶさり、倒れた肉体の空を説く?仏教的な詩編がかぶさっていく。歩き回る人々の真ん中には倒れて動かない人、それが最後まで続き人々はアナウンスで集められバス?に乗せらるるが生命維持装置が必要な人は申し出よとか…非常に演劇的というか舞踊的でもある詩篇(アート作品)として作られている。ドキュメンタリーと言っていいのかは疑問。(10月10日フォーラム5 300)

㉓ー20 リスト
監督:ハナ・マフマルバフ 出演:マフマルバフ一家 2023イギリス(英語・ペルシャ語)65分(特別招待作品・クロージング)

2021年国際駐留軍が撤退し数日でタリバンが復権したアフガニスタン。命に危険にさらされた芸術家たち(タリバンの横暴はいうまでもないが、そしてマフバルマフ一家の立場からすれば「芸術家」を救いたいというのは当然とも思うが、空港外の下水溝の中にたたずみ空港に入ることを求める大勢の人々の姿をみると、その中から芸術家だけがピックアップされるのはどうなのよ〜もちろん芸術の価値を認めないわけではないが、芸術家以外の人々には価値はないわけ??とついつい思ってしまった心の狭いワタシ…)を国外に脱出させるべく、ロンドンに住むマフバルバフ一家(おもにモフセン、息子のメイサムと娘のハナ(この二人が映画の製作と監督も務めている)がPCの前にい陣取って、逃がす人々のリストを作り、フランスの関係者や、アフガニスタン内部の支援者などと激しくやり取り、800人いた芸術家とその家族のうち270人(といったかな)を20人ずつとか少しずつ脱出させていく。マフバルバフだからできる?と思えないことはないが、そしてそれを映画で記録するのもまさに一家だからできることとも思えるが、そう思いつつやはりその緊迫を起こしているものに対しての抵抗の形として意義あると思わされる。しかしなあ、男性(夫)のいない家族は認めないとか、芸術家をピックアップ弾圧するとか、暴力支配の状況を世界はどうすれば克服できるのか…。そして緊迫した雰囲気の中で無邪気に遊び、ときにリストの用紙を運ぶなどしたり、落ち込む母?に「楽しくなる方法」を考えるなどの動きをするメイサムの息子(?父にそっくり)が緊迫を和ませるような効果を発揮しているのも家族映画だな。(10月11日山形公民館 クロージング上映 301)

㉔-21 ある映画のための覚書
監督・脚本:イグナシオ・アグエロ 2022チリ・フラン(スペイン語・フランス語・マプチェ語)モノクロ104分 (コンペ 優秀賞) 


19世紀末、マプチェ族の土地アラカウニアーはチリの一部にとりこまれる。そこにベルギーから赴任した技師ギュスターヴ・ベルニオリーは原生林の中で苦労して鉄道をひき箸を作るというような近代化の先鋒となるが、それがチリ化することであり、必ずしもマプチェ族に受け入れられるものではないことを知っていた?
映画はそのギュスターヴに扮した俳優が、困惑の極みといった風情でかつての原生林や、そこに作られ現代では廃墟化した建物の前に立ったりというようなようすと、同じ彼が現代のフツウの青年としてかつて抵抗運動をした人々の子孫であるようなマプチェ族の話しをきいたりする場面を取り混ぜ現代と過去(但し本当に過去を演じるのではなく、すでに廃墟化した現代の過去)を行ったり来たりしながら、開拓・開発者の視点と、それへの疑問、また開発のいわば恩恵も受けながら暮らしている現地の先住民族と、同じ人々がもつ抵抗的視点と矛盾もする両面から描いていき、間には明らかに過去に撮られたドキュメンタリー映像(現代人がどんなに扮装しても100年近く前の人々とはなんか雰囲気が違うのですぐわかるのがおもしろい)も交えながら展開していく、今まであまり見たことのないような視点で興味深く見た。映画祭で『自画像47KM 2022] と並び優秀賞を得た作品として追加上映の1本を見る。まあ、すでに見た人も多いのだろう、会場はそんなに混んでいない。私のすぐ後ろに足立正生監督がすわり、途中から寝息をたてていた。終わって『なんか難しい映画だった」とつぶやいていらした。フフフ。(10月12日山形公民館 302) 


    クロージングセレモニー:受賞者と審査員(左)女性が多かった受賞者(右)


そしていよいよ映画祭の合間の【蔵王山ある記】

10月11日 
山形駅前(6:50)→(バス)→蔵王温泉バスターミナル…蔵王ロープウェイ山麓駅→(ロープウェイ)・(ゴンドラ)…地藏山駅1644m(9:00)…地蔵岳1736m…熊野岳1839m…馬の背…刈田岳1755m(10:50)蔵王山頂レストハウス【昼食】…ほぼ往路を戻る(ただし、熊野岳・地蔵岳についてはまきみち経由)地蔵山駅(13:30) 
  
 3h43m 9.6km ↗414m ↘424m ペース0.9~1.0(ヤマレコ) 27000歩 
ヤマレコ・マップ:赤線部分4つの▲を歩いた

早朝の山形駅前バス停
6時20分にホテルを出て飲食街・アーケードを経て駅前バス乗り場1前に。ここから5分おきに仙台行バスが出ているらしく、すでに10人前後の人が待っていた。蔵王温泉行の前にも欧米人女性。                    定時6時50分発バス、最前列席。これは路線バスでPASMOでも乗車OK。穏やかな天気の中を7時半には蔵王温泉バスターミナルに到着。そこから15分だそうだが途中で工事回り道が合って気づかぬ間に変な方向に誘導され少しあせる。温泉地図で確認し、見つけた下湯という共同浴場の写真も撮り、道に戻って意外に早く(回り道でも10分くらいか)蔵王温泉ロープウェイ乗り場に。

ところが運行は8時半からとのことで、しばらく待つことに。自販機でジュースを1本(今回水は300のお湯テルモス1本と、すこし飲んだ500㏄1本(400くらい)それに250㏄のこのジュースだけだが、寒さ強風,、登り道の少なさであまり飲むことなし。8時半からロープゥエイ、さらに3分おき運航で10人くらいは乗れるゴンドラ(ロープウェイとは言っている)を乗り継ぎ、9時前に地蔵山山頂駅に到着。
         ↓地蔵岳へ      ↓頂上

仕度をして9時13分から歩き始める。朝のうち山の上はガスっていてたまに陽射しがあるという感じ。駅を出て広場のようになっている木道からすぐに直登やや急坂で地蔵岳の頂上に9時半には山頂。5~6人の男性グループを、ゴンドラで一緒だった女性が写真を撮ってあげている。この方も刈田岳まで、結構なスピードで歩いていた。
地蔵岳を下り、広々した景色を楽しんでいるうちにちょっとガスってきた…


途中から「近道」表示のある熊野岳頂上までは彼女が先を行くので先導されるような感じで歩くが岩がゴロゴロの、本日唯一の中級登山道という感じ。但し短くて15分くらいで熊野山頂上(10時7分 神社、避難小屋などがあり、広々している)に到着。10分弱写真を撮ったりはしたが特に休むこともなくゆったりした下り(近道ではないほうではここが上りになるらしい)。欧米人の女の子はこの近道は通らず、ちょうど山を下りた続きの馬の背にさしかかったあたりでまた一緒になる。                  熊野岳への岩の道→

熊野岳頂上神社
            馬の背へ         そしてお釜

馬の背から刈田岳をのぞむ
そのあとは広々とした馬の背、ここからはお釜のグリーンの池が大変よく見える。が、帰りは霧で真っ白。このあたりなだらかなゲレンデだが冬場は霧で非常に危険でもあるらしい。さらに進む火山ゆえに指定される避難場所が熊野小屋から刈田レストハウスに変わる。すでに先の方に刈田岳と麓のレストハウスもよく見える。
10時50分、刈田岳下。11時ごろ刈田岳頂上。ここもケルンが積んであり、神社あり。珍しく自撮りで写真を撮ったが、後で見たらなんと鏡像。ヤレヤレ。苦労したのに。刈田岳直下には立派なレストハウスがあり、登山者が休めるようになっているほか、レストランもありトイレも完備。ふつうにサンダル履きでも車やロープウェイで上がってこられるらしく、縦走してきたそれなりにものものしい登山者と軽装の観光客が混在している。
          刈田岳頂上神社      鏡像の自撮り写真(笑)

        頂上からのお釜  名物「釜かつ丼」釜は韓国の石焼ビビンバ用?

レストランに入り、名物釜かつ丼のjapanx(なんと1800円!)というのを食べる。特別なご褒美?のつもり。って何の褒美??だか…。ま、味は普通で、ハングルの刻んである「釜」に入っているのはシャレというわけだ。結局持って行った食べ物には手を付けず。11時半から12時までゆっくり休んで昼を食べ、さて帰ろうというところで、それまで陽射しが降り注いでいたのに急に陰り霧がわいてきた。熊に注意の看板もちょっと怖い!

最初ダウンベストをウインドブレーカーの下に着込んで歩きだすが、間もなく雨も…。で慌てて上だけ雨具を着込む。寒さ的にはこれで歩きやすくなったが、帰りはずっと怖いほどの霧の中歩行。行とは違い頂上には登らないう回路周りにしたが人はあまりいないし、道も(どこも道みたいで)わかりにいくいところもあり、けっこうこわごわと歩く。

12時40分熊野避難小屋の影、13時すぎ木道へ。13時半ロープウェイ駅に戻る。合羽だけ脱ぎ、ゴンドラロープウェイ、14時発のロープウェイと乗り継ぎ14時10分ごろ下のロープウェイ駅に戻る。下りはあまり写真を撮る余裕もなく、霧と強風の中をただ急いだという感じだが、それでもところどころ色づいた黄葉・紅葉を楽しむ。

   ↑ロープウェイ駅もガスの中
          蔵王温泉の街      これはまだ夏のゲレンデ

       ロープウェイ下からみた蔵王山塊

行きと同じくゴンドラとロープゥエイを乗り継いで蔵王温泉に戻り、さて!というわけで、朝みつけておいた共同浴場に(協力金200円)。定員5人でという小さなお風呂だが、、硫黄のにおいも強い白濁したいかにも温泉。とはいえ、あまりの熱さにちょっとつかって汗を流したくらいで、後はお土産屋を覗いたりしながらバスターミナルへ。1時間に1本のバスは15時20分。またまた最前列に座って山形駅にに16時には帰着。
そのあと17時からの映画祭クロージングを見に公民館までという、なかなかにハードスケジュールの1日でした!
スキーでは何回か行った蔵王でしたが、この季節ゆったりと歩けてシアワセ!でした。

以上長々のお付き合いありがとうございました。
10月はいよいよこれから東京・中国映画週間、東京国際映画祭と怒涛の映画デイズにないます。山もいくつか予定してます。今後ともよろしく!


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