【勝手気ままに映画日記】2022年11月
なんとか会った富士山にはカサがかかっていたけれど…敬意を表して@太刀岡山11・13 |
紅葉も終わり?霞んでいる… |
11月の山歩き
11月13日 南峰(1296m)〜太刀岡山(1322m)〜鬼頬(おにがわ)山(1516m)
〜黒富士(1633m)〜升形山〜八丁峠 8.4Km 6h44m
甲府まで電車、タクシーを乗り継いでの縦走登山。天気は下り坂ということだったけれどなんとかもって2時半ごろからパラパラと雨でしたが、下りてくるともう止んでいてホ…。
11月28日 高尾山口〜6号・稲荷路を経て紅葉平・一丁平〜小仏城山(670.4m)〜相模湖
9.7Km 4h47m(斜度が緩いこともあるが単独だとどうしてもペースが上がるよう)
曇り(ときに薄日がさす)で、富士山には会えず。でも前回最後の紅葉かなと思っていた紅葉はしっかり、たっぷり楽しめました。久しぶりの単独歩きも…
11月の映画
①ヒューマン・ボイス②愛する人に伝える言葉③ルオルオの怖れ(洛洛的恐惧)④自画像:47KMのおとぎ話(自画像:47公里童話)⑤ワンセカンド チャンピオン(一秒拳王)➅同じ空の下(一様的天空)⑦チャイニーズ・ゴースト・ストーリー 2Kデジタルリマスター版 ➇サンシャイン・オブ・マイ・ライフ(一路瞳行)⑨アフター・ヤン ⑩窓辺にて⑪Yokosuka1953 ⑫パラレル・マザーズ ⑬千夜、一夜 ⑭言語の向こうにあるもの ⑮怖れと愛の狭間で(誠惶(不)誠恐、親愛的)⑯夜明けまでバス停で ⑰ある男 ⑱素顔の私を見つめて(愛・面子)⑲中国娘(中国姑娘)⑳小さな村の小さなダンサー(最后的舞者 Mao’s Last Dancer)㉑ペルシャン・レッスンー戦場の教室 ㉒ザ・メニュー ㉓擬音 ㉔パンと塩 ㉕ポルミッションーパスポートの秘密 ㉖メイクアップ・アーティスト・ケヴィン・オークイン・ストーリー ㉗武漢、わたしはここにいる(武漢、我在) ㉘ ショパン 暗闇に囚われることなく ㉙EO ㉚シスター 夏のわかれ道(我的姐姐) ㉛土を喰らう十二ヵ月 ㉜ザリガニの鳴くところ
何ともはや、見たりも見たり32本!映画祭シーズンが今年はまだまだ続いているよう。以下の特集上映、未見だったり興味をひかれたものだけピックアップして見たのですが、それでも忙しかった11月です。
山形in東京・ドキュメンタリー・フィルム・ドリーム・ショー ③④⑭⑮㉗
香港特別行政区設立25周年記念映画祭⑤⑥⑦⑧
中国映画上映会(特別上映)⑱⑲⑳
ポーランド映画祭2022 ㉔㉕㉘
中国語(圏)映画 ③④⑤⑥⑦⑧⑮⑱⑲⑳㉓㉗㉚ 13本、中国語圏映画の多様性感じました。 日本映画 ⑩⑪⑬⑯⑰㉛ これもけっこう頑張った!
例によって★なるほど! ★★ いいね! ★★★ おすすめ! あくまで「マイ好み」ですが…。末尾は今年映画館で見た通し番号です。
①ヒューマン・ボイス
監督:ペドロ・アルモドバル 原作:ジャン・コクトー 出演:ティルダ・スウィントン ダッシュ(犬)2020スペイン(英語)30分 ★★
最初はコンクリート打ち放しのような部屋(舞台?)にたたずみ、歩く大きなスカートが広がった真っ赤なドレスのティルダ・スウィントン、次いで黒いドレス、そしてグリーンも鮮やかなタイトル・出演者名などの飾り文字の字幕、次は彼女は真っ青なパンツスーツで犬を連れ、金物店に入って手斧を買う。さらに家に戻り今度は真っ赤なニットのパンツスーツ、そのままベッドに倒れ込み眠る彼女を電話の音が起こす…。そのあと赤いニットのまま髪に水をかぶった彼女は赤っぽい模様の透けた部屋着になり、そこから別れて行こうとする男(姿はもちろん見えず)の電話会話で話が進んでいく…というわけで目にも鮮やかくっきい、声もくっきりはっきりと別れの悲しみや、怒り、こらえたり本音が漏れたりという起伏をたった一人で演じる役者の力をまざまざと見せつけられて印象の深い、インパクトの強い30分。必見というわけではないだろうが、見て損はないという気持ちにさせられることひとしお(値段も一律800円だし…) (11月4日 ヒューマントラストシネマ有楽町257)②愛する人に伝える言葉
監督:エマニュエル・ベルコ 出演:カトリーヌ・ドヌーヴ ブノワ・マジメル ガブリエル・サラ セシル・ド・フランス2021フランス(フランス語・英語)122分 ★
賞を撮ったというブノワ・マジメルの末期がんの患者の演技のすさまじさというのも特筆に値するが、この映画に深みを与えているのは、実際に現役の癌専門医であるというガブリエル・サラの患者への言葉かけとか、あるいは病院職員に対して実施する終末医療に関するレクチャーというか職員一人一人が考え発言し最後は彼の伴奏で皆が歌うというような場面まであるワークショップ、もう1つはプロの俳優としてのブノワ・マジメルが演劇コースを受験する若い学生たちと行う演技のワークショップで、どちらも物語を越えたプロとしてのリアリティに満ちて、この映画が求めている生き方・死に方をまさに体現している説得力があった。
母にある意味支配されてきた39歳の男が末期がんになり、死ぬまで…そこに母の悔恨や焦りや、そして若い時に母のいわば介入で別れざるを得なかった恋人との間にできたまだ見ぬ息子との出会い(があるかどうかというハラハラ)だけでは、やはり物語としては薄っぺらい?難病ものという感じを否めないが、これらの医師や(そのワークショップを受けているプロとしての看護師の対応ー(これもそのワークショップがなかったら単なる好意の発露で看護師の職域を越えているのではないかとも思わされるような)そして主人公自身の演劇教師としての学生への向き合い方などが丁寧に描かれることにより、悔恨も多い人生の中で自らの、また親しいものの死を許容していくことの意味を考えさせられた。愛する人に伝える言葉は「許して、私は許す、愛してる、ありがとう、さようなら」なるほど、これは忘れまいとも思わされる。(11月6日 新宿ピカデリー258)
③ルオルオの怖れ(洛洛的恐惧)
監督・撮影・編集・録音:洛洛(羅紫月)製作:章梦奇 2020中国(四川方言)85分 ★
5日から始まった「山形in東京22ドキュメンタリーフィルム・ドリーム・ショー」は昨21年オンラインで行われた山形国際ドキュメンタリー映画祭の演目の劇場上映特集。その1本目として見る。
コロナ禍の20年1月ごろからの、作者(60歳?退職後)とその父(90歳)とが暮す四川省米易の自宅内だけにカメラを据え、外出のできない(父はそれでも外出するが、遠くに行くな、繁華街に行くな、モノに触るな、帰ったら消毒をとうるさく世話を焼く娘)状況の中、父は日課として自叙伝を書き、娘は母を亡くした頃や反右派闘争時代からの父の歴史を聞き出そうとする。娘(作者)はワークショップでつながった全国の仲間とのオンラインでの会合を楽しみにし、中国地図の上で8~9人の彼らの居住地を探すーそれらの地点にいる友人たちの映像がかぶさるところが、この映画唯一のアート志向というか映像工夫の面白さかな…高齢者を抱え異様なほどにコロナや閉塞的な暮らしにおびえる娘と、意外に淡々と状況を受け容れテレビでのスポーツ観戦や自叙伝執筆や散歩もして動じない父の対比がなるほどな感じ。60代は若く社会とのつながりを確認しなくては生きられず、90代では自らの生活範囲に生きがいや楽しみを見つけらえれば生きられるということなのかな…と思う。だんだんそうなって行きつつある?いや、そうなって行きたいななどとも思うのであった。
この作者は退職し、子どもたちも独立し、父との暮らしの中で映画にも出てきたワークショップ・グループに参加する中で映画作りをはじめて学び(それも2020年から!)初めて作った1本だという。それはほんとにスゴイ!映画の中では、父の耳が遠いこともあり怒鳴るような大声で、むしろ支配的に父の世話を焼く娘としての彼女と、ワークショップに参加し、PCに向かい、あるいは父の話を録画しながら聞き、また家の中でヨガというかダンスまがいで体を動かすシーンの表情や、身の動かす仕方にまですごい落差があって、それも同じような世代?の女としては興味深いところだった。(11月8日 新宿K'sシネマ 山形in東京2022 DFDS 259)
④自画像:47KMのおとぎ話(自画像:47公里童話)
監督:章梦奇 撮影:章梦奇 方紅 丁琪軒 出演:方紅 丁琪軒 雷金婷 2021中国(湖北方言)109分 ★
2009年からの連作、いつも山形で見てきた「自画像:47KM」の9作目(私が見たのは16年の山形ぐらからなので後半4作ぐらいしか見てはいないのだが)。今回は最初のころ幼かった方紅は16~17歳になってすっかり大人びて、広州に出稼ぎに出ている姉の幼い娘(年長組)雷金婷の面倒を見ながら、今回は小型のカメラをを抱えて撮影もしている。もう一人の撮影組は監督の親戚なのだろう丁琪軒(元は伯父伯母の部屋だったという監督の居室で一緒にベッドに入っているシーンもある)。彼女は祖父に「大学に行くまでにあと何年あるか?」と聞かれ祖父は今植えている樹木の苗木が、その学資になるから自由に使えと孫娘に言う。赤い衣服の雷金婷(好きなことはゲームとか。中国子役層の厚さを感じさせるような素朴にして芸達者な面白いキャラクタだ)は何度も「丁奇奇が家を建てる、その青い家には、テレビ、スマホ、冷蔵庫、テーブル、椅子、本、ノートがある(あるものは歌うときによって少し変わるのだが)」と大声で歌い、子どもたち、男の子も含む何人かは丁奇奇(これが作者の本名なのだろうか?)の声掛けで新しい「夢の家」の庭の絵を描いたり。それを周囲の大人たち(おもに祖父母世代)が暖かく見つめる、という感じで、今までの「自画像47KM」シリーズから見ると、ぐっと明るく、ぐっとわかりやすく、観念よりも感覚が前に出てきたような、ある意味「フツウ」の作品になった。それは彼女が「夢の家」を建てて村人の文化の拠点としたいと考えるような、彼女自身の変化と成熟?またそれを受け容れつつ変容してきたーそして豊かにもなってきた―村や村人たちを物語るものでもあるのだろう。トンガっていたり、中にコチンと芯のあるような、木々に飛ぶカラスの群れとか、寒々とした荒野のような村の風景がそれにマッチしていた過去のシリーズ作品のその硬さ・鋭さにあった魅力は薄れたが、それが成熟と感じさせられもする。ーこの傾向は7作目「スフィンクス」8作目「窓」とやはり徐々にその傾向を強めてきていたものではある。章梦奇ももはや30半ばすぎだ。(11月8日 新宿K'sシネマ 山形in東京2022 DFDS 260)
⑤ワン セカンド チャンピオン(一秒拳王)
監督:趙善恆(チウ・シンハン) 出演:エンディ・サーウグラクイン(周國賢)チャノーン・サンティナトーンクン 林明禎 2021香港(広東語・北京語)98分
生まれた時に1秒仮死状態になったことから1秒先が読めるようになり「1秒神童」と呼ばれた少年が、それを特技としては行かせぬまま大人になり、難聴の息子をもって、ひょんなことから1秒先を読むことによりボクシング選手として成功するが…またまた息子がらみで交通事故に巻き込まれ、その能力を失う。しかし息子のために一念発起、1秒先を読まない普通の選手としてチャンピオンと戦うという、まあ父子情+スポコンの物語としてはマンガっぽいというか他愛ない話ではあるが、とにかく体を鍛えボクシングを学んで(出演もしている監督は3年間やったんだとか)撮影したというボクシングシーンの迫力は見もので、まあそれだけが見ものかな?台湾出身?の女優は北京語で会話しながら笑いヨガの講師の役で、まあこれもあまりいる意味は分からない存在なのだが、画面に花を添えているというところ。 (11月11日文化村ルシネマ 香港特別行政区設立25周年記念映画祭 日本初上映 261)主演女優・監督のトーク |
➅同じ空の下(一様的天空)
監督:ダニエル・チャン(陳靖恆)ティム・ブーン(潘梓然)エルビス・ハウ(侯楚峰)サニー・イップ(葉正恆)出演:ケビン・チュウ(朱艦然)イヴァナ・ウォン(王尭之) セ・ソウ(石修)チュウ・八ッヒム(朱栢謙) 2022香港
4人の新人監督が共同監督、香港4大映画会社が製作し、香港返還25周年作品と銘打った4本のオムニバス映画。1本目は作業所に通う自閉症スペクトラムの青年のアートへの目覚め(1997)、2本目はサース禍の香港で船乗りの父と新しい仕事をしようとする息子の確執と和解(2003)、3本目は病に冒された広東オペラのベテラン歌手と、新進の歌手・作曲家とそのグループのコラボ(2012)、4本目は獅子舞のチームに入るネパール移民の青年の物語(2021)と返還後の4つの時代の物語として、その4つをいわば狂言回しとして、福祉作業所の新米職員・息子を落ちた穴から助ける男・レコード会社ディレクター・そして獅子舞協会の会長としてケビン・チュウがつないでいる。1本1本はそれぞれに渾身の力をこめて作られた感じはするが、選ばれた時からいっても、どれも困難はあっても頑張れば道は開ける夢はかなうというコンセプトにのみ貫かれ、香港は「祖国復帰した」というスタンスなので、この間の庶民の苦しさとか中国の弾圧的政治のありようとか、もちろん雨傘革命を含む市民運動とかがある香港とは別世界として描かれているのは、香港特別行政区設立25周年記念映画祭と銘打ったこの映画祭の主旨からいってもやむないとは言いつつ、ウーン、今後の香港映画の進む道としても、なんだかなあという気がしてならない映画だった。
2人の監督が登壇 |
(11月11日文化村ルシネマ 香港特別行政区設立25周年記念映画祭 日本初上映 262)
⑦チャイニーズ・ゴースト・ストーリー 2Kデジタルリマスター版
監督:程小東 出演:張國榮 王祖賢 午馬 1987香港 広東語 100分
DVDなどでは何回も見ている映画だが、初めて日本で公開された89年ごろは、まだ香港映画やレスリー映画を劇場に見に行く習慣はなかったはずなので、多分劇場公開は私にとっても初めてかなと思い、満席のル・シネマへ。出だし懐かしい映像のなかにいまさらながらレスリー・チャンのコメディセンスにも感心しつつ、思い出を味わうという感じで見ていたが、なんかとんでもないところで客席から笑い声が上がったりして、驚きつつ、映画の見方も時を経て変わったのだなとも思ったり。そして後半、幽霊相手のアクション的場面が続く、となった時に、なぜか私自身もちょっと気分がダレてしまった。若い時には感じなかった、なんか、こんな他愛ない?ストーリーだったっけ?そう思ったのはもしかこちらの体力不足?と思わないこともないのだが。(11月12日文化村ルシネマ 香港特別行政区設立25周年記念映画祭 日本初上映 263)
➇サンシャイン・オブ・マイ・ライフ(一路瞳行)
両親が視覚障碍者だという監督自身の体験から作られたということで、あまり大げさでもなく、あえて社会に声をあげる側面を強調するのでもなく(しかし、そういうシーンはちゃんとあって視点の存在はしっかり感じさせる)リアリティのある映画に仕上がっている。
➇サンシャイン・オブ・マイ・ライフ(一路瞳行)
監督:ジュディ・チュウ(朱鳳嫻)出演:カラ・ワイ(惠英紅)カリーナ・ン(呉千語)ヒュー・ゴン(呉岱融)2022香港96分 ★★
両親が視覚障碍者だという監督自身の体験から作られたということで、あまり大げさでもなく、あえて社会に声をあげる側面を強調するのでもなく(しかし、そういうシーンはちゃんとあって視点の存在はしっかり感じさせる)リアリティのある映画に仕上がっている。娘役のカリーナ・ンも好意を感じさせる熱演だが、なんといってもうまいのは母役のカラ・ワイ。単なる聡明な母ではなく、失敗もしたり娘に疎んぜられるのも無理ないー何しろ入試面接の直前に呼び出しが来るーというような側面を見せながら、しかし娘への愛や、成長への期待を感じさせるお母さんで、まるでほんとに目が見えないみたい。娘の出生が80年で、物語の設定が90年代後半というのもうまい。ここでは携帯がまだ普及せず、若者がポケベルで呼び出しをするというような状況が(実話なのかもしれないが)映画によく生かされて、もし現代の目が見えなくても扱えるようなスマホの時代ならば、また物語は違った展開をするのだろうなあとも思わせられる。エンドロールは出演者と、実父母の同じような場面の写真を並べているが、これはあざとい感じ(但し実のお母さんの歌っている場面は、なかなか素敵)時代も社会も越えて成立するようなドラマは万人に受け入れやすいし、現代香港でも製作しやすいテーマなのかなと思ってしまうような、これも優等生映画、ではある。(11月12日文化村ルシネマ 香港特別行政区設立25周年記念映画祭 日本初上映 263)
⑨アフター・ヤン
監督:コゴナダ 出演:コリン・ファレル ジュディ・ターナー=スミス ジャスティン・H・ミン マレア・エマ・チャンドラウィジャヤ ヘイリー・ルー・リチャードソン 2022 アメリカ ★★
画面は全体に暗めで見にくい。単に撮影の志向の問題というより、例えば、家の中の夜の暗さ、本当に小さなランプとか暗めの灯りのスタンド一つくらいの中で、夜なべ仕事?PCいじりとか、ビデオをみるとか?そういう登場人物の生活志向自体が、明るい中で物を見ないとやっていけないというような老いた目での暮らしからすると、ウーン。暗闇の中に立つ人々―特にアフリカ系の妻などは彼の表情も全然わからない、というか登場人物は概して無表情(ただしトップシーンのファミリーダンスシーンだけは別?顔はそんなにあからさまではないけれど、体の動きに個性のでている登場人物の面々の家族のダンスは印象的)のだが、それがこの映画の静謐というにふさわしい雰囲気を作り出しているのも確か…。
物語初めの数シーンで家族につくすという感じで静かに暮らして入るロボット(字幕では「テクノ」)のヤンはすぐに故障で動かなくなり、養女のミカは茫然自失、父親のジェイクは中古のこのテクノを直すために奔走する。その中でヤンに内蔵されたメモリーの存在がわかり、そこに映し出される映像をヤンの記憶として追っていく…というのが中盤から。話はジェイクとヤンのお茶に関する話とか、カイラとの死後の生?(終わりが始まり…というような)の話とか哲学的考察というか、人が生きることとその終わりをテクノの「生」と「死」に重ねて、クローンやテクノが生きて人と共存するようなSF的世界を精神的なものとして描いているところ、坂本龍一のテーマ曲、全体に流れる音楽性、そして「リリイ・シュシュ」のメロディとも重ね合わさって、じっと心が静かに沈潜していくような最近には珍しいような映画世界が展開された感じ。なぜか少女の中国語セリフだけが字幕化されないのは??単に「お兄ちゃん大好きだったよさようなら」という兄への訣別の挨拶に過ぎないのではあるけれど。(11月14日 立川キノシネマ 264)
⑩窓辺にて
監督:今泉力哉 出演:稲垣吾郎 玉城ティナ 中村ゆり 若葉竜也 志田未来 松金よね子 2022日本 143分 ★
フリーライター市川茂巳は賞を取った高校生作家久保留亜とインタヴューから知り合う。編集者の妻・紗衣は担当する流行作家の荒川円と浮気中。茂巳の友人、引退を考えているスポーツ選手有坂正嗣(マサ)もある女性と浮気中。妻の浮気を知ってもショックを受けない自分にショックを受けたという茂巳を厳しく糾弾する。茂巳は留亜の書いた小説のモデルとなった人物のほしいと思ったものを手に入れては簡単に捨てるのに興味を持ち合わせて売れるように頼む。留亜は自分のBFと伯父を茂巳に紹介。また茂巳は時にケーキをもって紗衣の母を訪ね、彼女の写真を撮ってアルバムにしている。そんな話なのだが、これがほぼすべて「対話」によってーそれは居酒屋や喫茶店だったり、居間やベッドの上だったり、山荘のベランダとか様々な場所ではあり、一部は3人、4人で行われる会話であったりはするがほとんどは2人での対話シーンで進んでいく。その内容も心理的な打ち明け話的なものから単に雑談に聞こえるようなものだったりなのだが、とにかく常にあまり動きのない対話シーンというのが、ちょっと驚き。しかも長い…、これで眠くならないのが不思議なくらいの吸引力もあるのが、本当に不思議な映画。静的で受身芝居が多いのだが、稲垣吾郎の不思議なオーラ?にもよるのだろうか。その不思議さが、東京国際映画祭の観客賞受賞にもつながった??夕方からの家近のTOHOシネマズでポイント鑑賞(11月15日 府中TOHOシネマズ 265)⑪Yokosuka1953
監督:木川剛志 出演:木川洋子 Shana Mountcastle Jason Mountcastle ナレーション:津田寛治 2021日本 108分 ★
日本女性と米兵の間に横須賀で生まれ、1953年に養子縁組によってアメリアにわたった女性バーバラ・マウントキャッスルの娘から、フェイスブックを通じ空襲や戦争孤児の研究をしていた研究者木川剛志(監督)にメールが届く。母の日本人としての姓が「木川」であることから、同じ木川姓の監督に伝手がないかを頼ったものだったのだが、木川監督自身がもともとこのような問題に興味も持ち、また調べる方法(やそれを映画にする方法)を知っていたという意味でこれって稀有の運のよい出会い?と思われた。木川監督はバーバラ(洋子)をアメリカに訪ね、その意向を確認したうえで日本での親族・知人探しをし、彼女の実母のその後までを突き止める。前半はその過程、そして後半、クラウドファンディングであつめたという資金によって来日する洋子とその家族(娘と息子?)の1週間の日本滞在で、監督が突き止めた横須賀の木川家の昔を知る人々、洋子の母を知る人との出会い、また洋子自身がいた孤児院を訪ねたり、母と散歩した海岸を歩き、最後は母がその後嫁いだという八王子に行き母の墓や、生前の勤務先のパン屋を訪ねたり、知人に会ったり(再婚した母には洋子の後には子どもはいなかったのかな?)してアメリカに帰るまでを丁寧に描き、洋子自身や周りの人々が語る。アメリカでの生活があまりシアワセではなかったらしい(とはいえ、子どもには恵まれているよう)洋子にとっては日本や日本の実母は決して恨みの対象ではなく望郷の感もあり懐かしみしか口に出さないし、出会った母を知る人々木川一家を知る人からも「いい人だった」というような言葉しか出てこないのとはうらはらの、混血児が差別の中でアメリカに引き取られたとか、堕胎された嬰児の骨や墓の存在が語られたり、当時の女性の置かれた立場、現在でこそ同情的に語られこそすれ当時にはひどい差別や生きづらさがあっただろうことも容易に想像できるような語り口で、この映画がいい人と出会って長年の苦しみから解放された女性の話というようなものではなく裏も表もあるような複雑な背景の中にあることを感じさせられる。そのことは雑音・騒音の上に登場者の語りが入るというような一見うるさく雑に感じられる音響とか、またバカに音が大きく、語尾の「た」が跳ね上がるような―押しつけがましい感じもする―津田寛治のナレーションにも込められている夾雑感なのであるかもしれない。(11月16日 新宿K'Sシネマ 266)
⑫パラレル・マザーズ
監督:ペドロ・アルモドバル 出演:ペネロペ・クルス ミレナ・スミット イスラエル・エルハルダ アイタナ・サンチェス=ギョン 2021スペイン・フランス 123分 ★★
40歳目前のフォトグラファーのジャニスと17歳の高校生?アナ、ともに妊娠し同じ日に同じ病院でシングルマザーになる。ところがジャニスの子どもの父(法人類学者で内戦時の犠牲者の墓の発掘に奔走する)は子どもが自分にも誰にも似ていないので自分の子ではない?と疑いを持つ。ジャニスはDNA鑑定に踏み切り、子どもと自分は血縁関係がない(同日の病院で取り違えられた?)ことがわかる。いったんは子どもを自分のものとしたいとアナに教えた電話番号も替え連絡を絶つが、1年後、偶然自宅近くのバルで働くアナと再会、アナの子どもが突然死し、彼女は女優業に邁進し、自分を顧みない母の家を出たことを知る。ジャニスはアナをベビー・シッターと家事見倣い?として雇う。と、このあたりは自身の子が実はアナの子ではないかと疑いつつ、子どもを手放したくはないジャニスの心境とみると少し不可解・不自然な気もしないでもないのだが、ペネロペ・クルスの援護は説得力があって迷いつつ、アナを娘の実の母であると認めるべきだという心情をも納得できるような演技。また妊娠中はダサいというか鈍重な感じの女子高校生にしか見えなかったアナが、子を失い母から自立したあとのすっきり・しゃきっとした立ち姿のボーイッシュとも言える身軽さ・素敵さは特筆に値する感じで、彼女たちが「パラレル」からクロスし、やがてジャニスの打ち明けによってアナが子どもを連れてジャニスの家を出ていくが、さらにいったんは平行に戻ったような関係が改めてクロスして、最後の場面では娘を抱いたアナと、ジャニスが寄り添うーそこに自らを振り返る力を持ったアナの母も和解していくというのは(べたべたはしていない)なかなかにすごい終わり方なのだが、そこに行くまでにジャニスが娘の父となった男の力を借り内戦時代に虐殺された祖先の墓(となった穴)を発掘しするという、一家の期待も担った祖先への旅をするということが絡んで、母たちの関係が閉鎖的にクロスしていくようには描かれないところが、さすが。アナの娘にしてジャニスの娘でもあったセシリア、亡くなったジャニスの生んだ娘、そして新しく終盤でジャニスの中に宿る新しい命が、それぞれ個別に閉鎖された母子関係ではなく、スペインの負の歴史も背負いつつ新しい時代に向かう子どもたちという共通性というか、共感も感じさせるような構造になっていて、単なる母子愛憎劇みたいになっていないところがとても面白い。ここにあるのは真実はあくまでも追及されるべきだという思想であろう。アルモバドルの色彩はジャニスの赤い衣装がダーク系に、ダーク系だったアナの髪が金髪衣装も赤も入ったスポーティなものに変わっていくあたりにも健在だ。(11月16日 新宿シネマカリテ 267)
⑬千夜、一夜
監督:久保田直 出演:田中裕子 尾野真千子 安藤政信 ダンカン 山中崇 小倉久寛 田島令子 白石加代子 長内美那子 2022日本126分
見たい映画というより、久しぶりに再開した入院中の母の面会にあわせてのアルテリオ映像館(新百合丘)での映画鑑賞再開というわけで、ちょうど時間の合ったこの映画を見ることにしたのだけれど…。
舞台は佐渡、30年失踪したままの夫を待ちながら一人暮らす若松登美子(田中裕子、イカをさばく仕事をしているのだが、これがまた、抜群にいい手つき)、彼女の結婚前からからずっと好きだっと言い寄る漁師の春男がいるも相手にせず、そこに夫が2年前にいなくなったという看護師田村奈美が訪ねてくる。彼女は夫の特定失踪者(北朝鮮に拉致されたとみなされる失踪者)の認定を求めるが、それは実は夫を探すというより、夫と離婚して新しい生活を求めるためであった、というわけで二人の女性の生き方を芯に、彼女たちの喪失や「待つ」「待たない」思いなどの感情を描いていくというもので、ウーン、前半は春男の激情や、その母(白石加代子)の迫力、また、老いた母の世話する登美子とその母の死、元役所勤めで寝たきりの妻の世話をしながら失踪者の家族の相談に乗る男(小倉久寛)などが印象には残るが、画面的には海辺の普通の暮らしという感じで前半はちょっとかったるい感じもした。物語は、夫の母の葬儀に街に出た登美子が偶然に奈美の夫を見て声をかけるところから言ってみればドラマ的?展開をするが…雨の夜家に泊めた奈美の夫の前で登美子が他人には見せなかった待つ思いを吐露する場面など、なかなかにうまくは作っているけれど、これって誰に見せる映画?という感じもしないではない。文芸作品というほどの厚みはないように思うし、かといって失踪者に反省を迫る?とか、失踪者の家族が共感するための映画ということでもないし、どちらにも幸いにも関係のない私たちに、関係ないことではないだろう?と迫るほどの社会性で貫かれているわけでもないし、要は田中裕子の演技を見てくださいという映画なのかも…(11月17日 川崎市アートセンター・アルテリオ映像館268)
⑭言語の向こうにあるもの
監督:ニシノマドカ 出演:ニコール・ブロンド― フェルージャ・アルアーシュ パリ第8大学の学生たち 2019フランス・日本(フランス語・英語)97分 ★★★
パリ第8大学の「外国語としてのフランス語」講座の授業の1年間。ニコールというベテラン教師(「答えは言うな」が口癖?)と、その教え子で自身アルジェリアから10歳で移民してきたというフェルージャ(機関銃トーク)が、フランス語を母語としないさまざまな人種・民族・宗教の学生たちに対して、フランス語を教えるのだが、これがものすごく刺激的。「執筆活動(というか、広い意味での表現活動という感じ?とジェンダー」「文学から映画へ」というようなテーマを据え、学生たちは調べ、発表・発言し、討論をしていくが、教師たちは単に発言内容だけでなく基本的な文法とか声の大きさとかも含め、それが言語表現としてどのように行われていくかということについて常に厳しい指摘や指導をする。
考えてみれば語学教師として自分もけっこうに多様なテーマを掲げ、それなりに社会の在り方と言語の習得(表現も含め)を関連させ、学生に問いながら授業はしてきたつもりだが、常に彼らの表現力と表現内容のどちらに重きを置いたらいいのかについて悩み続け、語学教師としては表現内容(思想)に関して甘い指導しかできなかったかなという反省がある、その意味でこの授業の徹底性はうらやましいほどに思われた。
一場面一場面がすごく刺激的な討論に満ちているが、場面的には教室の中だけで、学生一人一人の1年間の変化などは見にくいし、繰り返し的な感じもあって、その意味でちょっと97分にしては長く感じられたのが、難しいところだが残念。監督ニシノは自身がこの教室の何年か前の学生であったとかで、戻って映画を作ったのだとか。なんという幸せな出会いだろう。(11月18日 新宿K'sシネマ 山形in東京2022 DFDS 269)
⑮怖れと愛の狭間で(誠惶(不)誠恐、親愛的)
監督:麥海珊(アンソン・マック) 出演:張嘉莉(クララ・チョン)黄照達(ジャスティン・ウォン)張婉雯 2020香港106分 ★★
出だしは香港の暗い海で、そこにいくつかのモノローグがかかり、けっこう長い。それがいつまで続くのかと思うと、明るい香港の街角で、1000個の卵を並べて自分の体でそれを割るというパフォーマンスをする女性。多分彼女なんだと思うのだがアーティストのクララ・チョンはその後立法院の選挙に立候補し社会の民主化を訴え、また、人々の相談に乗るようなアート・スペースを展開している。彼女は香港に居続けると宣言し、しかし子どもたちには外に出る選択肢も用意したいという。このような作者自身のインタヴューのあと、場面は黒衣で街角で踊る女性の不安の迫力とでもいう感じに満ちた姿を2回にわたって挟み真ん中は男性の大学の芸術教師であり政治マンガを書いているというジャスティン・ウォン、そして最後は中国語教師であり詩人・文学者としても活動するチャン・ユンマンと3人へのインタビューで綴った、2019年ごろ、幼児から小学生ぐらいの子どもをそれぞれもつ30代(から40だいにさしかかるくらい?)の香港人の恐怖と自由についての言説集。
3人ともやはり、子どもを持ったということが、自らの恐怖の質や、そこから発する行動を変え、あるいは決意を変えているということを、自身の行動やアートの活動を通してこもごも語る。本人たちももちろん今後の香港での安全や自由が保障されているわけでっはないのだが、その恐怖もともかくとして、とりあえずは自らの香港での生き方を定めた人々である。しかしその子たちは偶然ここに生まれ、この先どんな社会を生きていくのかというのは親としては悩ましいことであろう、そこに定めて、しかも案外さらっと描き出した視点に敬服。監督自身は50代に入った音響・映像の研究者で大学教師だとか。そういう知的な感性があふれた映画という感じがする。(11月18日 新宿K'sシネマ 山形in東京2022 DFDS 270)
⑯夜明けまでバス停で
監督:高橋伴明 出演:板谷由夏 大西礼芳 三浦貴大 片岡礼子 ルビー・モレノ 筒井真理子 根岸季衣 柄本祐 柄本明 2022日本91分 ★★★
夜8時半からの開始はちょっとつらい。しかもこの日3本目。最初あまり見る気はなかったのだが、映画館にきてから座席検索をしてみるとかなり埋まっていて、あら、こんなに見たい人が多い映画なのだと、急遽チケットを取った。ホームレスの女性が石で殴られて亡くなった、いわゆる幡谷バス停事件に材を取り、男がバス停で寝ているヒロインに石を持って近づくシーンも2度にわたってあるが、設定そのものは全くの創作で、ヒロインが知り合ったかつてクリスマスツリー爆弾を作り刑務所に入ったバクダンと呼ばれるホームレスの男と一緒に新たに爆弾を作るというあたりは、いかにも70年代・80年代あたりから活躍する作者らしい、老練の手管という感じがする。一方、ヒロインが働き、クビになる居酒屋の店長女性と、その恋人でチェーンを統括している?マネージャー(三浦貴大が、今までの好感度の高い青年から、体型までもがだらしない中年に差し掛かった権高なセクハラ男で、これも新境地と言える?)には現代的なセクハラ・モラハラ的な労使関係も描かれて、そこで苦しみ、クビになったパート店員の心情に寄り添う店長、それらの関係にヒロイン自身が、ホームレスになる以前に打ち込んでいたアクセサリー製作の仕事が絡んでいるのも、なかなか説得力がある作り。あの『月はどっちに出ている』(1993崔洋一*)でキャピキャピだったルビー・モレノがフィリピンから35年前に来日し、結婚するも夫にも娘にも去られて孫を3人一人で育てる皿洗い担当というのも、びっくりだが、コロナ禍でさらに周辺に追いやられた人々の問題をきちんと救い上げている感じ。そしてそれでいながら最後、まっとうな生き方には救いがあるような描き方をしているのも、娯楽映画としての流れを踏み外さず、なるほどの、さすがの出来栄え。
(11月18日 新宿K'sシネマ 271)
(11月18日 新宿K'sシネマ 271)
*月末、崔洋一監督の訃報…ことばもなく時の過ぎる速さを感じるのみ。
⑰ある男
監督:石川慶 出演:妻夫木聡 安藤サクラ 窪田正孝 清野菜名 真島秀和 小藪千豊 仲野太賀 でんでん 真木よう子 柄本明 2022日本 121分 ★
平野啓一郎の原作を読んだ時から映画化を楽しみにしていたので、さっそく見る。ヒロイン里枝と夫となった「谷口大祐」の出会いから、3年9か月後の夫の死までを丁寧に描き、その夫が実は谷口大祐ではなかったということを知った里枝の戸惑いや不安をそれまでの幸せな表情とは対比的に繊細に見せるとともに、夫谷口の人となりも観客にしっかり印象付ける出だし。そのあと主人公は弁護士のの城戸の、谷口大祐探しと死んだ男が誰だったのかという探索へと移る。彼自身が日本国籍を取った在日三世という設定で、そのような存在に対して意外に差別的な心情を持つ妻の両親が近くにおり、なぜか自分の戸籍を捨てて他人になった男に共感する心情を妻には理解されず、というような城戸自身の不安も、そして城戸によって解明される谷口、実は死刑囚を父に持って苦しむ原誠という若い男の内面と生き方も丁寧に描かれて、3人の主役の心情が、比較的抑え目の静かな画面や音ではあるのだが、いずれ劣らぬインパクトで迫ってくる見ごたえのある一作となる。映画の最初と最後にルネ・マグリットの『不許複製』(二人の男が並んでいる背後からの絵)が効果的に使われ、これが公式サイトでの3人の後ろ姿とも重なっているのが面白いが、これって原作にあったかなあ。
(11月19日 府中TOHOシネマズ272)
⑱素顔の私を見つめて(愛・面子)
監督・脚本:アリス・ウー(伍思薇) 出演:ジョアン・チェン(陳冲) ミッシェル・クルージ(楊雅慧)陳凌 王洛勇 2004米(中国語・英語)97分 ★★
現代中国映画上映会には12〜3年ぐらい前まで会員にもなり、割合よく足をはこんでいたのだが、その後上映される映画がほとんど「見た作品」ばかりになってしまい、ずっと行っていなかった。久しぶりに今回は、中国人や中国人社会を描いた外国作品ということで、2か月有効の短期会員に申しこんで観た。この映画は東京では2006年7月の「東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」でのみの上映で、劇場にはとうとうかからなかったもの。ニューヨークの中国人コミュニティを舞台に、医師のウィルの女性(上司の娘で、バレーを学びながらモダンダンスにも傾倒している)への恋、その48歳の母が妊娠し、父(ウィルの祖父)に家を追い出されて娘の家に同居、因習に縛られた成功した中国人たちの鼻持ちならない世界と、そこに縛られつつ(自らのも差別的意識丸出しのところが描かれたり)妊娠した自分のありように不安定になる母、自立した生活をし、因習からは逃れようとしているがゲイであることを隠してしまいパリのバレー団に所属することになる恋人に捨てられそうになる娘・ウィル。周辺の人々も中国社会の結婚を是とする伝統的・因習的なものの見方に悩みつつ縛られている様子が、非常に有機的?に描かれて興味深い。結局は皆が「素顔の自分」を明らかにすることにより幸福をつかめるのだという思想も腑に落ちる描き方で娯楽作品としてもなかなか。これはアリス・ウーの初監督作品だそううだが、非常に成熟した社会観を感じさせ好もしく見た。(11月20日 71回現代中国映画上映会 文京区民センター273)
⑲中国娘(中国姑娘)
監督・脚本:郭小櫓 出演:黄璐 ジェフリー・ハンティングス クリス・ライマン 2009英・仏・独(中国語・英語)103分★
中国の田舎に育ち生まれた町を出たことがない李梅という娘が、街に出て少しはぶりがよくなったかに見える若者と付き合うが、あっさり彼女を振って彼は深圳に去る。トラック運転手の男にレイプされたのを機に(彼のこともテーブルをひっくり返して非難する激しさも)女友達と村をでて出稼ぎに、しかし縫製工場では仕事ができない工員としてクビになり、お定まりのルートで歓楽街へ、ヤクザ・スパイキー(遠藤憲一の若い頃みたいな顔だったあ)と知り合いあい、捨て鉢・破れかぶれ的この男と暮すがある日彼は誰かに刺されて死ぬ。彼が残した大金をもって、李梅はツアーに入ってロンドンへ。そこで離脱して、ロンドン暮らし。医学部の人体モデルのアルバイトをしたり、住み込みのマッサージをしたり。口座がないと給料ももらえないことを知り、マッサージの客として知り合った老人の口座を目指して結婚、となんとも行き当たりばったりで方針も目標もないのだが、これを転身ごとに章立てにして短い見出し?をつけて進めていく。生きるすべを何とかモノにしていくたくましさこそ、まさに中国の女の子、という描き方。
監督は中国生まれで北京電影学院を経てイギリス留学し国籍も取ったという人らしい。自身の経験が投影されている?のでもなかろうが、中国の迷走ぶりを皮肉っているのかと思えないこともない。中国在住時から常にヘッドホンで洋楽を聞き続け、イギリスに行ってもどこにいてもいかにもあか抜けない中国娘であり続ける李梅のアンバランス?だけど変わらない姿にもそれが表れている?ロカルノ映画祭金豹賞受賞作だが、日本では「三大映画祭週間2011」のみで上映されたもの。(11月20日 71回現代中国映画上映会 文京区民センター274)
⑳小さな村の小さなダンサー(最后的舞者 Mao’s Last Dancer)
監督:ブルース・プレスフォード 出演:曹馳 アマンダ・シェル 陳冲 ブルース・グリーンウッド カイル・マイクラン 2009オーストラリア(中国語・英語)117分
2010年日本劇場公開をしているが、主役の少年の顔の写真に見覚えはあるものの未見だった。「毛主席の最後のダンサー」であると知っていれば見損なわなかったはずで、惹句的な邦題が私には逆に働いたのだなと今さらながら思う。山東省の山村の少年が、バレエの英才教育に選ばれ北京で厳しいバレエ修行の学校生活を送り、やがて3ヶ月の期限付きでアメリカのバレエ団の研究生として渡米するところから。最初の教条的な共産党を一身背負って着るものから行動から規制されている彼が、やがて自由に目覚め、恋人を得て、バレエでも抜擢される過程に、山村を出てきた経過や、中国時代の教育の在り方や、江青によって革命バレエが推奨されたりとか、そのような中国時代が交互に挟み込まれていく構成が面白い。後半期限延長を望むが認められなかった彼は恋人と結婚してアメリカに残ろうとするがそれも認められず結局亡命して、二度と国にも帰れず家族にも会えずという道を選ばざるを得なくなる。ただ、彼のバレエのキャリアやバレエ団と中国との関係がその後損なわれたという描写はなく、5年後には主役を踊る彼の公演を見に、中国から両親が招かれ、またその後彼はプリマドンナの相方と一緒に中国に戻って踊るシーンもありということで、亡命時にはかなり強硬・暴力的な姿勢を示した中国のこの変化は?多分改革開放時の中国政府の変化というか軟化がその背景にはあるのだろうとは思われるが、映画はその辺をはっきり描くことはしていないので、ウーン?この映画自体は実在の有名ダンサーでその後トレーダーに転向して成功したという李存信の自伝が原作、演じているのはバーミンガム・ロイヤル・バレー団の首席ダンサーであるという曹馳なので、バレエシーンはしっかり見ごたえがあるものとして楽しめる(文化村やシネスイッチで公開されたのはこのあたり由縁かもね)。少年の田舎の母役はジョアン・チェン、プロデュースにも参加しているとかで、やはり見どころ語りどころ満載の作品だとは言えそう。 (11月20日 71回現代中国映画上映会 文京区民センター275)ところで、あとで確認したら、この映画、2010年公開時シネスイッチ銀座で見ていた!いや、見ている間も全然見たとは思いださなかったのはなぜ?自分にちょっと衝撃さえ感じる。以下はその時の映画日記。やはりバレエシーン以外にはあまり感心していないが…。
青島近くの小さな村に生まれた少年が、北京から来た舞踊学校のオーデション?を受け、北京での厳しい寮生活と訓練を経てアメリカの舞踊団に見出され、アメリカ研修に行くことになり、その最後に亡命してアメリカで生きていくと、簡単にいえばこんな筋立てをほとんどドラマもなく人生の要約のように描いていくので、映画的な感動とは程遠い感じ。ただし、たくさん挿入される、一流プリンシパルのバレーのシーンはなかなか見ごたえあり。北京時代、アクロバティックなバレー訓練の流れの中で、より芸術的な表現を好み流れに乗れない主人公の能力を見出し励ます先生が告発され拘束されてしまうとか、亡命後迫害される家族の中で、「国に取られたのだ」と反撃する母は心に残る。でも、話がスムーズに飛びすぎるので、結婚を理由に亡命し(その妻とは結局別れる)主人公はいかにも安直に見え共感できないし、数年後の両親との再会も同様で、その辺はまだまだ工夫がほしい。(2010・9)
㉑ペルシャン・レッスンー戦場の教室
実話もベースにあるという「ナチス収容所」ものなのだが、「ことば」が大きな意味をもって介在しているというので興味を持った。出だしはトラック荷台に詰め込まれたユダヤ人(主人公ジルは偶然隣り合った男から、彼が家主から盗んだというペルシャ語の本を渡され代わりにサンドイッチを与える。これがすべてに物語の発端になる)が、人里離れた森?近くに連れていかれ車から降ろされたとたんに銃殺されるという場面から。
青島近くの小さな村に生まれた少年が、北京から来た舞踊学校のオーデション?を受け、北京での厳しい寮生活と訓練を経てアメリカの舞踊団に見出され、アメリカ研修に行くことになり、その最後に亡命してアメリカで生きていくと、簡単にいえばこんな筋立てをほとんどドラマもなく人生の要約のように描いていくので、映画的な感動とは程遠い感じ。ただし、たくさん挿入される、一流プリンシパルのバレーのシーンはなかなか見ごたえあり。北京時代、アクロバティックなバレー訓練の流れの中で、より芸術的な表現を好み流れに乗れない主人公の能力を見出し励ます先生が告発され拘束されてしまうとか、亡命後迫害される家族の中で、「国に取られたのだ」と反撃する母は心に残る。でも、話がスムーズに飛びすぎるので、結婚を理由に亡命し(その妻とは結局別れる)主人公はいかにも安直に見え共感できないし、数年後の両親との再会も同様で、その辺はまだまだ工夫がほしい。(2010・9)
㉑ペルシャン・レッスンー戦場の教室
監督:バディム・パールマン 出演:ナウエル・ベレーズ・ビスカヤ―ㇳ ラース・アイディンガー ヨナス・ナイ2020ロシア・ドイツ・ベラルーシ 129分 ★★★
実話もベースにあるという「ナチス収容所」ものなのだが、「ことば」が大きな意味をもって介在しているというので興味を持った。出だしはトラック荷台に詰め込まれたユダヤ人(主人公ジルは偶然隣り合った男から、彼が家主から盗んだというペルシャ語の本を渡され代わりにサンドイッチを与える。これがすべてに物語の発端になる)が、人里離れた森?近くに連れていかれ車から降ろされたとたんに銃殺されるという場面から。そこでただ一人「自分はユダヤ人ではない、ペルシャ人だ」と言い逃れた男はなぜか連行されて収容所に連れていかれる。そこの親衛隊隊長のコッホ大佐は、もともと料理人で、戦争が終わったら兄を訪ねてテヘランに行きレストランを開きたいという夢を持っているーまあ、普通の人ということだ―そこで男、ジルはコッホにペルシャ語を教えるように命ぜられる。もちろんペルシャ人というのは偽りでペルシャ語など全く知りはしない彼が、料理場で働かされながら、最初は食べ物の単語から与えられるコッホの1日4語、とか40語とかのノルマにアップアップしながら、でたらめな単語を考え出し(それは簡単だが、自分も覚えなくてはならない…しかも筆記は許されず)教え、やがて「無能」とされた女性党員のかわりに、収容所の囚人名簿を作る仕事をさせられながら、まじめで熱心、それゆえ教師としてのジルを大切にも思うコッホ大佐を欺きつつ「ペルシャ語」レッスンを続けていく。
その過程では、思わぬ失敗から石切り作業に回されて息も絶え絶えになったり、収容所に入ってきたイタリア人兄弟を助けたり、そして最後にはとうとうペルシャ人の捕虜兵が収容所に入ってくるという危機も…このときイタリア人の兄に命をかけて「貸しを返され」助けられ、やがて連合軍が入り収容所が解放されるという時期がやってきて、囚人たちは「処分」され、名簿は焼却ということになる。その中でジルはコッホに助けられ、二人は収容所を抜け出すが…。
途中で別れた二人の運命は明暗を分け、連合軍に助けられたジルは、彼のペルシャ語レッスンが成り立っていた思いもかけない方法を明らかにする…これは単に座った彼の「セリフ」なのだが、とっても感動的。映画自体がベルギーが舞台?(ジルは父はペルシャ人、母はベルギ―人と、ニセ申告をするし、コッホも終幕自分はベルギー人だ言っている)なのかドイツ語、フランス語、それにイタリア人の場面ではイタリア語だし、ペルシャ語(ホンモノ)も出てくるし、それゆえにジルのニセペルシャ語も成り立ったのかなと思えるような多言語状況で、それもけっこう興味深い。最初は保身だけを考えているジルが、コッホへのレッスンの過程で認められ?ものも言える(言う)ようになり、移送される「名もない人々」の価値をコッホたちより高いと言う。その変化を演じたナウエル・ベレーズ・ビスカヤートの演技もリアリティがあって印象的。なお、この収容所では縞パジャマではなく、皆「私服」?を着ている。これは収容所映画では初めて見た?…。(11月21日 立川キノシネマ 276)
㉒ザ・メニュー
監督:マーク・マイロッド 出演:レイフ・ファインズ アニヤ・テイラー=ジョイ ニコラス・ホルト ホン・チャウ 2022米 107分
レイフ・ファインズのカルト集団のリーダー?にしてマッド・シェフぶりが話題だが、もちろんそれも見たいし(私お気に入りの)ニコラス・ホルト(わりとエキセントリックか、もしくはクラシカルに役柄が別れる。今回は、若いのに妙に食べる料理にこだわるちょっと俗物だがまあ、ふつうのヒトかと思いきや、マッド・シェフに化けの皮をはがれいかんなくエキセントリックぶりをさらして最後はあっというまに!)も、と思っていったが、やはり何と言っても今回は大きな目玉に鼻の尖ったちょっとアニメっぽい特異な?美人のアニヤ・テイラー=ジョイの抜群の吸引力(粗削りではあるが)に、声援を送るということに。孤島に集められた12人の賓客というのは完全にミステリー仕立てだが、普通はそこには姿を現さないもてなし側の主人というコンセプトは完全に覆され、いらっしゃいませの呼び声とともに大勢(多分客と同じ12人+αの使用人。なかでも案内係エルザのマンガ的風貌・スタイルとうらはらの薄気味悪さ?)のシェフが出迎え、客の面前でコース料理をふるまうという、そしてシェフの声掛けに大声で一斉に答えるという体育会系っぽい感じもして。映画の中でネタバレすれば途中で3人(いや、4人か)の人物が命を落とし、一人は指を切り落とされるというまあなんというか荒々しい映画でもあるのだが、それを支えるだけの客にもシェフにも料理にも体力というか底力を感じさせられるようなアクション系映画でもある。これを支えるのはやはり、一人紛れ込んだ「下層?」のマーゴの率直な、純粋な力なんだという気もした。他の賓客マーゴの連れタイラーも含め全員成り上がり、素朴で意欲的だったシェフを何らかの形で貶めた人々で見かけもいかにも品がない感じ。そして料理では凝ったフランス料理のコースに勝るチーズバーガーというのも、なんかなるほど!
(11月22日 府中TOHOシネマズ 277)
㉓擬音 A FOREY ARTIST
監督:王婉柔 出演:胡定一 2017台湾 100分 ★
台湾のフォーリー・アーティスト胡定一の生き方を中心に、台湾映画史の中の音響技術の歴史や発展について描いたドキュメンタリー。音響技術がデジタル化されてもフォーリー(擬音)に関してはそこでしか通用しない職人技に支えられている厳しさやある種の残酷さにこの技術がいつまで続くんだろうか思えてしまう。胡自身や他の映画技術者(アーティスト)廖慶松とか杜篤之とか馴染みのある人々や、彼らが作った台湾(大陸も香港も?)映画の数々が出てきてそれだけでも楽しめる。なお、後半一部北京の音響技術者が出てきて語るところがあるが、台湾よりよりシステム化されている感じがして、話がすごくわかりやすかったのが印象に残る。監督は1982年生まれの女性だが、映画を本当に愛している人なのだなあとも思える王婉容で、自らこの映画の日本語字幕を作り(翻訳は神部明世さん)またひきつける印象の短い宣伝挨拶行い、すごく熱意が感じられる作品だった。(11月23日 新宿K’Sシネマ 278)
㉔パンと塩
監督:ダミアン・コツル 出演:Tymoteusz Bies Jacek Bies 2022ポーランド 99分
閉鎖的な田舎町の夏休み。帰郷する音大生で休み明けにはドイツへの留学も決まっているピアニストの卵ティメックと、弟のこちらは音大入試に失敗したところらしいヤツェク。ティメックは弟の仲間らしい地域の若者たちのグループにつるみながら、町でただ一軒若者たちがたむろせるようなケバブ屋を営む移民の兄弟にも親しみを寄せるが、仲間たちの移民に対する差別的な配慮のなさはすさまじく、無思慮、無遠慮な若者たちとの間にに悲劇が起きる…というわけ、でこういう映画を作りたい作者の意図はよくわかる。主人公の兄弟はじめ周辺を取り巻く若者たち、役者としてはノンプロらしいのだが、日常的な生活?のまんまなのかもしれないが、互いのセリフの間合いとか、長回しにも耐えてよくやっていると思える。映画はこのエリートへの道を歩みだそうとしながら、閉鎖的な田舎町に一生を送るであろう(弟の彼女は地域の体育学校に行き体育教師になるという)若者たちのその場しのぎその日暮らし的な享楽にともに浸り、移民を差別していいとは思わないが、仲間の傍若無人を止めることもしないようなティメックのありようー弟を引っ張り上げようとする厳しいピアノレッスンや、町の少年に偶然教える時にも間違いを許さずピアノをやめる方がいいとまでいう彼のエリート志向が、ピアノストとしての彼の人生が今後も続いていくであろうことを示しつつも激しく批判もしているのであろうと感じられる。(11月23日東京写真美術館・ポーランド映画祭279)
㉕ポルミッションーパスポートの秘密
監督:ヤツェック・バビス 2020ポーランド 57分
出だしはリトアニアの杉原千畝のビザ発行により多くのユダヤ人が日本を経由して他国に逃れたという話から入り、彼らの(多分一部で、違うルートもあったはず)行き先としての南アメリカ諸国のパスポートを使い、1941年から45年にかけ、スイス駐在のポーランド外交官ワドシがポーランド諜報機関が占領地のユダヤ人を国外に逃がそうとした秘密の活動について、研究者らが史実を追い、また助けられた人々とその子孫のインタヴューなども含めて、この事実について描いていくというもので、あまり知らなかたこととしてとても勉強にはなった。全編ポーランド語で、一部助けられた人々で今はイスラエルやアメリカなどに住む人々が英語でしゃべる言葉にはポーランド語の吹き替えをかぶせている(国外での公開などはあまり考えられていないテレビなどドキュによく見るやり方だ)が、かぶせているポーランド語がすべて一人の野太いと言ってよいような男性の声なので、最初ななんだ?と思った。日本語字幕があることもあって耳障りなことこの上なく、ちょっと疲れる。こういうの日本のドキュであれば、男性には男性の、女性には女性の声をかぶせて違和感のないような仕上げをしているのだなと、あらためて思った(日本製テレビドキュの案外な繊細な仕上げに気づく)(11月24日 東京写真美術館・ポーランド映画祭280)
㉖メイクアップ・アーティスト・ケヴィン・オークイン・ストーリー
監督:ティファニー・バルトーク 出演:ケイト・モス リンダ・エヴァンジェリスタ ナオミ・キャンベル シェール イザベラ・ロッセリーニ ブルック・シールズほか 2017米102分
1962年生まれ、養子、オープンリー・ゲイ、身長205センチで末端肥大症、腰痛をおさえることから薬物依存に陥り過剰摂取により2002年40歳で突然になくなったという、要は「はずれ者」的人生を歩み出しつつ、美を追求してメイクの世界を切り開いた一人の男の物語、で特にメイクによって美を開花させたと感じているモデルや女優・歌手(この映画では「セレブ」という言い方をしているのがちょっといやらしいが)や、その仕事や生き方を傍で見ていたパートナー・男友達などのインタヴューで綴っているので、まあほめ言葉の羅列と言えば羅列なのだが、それを圧するぐらいのメイクアップされた人々の美しさとか、本人の吸引力(彼もスリム長身でなかなかの美形だし)とで終わりまでひっぱっられる。予告編を見てなんか気になり、チャンスを得て鑑賞したもの。(11月24日 川崎市アートセンター・アルテリオ映像館281)㉗武漢、わたしはここにいる(武漢、我在)
監督:蘭波 2021中国 153分 ★
2020年1月23日、武漢は封鎖され、この地で映画撮影の最中だった蘭波は撮影中止、しかし武漢を出ることもできず足止めされることになる。この状況を逆手にって生かすべく、封鎖された町で暮らす人々、特にコロナによって閉め出される形になり医療が受けられないがん患者やその家族とか、地域で孤立してしまう高齢者やその施設に向けて物資を届ける民間団体のボランティアなどを中心にロック解除の4月まで、映画関係者自身も医療が受けられない人に関わったりボランティアに同行して撮影を続けた。
民間のボランティアの活躍は先月に見た『穿过寒冬拥抱你』(2021薛暁路)でも描か枯れていて、それが実際に武漢の街に起きていたことだと知ったが、こちらはさらにそれに対して非常に官僚的態度で妨害とも言えるような干渉をする地区委員会とか、外出許可証を求めるボランティア団体の人々をたらいまわしにする役所とか、また病人が地域の枠を超えて入院することを末端の交通機関や公安が許さないとか、さまざまな人的・政治的困難をも当事者のつらさとして描いて、「武漢」問題の一端をも余さず描いている。
しかし、このボランティアに関わっている人々が男性はIT関係や塾講師、軍人など。女性も経営者であったりで比較的富裕層?そして女性たちが一様に今風の目パッチリのアニメ風化粧をしているかわいい系の様子で、しかも中国的エネルギー?で終始怒号と言ってもいいほどの大声が飛び交い、通行証を出さない役所への抗議場面での叫び・怒鳴りなども、ウーンこれだけのエネルギーがあるからこそできるボランティアなのかなと、劇映画に出てきた人々(これはどちらかというとその心情とか私生活をえがいていた)との違いにもちょっと驚き、敬服しつつ、疲れたのも事実。(11月25日 アテネフランセ文化センター282)
㉘ ショパン 暗闇に囚われることなく
監督:ヨアンナ・カチマレク 2021ポーランド(英語・ポーランド語・アラビア語・韓国語)58分 ★
ポーランド人の母、シリア人の父を持ち15歳でポーランドから今はイギリス?に移住した元ピアニスト、今はプログラミンエンジニアを仕事とするという青年はレバノンでシリア難民を前に、北朝鮮との国境の町で育ったという韓国人のピアニストは国境に掛かる橋の近くで、そしてポーランド人ピアニスト(よくしゃべる、感覚理論派という感じ?)はアウシュビッツ収容所の敷地内で、それぞれぞれにショパンの曲を奏でる。順番交互に彼らの生活や生い立ち、家族などが彼ら自身の発言で演奏に向けて映し出され、最後は演奏シーン。もちろんそれぞれ別々の時に撮影されたのだろうが、同じ曲をいかにも同時に演奏しているかのような編集、そこから聴衆も含めてあたかも同じ時期に音楽を味わい、世界が抱える問題の共通化を図るというのは、映画ならではであろう。興味深く見る。(11月26日 東京写真美術館ポーランド映画祭 283)
トーク付きでした |
㉙EO
監督:イエジ―・スコリモフスキ 2020ポーランド(ポーランド語・英語・フランス語)88分
午後1時半上映が、午前10時50分には完売・満席(実際には入場したらポツリポツリと空席がないでもなかった)のカンヌ審査委員賞受賞作品。すでに5月の劇場公開が決まっているとのことだが…。でも、これはやはり映画祭向けかな…。『バルタザールどこへいく』(1966ロベール・ブレッソン)にオマージュを捧げたとのことだが、始まりは赤い光が激しく点滅するサーカスのシーンから。サーカスでの動物の出演は虐待であるとして禁止。動物たちはそれぞれに引き取られるというところから始まり、主人公のロバEOの遍歴を描いていくわけだが、暗い画面とそこに激しく点滅する光とか明暗の激しい入れ替わりとか、それから明るい場面の特に夕景とか空の色合い美しさとか、しかしその中でのロバの行く末の過酷さ、激しさは「バルタザール」の比ではない感じに現代的というか競争社会の反映のような感じも強く、それだけにロバの悲哀もなんか画面のビジュアルも含め無機的な人間模様を受け流すというような感じ。で、やはりスゴイ作品なのだとは思うのだが、その着想にはある種のあざとさというか作者の超越?を感じてしまう。というわけで、やっぱりイマイチ好きになれないイエジー・スコリモフスキだった。(11月27日 東京写真美術館ポーランド映画祭 284)
㉚シスター 夏のわかれ道(我的姐姐)
監督:殷若昕 出演:張子楓、金遥源(ダレン・キム) 肖央、朱媛媛、段博文、梁靖康 2021中国 127分 ★★
安然が幼い時、両親は彼女が足が悪い障がい者として申請し、二人目の出産許可を得ようとした。彼女は成績優秀で北京の医学部への受験を希望するが、両親は女の子だからと勝手に希望を地元医大の看護学部に書き換えた。その結果彼女は高校卒業以後親には頼らず一切を自力で乗り越え、今は看護師として働きながら北京の大学院進学を目指して勉強している。と、そんな彼女の両親が突然に交通事故死、後に、安然の会ったこともない幼稚園児の弟、子恆が残される。さてどうするか、親戚は姉が弟を引き取り育てるべきだというが、安然にはとてもそのような提案は受け入れられない。しかし、父と最も親しかった伯母は夫の介護中、母の弟は博打にうつつを抜かした離婚経験者で頼りにならず、彼らの助けを借りながらも安然は養子先を見つけるまで、弟の面倒を見ざるを得ない…彼女には恋人がいてその両親は二人が結婚することを望んでいるが、安然は恋人に一緒に北京に行こうと誘い恋人も同意している(がこれはもう全く優柔不断で。要は恋人ぐるみ家族は安然が故郷に残り看護師を続けて行けばいいと思っているわけだ)。仏頂面で弟に投げやりな世話をする安然、たいして弟はわんぱくでワガママを言ったり甘えたりしつつ、姉の顔色をみるようなそんな状況がずっと描かれる。
中国ではSNSで安然の生き方について賛否大議論が起こったそうだが、ここでは安然がワガママな女としてではなく、一人っ子政策の結果と家父長制の両方に痛めつけられ、自ら強くならざるを得なかったし自分の道を歩くことによって痛めつけられてきた自我の確立をのぞむ女性として共感を持って描かれるのは、同世代(一人っ子政策下で生まれ育ったという)作者たちの目がしっかり反映しているのだと思う。事故の相手が弟の幼稚園仲間の父親という設定はいささかご都合主義だとは思うが、そのおかげでよい養子先がみつかり、しかし一度はちょっとした行き違いでその話がダメになるが、弟自身の思いがけない行動で養子に行くことも決まり、恋人とも別れた彼女は北京に旅立つべく準備をするのだが…ということで私なんかはよかったよかった、と思ってしまったが、話はそこで終わらず、反対派(彼女が育てるべきだ派)にもちょっとほっとさせる要素を残して定石通りの終わり方をする。これってどうなの?彼女は北京に行くのだろうか、やめるのだろうか。まあ、見る側の意識によってどちらにもとれるような、(彼女の側からすればどちらを選んでも安堵と後悔だろうが)まあ、商業映画的にはなかなかうまい終わり方。しかし批判精神は案外しっかり貫かれ、今や一人っ子政策が終わった中国だからこそ、竜のマークもしっかりもらえたのかなとも思える。(11月27日 新宿ピカデリー 285)
㉛土を喰らう十二ヵ月
監督:中江裕司 出演:沢田研二 松たか子 奈良岡朋子 西田尚美 尾美としのり 火野正平 檀ふみ 2022日本 111分
白馬山麓の四季の景色とか、その土地で取れる四季折々の野菜、竹の子、木の芽、梅などと、手をかけつつその自然の味を生かしたような料理の数々(土井善晴が作ったとか)が見どころとして話題となっているようだが、その陰にあるのは案外ドロドロした人間模様であり、込められているのは苦い思いという気もする。主人公ツトムがなくして13年という妻は敏腕の編集者であったようなのだが、その弟夫婦は一人暮らしの母(これがまた荒壁の小屋のごとくの庵風で…)を亡姉の夫に任せきりで、「声をかけたけど出てこない、コワいから見に行って」とツトムに頼む。そうして亡くなった母の葬儀はちょっとコミカルな描き方だが、その中でツトムの死への思い(親しみと恐怖)は増します。ツトムは編集者で若い恋人の真知子に一緒に暮らさないかと持ち掛けるが、骨壺を焼こうとする窯(こんな窯を持っているとは!)の中で心筋梗塞で倒れ、真知子に助けられる。なんとか生還し退院後に真知子に別れを持ちかけるーとこのような矛盾にも満ちたおろおろぶりこそが老いなのだろうなあと苦く思われるのである。
禅寺で育ち死の世界と隣接しつつ悟りを開くというところからは程遠い境地にもがく、それは原作者水上勉そのものだったかもしれないし、また一世を風靡した美形・モノセックス的でさえあったアイドル沢田研二の成れの果てという感じもするし、晩年を毅然と生きているふうの妻の母(奈良岡朋子)の立ち振る舞いの中にもそんな感じがある。そういう底流があってこそ、こういう自然派料理番組みたいな映画が「物語」として成立するのだろう。エンドロールに流れる「いつか君は」、96年の沢田研二の曲の音源をリマスターしたものだというが、その声のつややかな若さにも、そのような映画の意図が反映している気がする。 (11月28日 立川シネマワン 286)
㉜ザリガニの鳴くところ
監督:オリビア・ニューマン 出演:デイジー・エドガー=ジョーンズ テイラー・ジョン・スミス ハリス・ディキンソンデビッド・ラッセル・ストラザーン 2022米 125分★★
1960年代ノースカロライナの湿地帯で起きた殺人?事故?にまつわる、世界的ベストセラーのミステリーの映画化だそうだが、朝日新聞11月25日の秋山登氏の映画評でその重層構造をほめていたー偏見・恋・文明批評としてーので、気になって見に行く。なるほど、父親のDVによって一家が崩壊、母はじめ姉兄、そして最後は父も家を出ていき、10歳で一人取り残されて湿地の家で、ムール貝を取って唯一理解者である食品店?の夫婦に売り生計を立ててきた18歳?のカイア。彼女が兄の友人で幼いカイアとも顔見知りだったテイトと再会、親しみが芽生えてテイトはカイアに文字や読み方を教え生物学の知識や図書館で本を読むことなども教える。この間様々な形で異質な「湿地の娘」に対する町の人々の排除や偏見が描かれるわけだ。
テイトとカイアには愛が生まれテイトはカイアを大切にするが、やがて故郷を離れ大学に学びに行くことになる。再会を約し、カイアが書き溜めた湿地の生物の細密画の出版を勧めテイトは去るが、1年後の再会を約した日に戻ってこず、カイアは絶望する。
それ以前からカイアに興味を持ちちょっかいを出していたのが、町の有力者の息子チェイスで、そこから彼らは親しくなっていくが、一方、開発業者が入って湿地の家が危ういということで溜まっていた税金を払わなければ家の所有権が失われると知らされたカイアは自作の画集の出版を決意し、テイトが教えてくれていた出版社に画稿を送る。画集は出版され、彼女は家を取り戻しきれいに改修までする。本屋で画集を見つけた兄が戻ってきて、最後まで彼女を心配しながらも父の介入で迎えに来られなかった母の消息を伝えてくれる。
そのころ町でカイアは婚約者といるチェイスに遭遇し、チェイスが自分をいかに見ていたのかを思い知らされることになる。すぐにやってきたチェイスに抵抗して殴られ、カイアは母が家を出て行ったわけを自ら理解するーというような状況が背後にあって映画の中で現在と過去が交互に順次語られていくわけだ。
映画は冒頭湿地の中にある今は使われていない火の見櫓から転落死した男(チェイス)を二人の少年が見つけるところから始まって、この事件の殺人者としてカイアが被告となる法廷劇として展開していく(なぜか内気?で法廷ではほぼ一言も語らないカイア)。いっぽう、テイトとカイアの恋物語、カイアの暮らす湿地や沼、そこに住む生物(カマキリの捕食などが語られる場面も)の自然描写も美しく、しかもさりげない描写の中にミステリー的な伏線もしっかり仕込まれという感じで、さらに最後、弁護士のアリバイ証明によって彼女は無罪、やがて湿地に戻って生物研究者となったテイトと結婚、ともに老いを迎えて、沼に浮かべたボートの中で母の迎えの幻まで見ながらいわば幸せな死を迎え、さらにそのあと…夫が発見した衝撃的な事実、というまで書き込まれ書き込まれというカイアの生涯の(若い時には成長)物語ともなっていて見ごたえは十分。もっとも、一人沼地の家で自活しているにしてはあまりにカイアの様相は小ぎれいで(これもマーケットの妻が、教会に寄付する洋服などを彼女に与えるという説明は一応あるが、少女期1日だけ学校に行ってやめてしまうシーンだけがなぜかリアルに薄汚い)、嘘っぽいとかいうレビューもあり、ま、確かにその通りでカイアという女性の見かけも能力も行動もある意味超人的なファンタジーの世界だからこそ成り立っているのを「伏線」や「説明」でごまかしているという気もしないではないのだが、ま、ちょっと社会的な視点(差別されるものへの同情)も加味した娯楽作品としては、なかなかの力作と思う。ワタシ的に、ただ一つ難はテイトとチェイスが見かけも体格もわりと似たタイプで、まあカイアの好みに合ったということだろうが、見分けがつきにくい時もあり、まったく敵役同士だしちょっと悩ましい感じだったような…
(11月29日 ACシアタス調布287)
ついでに恥ずかしいけど近影 |
最後までお付き合いくださりありがとうございました。お疲れ様!
それでは、皆さんお元気で、忙しい師走を乗り切りよいお年をお迎えください!
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