【勝手気ままに映画日記】2022年2月


大岳山頂上よりパノラマで撮ってみました~~富士山も写っているのですがわかるでしょうか?(2月24日)

こちらが拡大版です。左側の白っぽいのは雪だまり。

①コーダ あいのうた②フレンチ・ディスパッチ ザ・リヴァティ・カンザス・イブニング・サン③355④再会の奈良(又見奈良)⑤フタリノセカイ➅69歳⑦三度目の、正直➇奇跡⑨理大囲城⑩怒りの日⑪名付けようのない踊り⑫インタヴュアー(個人的な問題についてのいくつかのインタヴュー)⑬幸福⑭ブバ⑮DUNE砂の惑星⑯最後の決闘裁判⑰ある歌い女の思い出⑱ヌーラは光を追う⑲時の終わりまで⑳ジハード・フォー・ラブ㉑泣けない男たち㉒天国と大地の間で㉓ソフィアの願い㉔アジムの母、ロナ㉕結婚式㉖傘㉗音楽家たち㉘井戸㉙私のお祖母さん㉚スヴァネティの塩㉛少女デドゥナ㉜大いなる緑の谷㉝ゴヤの名画と優しい泥棒(THE DUKE)㉞国境の夜想曲㉟白い牛のバラッド㊱ホームワーク

➇⑩カール・テオドア・ドライヤー特集 ④⑨中国語映画 ④⑤⑦⑪日本映画
⑫⑬⑭㉕㉖㉗㉘㉙㉚㉛㉜ジョージア映画祭 ⑰⑱⑲⑳㉑㉒㉓㉔イスラム映画祭
㊱特集「そしてキアロスタミは続く」(ちなみに㉞㉟㊱もイスラム圏映画)
★はあくまで個人的感想ですが、印象的だったりお勧めしたい映画。映画末の番号は、今年になってみた映画の通し番号です。
2つの映画祭で神保町と渋谷を行ったり来たり(とはいっても半蔵門線1本で15分くらいですが)大忙しの1週間を含んで、けっこう多彩な映画を見た2月でした。

山は 2月5日 幕山~南郷山 2月15日タケ山~ダルマ沢頭~シタンゴ山
   2月24日 御岳山~大岳山~鋸尾根~愛宕山  のいずれもミニ縦走でした。

①コーダ あいのうた
監督:シアン・ヘダー 出演:エミリア・ジョーンズ フェルティア・ウォルシュ=ビーロ マリー・マトリン トロイ・コッツアー ダニエル・デュラント エウへニオ・デルぺス 2021米ビスタ 112分 

1月に藤原帰一氏がBS1の『映画で見る世界の今』で紹介していて気になりつつ、いつの間にやら終わり近い?ということで夜の鑑賞。
コーダ(CODA)とはChild Of Deaf Adultの略で耳の聞こえない両親の子どものことだそう。聾唖の両親と兄を持った漁師一家の娘ルビーは幼い時から家族と外の人々の通訳として、いつも家族とともに在ったが、歌好きなことから高校で入った合唱クラブ(選択授業?)で音楽教師に見いだされ、バークレー音楽大学への進学を進められる。しかし家族には「歌」そのものがわからず、ともにクラブに入ってデュエットすることになったマイルズともいい感じになってきて自宅で練習ということになるが、ラブラブの両親のベッドシーンに遭遇してしまったことから誤解が生まれ、歌が好きだがなかなか自分をそちらに向かって解放できない少女の姿がもどかしい。
しかし叱りつつ励ます音楽教師を始め、率直に誤解を解こうと働きかけてくるマイルズ、そしてルビーの未来を考えて自分たちの自立も図る兄をはじめとする家族と、いい人たちに囲まれて進学を果たすまで、という展開としてはまあフツウなんだが…。
聾唖の家族はマリー・マトリンはじめ実際に聾唖の役者が演じ、マイルズを演ずるのはもともとボーイソプラノ歌手から出発して、『シングストリート未来へのうた』(2015ジョン・カーニー)でかわいい中学生少年を演じたフェルティア・ウォルシュ=ビーロが少し大人っぽくなって、誠実な高校生役でヒロインを支え、そしてヒロイン、エミリア・ジョーンズも漁の仕事とか、手話それに何曲もの、ちょっと下手なときから解放された力強い歌声まで、大熱演と言ってよく。オーデションで手話とともに歌い、それを家族が嬉しそうに見つめるシーンなど、ちょっとじわっと来るような、ステキな映画に仕上がっている。もっともマイルズはともに受けたバークレーのオーデションで落ちた(声がつまったと言っているし、そのあとの湖でのデートシーンでは「会いに来て」というような会話になっているので)みたいで、それがちょっとかわいそうな気もする。ま、落ちてもライバルを恨んだりはしない包容力のありそうな男のコではあるのだが。
*「聾唖」は差別語ではないかとお考えの方もあるかもしれません。ただ聾唖者自身の中に身体的な特徴として誇りを持ち、「聴覚障害者」などと呼ばれたくないという考え方もありますし、この映画の日本語字幕もそれに倣ってか、すべて「聾唖」でしたので、この原稿でもそれに倣っています。(2月1日 府中TOHOシネマズ 028)


②フレンチ・ディスパッチ ザ・リヴァティ・カンザス・イブニング・サン
監督:ウェス・アンダーソン 出演:べニチオ・デル・トロ エイドリアン・リッチ レア・セドウ ティルダ・スウィントン  ティモシー・シャラメ リナ・クードリ フランシス・マクドーマント マチュー・アマルリック スティーブン・パーク ジェフリー・ライト ビル・マーレ― 2021米(英語・フランス語) ビスタサイズ108分

家間近の劇場公開なので、急ぎ見に行く。大きな劇場、昼の回で入りはそこそこだが、若い人が圧倒的に多く、高齢者が目立つことが多い最近の普段の会場とは大違い。
内容は『フレンチ・ディスパッチ』誌のオーナー編集長が仕事中に急死。遺言は自分が死んだらこの雑誌を廃刊にするというもので、最後の追悼号を出すべく社員たちが相談、そして話はそれぞれアート特集、社会特集、料理特集の内容を3本のいわばオムニバス作品のように描きそれを編集会議が繋ぐという構成。オムニバス部分は基本的にモノクロで、新聞社(記者)周辺になるとカラー。一部アニメーションが入ったり、いつもながら自由な箱庭風ビジュアルは楽しめるが、話は3本目になると少し疲れた…。
1本目は刑務所内の殺人囚画家と看守女性、そして同じく囚人として画家を見出した画商が画家を世に出すまでの話、二本目は学生運動家と彼のガールフレンド?の女子学生、そして運動家の青年の宣言を書くのを手伝いつつ、青年とガールフレンドに去られる記者の孤独?を描く(フランシス・マクドーマントとティモシー・シャラメという意表をつく組み合わせ)、最後は食について書く作家がテレビ出演してインタヴューに答えるのだが、ウーン、どうも話にイマイチついていけず…。全体としては目くるめく役者たち(常連も新顔も)と目くるめくウェス・アンダーソンの世界を満喫堪能したという感じで楽しかった。
(2月2日 府中TOHOシネマズ 027)

③355
監督:サイモン・キンバーク 出演:ジェシカ・チャスティン ダイアン・クルーガー ペネロペ・クルス ルビタ・ニョンゴ ファン・ビンビン セバスチャン・スタン 2022米122分

楽しみにして公開初日の夕方に見に行ったのだが、え?ガラガラの大劇場。いいのか?大丈夫なのか?と思うが。内容は…まあ定石通りとは思うが、女5人それぞれに特技を活用…とはいえペネロペ・クルスは子どもや夫がいて、武器も扱うことはない、少々怖がりで腰がひけている心理学者という役割、ファン・ビンビンは格好いいが特技は何なのか、他の3人のようにはわからない。
CIAエージェント、メイス(ジェシカ・チャスティン、彼女はプロデュースもしている)と彼女の相棒ニックが、コロンビアで開発され売りに出されたものの、ただ一人彼しかこの機会の構造を作り出せないという製作者は殺され、持ち逃げされてしまった世界を滅ぼすような力を持つテクノロジーデバイスを奪還するために動き始める。パリを舞台にそこに「敵」として参入してくるドイツBNDのマリー(ダイアン・クルーガー)との攻防から、やがて二人が結託し、コンピュータースペシャリスト、英M116 のハディージャ(ルビタ・ニョンゴ)に声をかけ、コロンビアINOのグラシー(ペネロペ)は巻き込まれで、「敵の敵は味方」という感じの協業でデバイスの行方を追う話。撃ち合いもあり、格闘もあり、目くるめくスリリングはまあしっかり楽しめる。ファン・ビンビンはいつ登場するかと思っていると、終わり近くに格好良くー中国政府のエイジェント(しかしこれは怖い。オークションのシーンなどもあるが、中国政府はこういう画策もするんだねと思えてしまう)として登場し、4人を拉致監禁するところから、ともに戦うまであっという間の展開。この場では彼女の父、そしハディージャのイギリスの恋人、グラシーのコロンビアにいる家族も危機にさらされるのだが、…こういう家族恋人がらみの展開は男性スパイアクションの第1作に出てくることはあまりない?気がする。それとファン・ビンビン以外中国の人々がどうもチープ(父親も含め?)なのも、ちょっと欧米的視線を感じてどうなのかな…。
さて4人は一応、デヴァイスを取り戻し、CIAに届けるのだが、そこから物語は急展開、男ってね??と感じさせるような意外性で初めのほうのメイスのラブラブに復讐、とこれもウーン007でも男女をひっくり返したらあったかなあ。ちなみに355は18世紀アメリカの女性スパイのコードにちなんだのだとか。終わりは上海の高層ホテルの上下二室。銃を撃てないエージェントグラシーの思いがけない逆襲で下階の「悪」は倒れるが死ぬことはなく…。たくさん殺してはいるが、主要人物は死ぬことなく、話は続編へとシリーズ化されそうな(5人全員が残るかはわからないが)予感もするような終わり方だった。あと、ニックが最初の甘い恋人風からどんどんとんがって悪人化していく過去の変化はなかなか(ネタバレだが)でさすが!という感じ。(2月4日 府中TOHOシネマズ 028)

 
梅咲く陽光の幕山から一転→

雪のちらついた南郷山縦走(2月5日)

④再会の奈良(又見奈良)

監督:鵬飛 エクゼクティブ・P:河瀬直美 賈樟柯 出演:国村隼 呉彦妹 英澤 永瀬正敏 秋山真太郎 2020中国・日本99分

行方の分からない娘を探すとなるとミステリー要素が十分にありそうという感じだが、実際はそうでもなく、淡々とむしろドキュメンタリータッチで、中国からやってきた高齢の養母陳さんと、残留孤児の父を持ち(父母はいったんは日本に帰国したものの今は中国に戻っているという。受け入れに冷たかった日本を想像させる)今はひとりで日本に残るが、生活的には決して順調とも言えない若い女性小澤(シャオズ)(恋人の家族に受け入れられないとか、職場も転々、今の職場でも叔母探しのために休むたびにクビを匂わせられている)とが、娘(叔母)探しを通じてあらたに日本に住む中国人(残留邦人として帰国した人が多い?)を中心とする様々な人に出会っていくドラマが「又見」の意味かなという感じ。
そこに元警察官、妻を亡くし、一人娘は結婚して東京に去り、定年退職して暇を持て余しているような吉澤(しかしこの人の生活ぶりー地方とはいえ結構豪邸に住み、きれいな車も持ち、いろいろな店?に飲みに行き、サウナに行き、帰るとまた飲みつつ風呂に湯を入れるというような、また休日の庭仕事ぶりといい、健康は大丈夫?という感じであまりリアル感がない気がしてしまう)まあ、彼もそんなわけでお節介っぽく?参入した中国人女性の養女探しというプロセスで彼女たちに出会うというドラマなんだろう。その娘探しは映画の終わりの方で、吉澤と小澤(この二人の名前の一致も案外意味深?吉澤は去った娘の面影を小澤に重ねている)には案外あっけない形で知らされるが…、そのあとの二人の心理や行動の描き方、そして最後娘を探し当てられないまま夜道を縦列に歩く3人の姿がなんとも印象的で、この映画が娘探しのミステリーでなく、「出会い」を描くのだということが示唆されるようだ。でも(ネタバレだが)そうなると陳おばあちゃんは納得できるのかな、どう思うんだろうというような心残りもある。きれいな画面だが全体にちょっともやがかかったようなフォーカスの甘さは私の目のせい? 奈良のイメージにはよくあっているようには思うのだが。会場は平日昼だから?ほとんど女性ばかり。(2月8日 シネスイッチ銀座 029)

⑤フタリノセカイ
監督・脚本:飯塚花笑 出演:片山友希 坂東龍汰 松永拓野 2021日本83分

トランスジェンダーの男の子(体は女性)真也に恋した保育士ユイ。最初ユイは彼がトランスジェンダーであることを知らないが、知って、彼が隠し事をしていたことに動揺する。彼は彼女にそのことを打ち明け、お金をためて手術をし、戸籍を変更して結婚したいという。彼の気持ちを受け容れつつともに暮らすユイだが、彼が結婚指輪を買ってプレゼントしたことに怒りを爆発(何のためにお金をためているのか、という怒り。早くお金をためて手術をすることこそ先決ではないかということ。しかし彼の方はやはり「今」をも大切に味わいたいということだろう)。真也のもとを離れたユイは近づいてきた教員の男と結婚(時間の飛ぶのが速いこと速いこと)、妊娠するが流産。そして再会した真也とよりが戻る。しかし夫は不倫として怒り、真也をゆすって手術代貯金を巻き上げてしまう。一方ユイと別れた真也に声をかけたのがゲイの俊平。二人は仲を深め(といっても性的関係ではない)一緒に真也が母から受け継いだ弁当屋を経営していた。真也とユイは再びともに暮らし始める(ここで二人が見つけ出したもともと出したいと願っていた婚姻届けを破るシーンがある)。どうしても子供がほしい二人は俊平に頼んでユイとセックスをしてもらうという展開。そして妊娠したユイと真也、その母、俊平が生まれてくる女の子の名づけを相談する(「空」という名なのが象徴的なんだろう)シーンの後、二人が二人だけで肩を寄せ合うシーンがあり(ユイが妊娠維持が難しい体質であったという示唆?)、そのあと衝撃的な真也と俊平のシーンで映画は終わるのだが…。真也は母を始め家族にはトランスジェンダーであることを受け容れられて息子としての期待もされているようなのだが、手術も必要、女性とのセックスも今のところは無理?いろいろと不安やトラブルを二人が抱えることは納得できるが、ウーン、そして二人の乗り越え方がただひたすら子供も持てる「普通」の結婚に向かうというところが、大人女性の目で見ると無理はないよと思いつつ、旧来的な結婚観にとらわれすぎているのではないのかという気もしなくもなく、トランスジェンダーであろうとなかろうと、結婚して子どもを持ちたいというのはわかるが、戸籍婚をしないこと、俊平をまじえた3人家族を作ろうとするという試みをする自由さと子どもにとらわれる不器用さはかわいそうな気もするが、ちょっとバカっぽいし、もう少し何とかならないのかとも思えてしまう。
最後の選択は真也にとっては自身が男であること否定することになる?そうまでしてユイを愛したということ?ならばユイは子どもを持たない選択(自身も不妊なのだし)をしてもいいのではないのと?本当に登場人物の不器用さでもあり映画の不器用さでもあり、それがトランスジェンダーという現実なのかなともなんとも悩ましい感想を持ってしまった。それだけしっかりと問題提起ができている映画とも言えるのか…(2月8日 新宿シネマカリテ 030)

➅69歳
監督:イム・ソネ 出演:イェ・スジョン キ・ジュポン キム・テフン キム・ジュンギ 2019韓国 100分

69歳、一人暮らしだが本屋を営む詩人の「先生」の家に同居し(前半)、若い時には活発だったが、関節痛に悩み今は水泳だけ熱心にやっている介護人の女性ヒョジョン(69歳)が入院中の病院で29歳の介護士から性暴力を受けたと警察に訴える話。周囲からはまだ見習いではあるものの若くイケメンで結婚を約束した女性もある介護士がそんなことをするはずがないという目で、「証拠」を求められたりもするわけだが、そうして事情を聴かれた男は「合意のことだった」と言い逃れる(誘われたとか言わないのはまだまし?)。その中で孤立無援のヒョジョンは「先生」の家を離れ知り合いの老人の介護を引き受けるが、そこでも身動きできない老人にちょっと手を出されたり…。69歳で老人だと本人は強調し一見ザンバラの半白髪を無造作にくくっている感じだし、表情は一貫して険しいが、ずっと見ているとこの「老女」意外におしゃれで、目鼻立ちも整い、決して「ばあさん」風ではないことが判ってくる。まあそうでなければこういう話は成り立たないのかもしれない。妻を亡くした「先生」は少々不安には思いつつもあくまでも彼女の側に立ち、事実を調べたり彼女を励ましたりしようとするが、弁護士をしている別居の「先生」の息子はいい顔をしない。ヒョジョンは介護士が二人が知り合ったと主張するスーパー場面を思い出せず(本人も含め認知症を疑ったりするところがこの年代の悲しさ??)それでも証人を求めて歩き、やがて、介護士の婚約者一家が住む海辺の町を探し当て…そこではちょっと暴力的場面もあり…決してハッピーエンド的終わり方ではないのだが、一貫して静かに静かに描かれ、いわゆるミステリアスな告発劇というより、「先生」とヒョジョン、周辺人物の心理に分け入るような描き方が、こういうタイプの劇としても韓国ドラマとしてもちょっと異色とも思われた。気になりつつずっとそのままにしていたシネマートのオンライン劇場に登録しての初鑑賞。(2月10日 シネマート・オンライン 031)

⑦三度目の、正直
監督:野原位 出演:川村りら 小林勝行 出村弘美 川村知 田辺泰信 福永祥子 2021日本 112分

「『ハッピー・アワー』から7年」という惹句にのせられ、時間もちょうど合ったので見たが…。ま、確かに『ハッピー・アワー』(2015濱口竜介)の製作チームが神戸に集結した意欲作であるというのは、納得できる?かったるさというかリアリティというか、そういうテイストは感じられた。
主人公月島春(川村りら。自ら脚本も担当)、その心療内科医であるパートナー、宗一朗。彼の娘の蘭が留学する別れの宴席の場面から映画ははじまる。その席には春の弟・毅の妻で宗一朗の患者でもある美香子が出席している。毅はラッパー(実際にラッパーとして音楽活動をしている小林勝行)で、美香子にも4歳の息子にもやさしいが、美香子は何となく心ここにあらざる感じ。春は蘭の出発に喪失感が強く、宗一朗と別れ実家に帰る。ある日記憶喪失の青年に出会い、前夫との間で妊娠し死産した子ども成人(ナルト)という名をつけて面倒を見始める。そこに成人が幼い時に家を出たという彼の実父も現れて…。複雑な人間が入り乱れ、あまりセリフが丁々発止というわけでもなく、表情も…という感じで極めて静かな感じで=つまり実生活でもあり得そうな感じ?で春のいわば異常性(子どもへの固執)や、美香子の不安が描かれ、女たちが不安の面持ちが強いのに対して、男たちは意外にノンシャランとした表情で自身の不安を言語化するというのが面白いようにも、しかしなんか固定的なジェンダー観?が垣間見られるようでもあり???。ただしこの映画には本当に父権・男権を振り回すというか気づかずにそこに居座っているような男がでてくるわけではなく、その意味では非常に繊細な感慨ではあるのだけれど…。こういう映画をみると作者の主張したい描きたい気持ちをすごく感じるが、では観客としてはそういう世界観をインプットしてどうなる?意味ある?というような感じ(共感するにしろ、非共感であるにしろだ)。(2月11日 渋谷イメージフォーラム 032)

➇奇跡
監督:カール・テオドア・ドライヤー 出演:ヘンリク・マルペア ピアギッテ・フェザースビル 1954デンマーク モノクロ・スタンダード 126分 1955年ベネチア映画祭金獅子賞 56年ゴールデン・グローブ賞外国語映画賞  ★★

カイ・ムンクの戯曲が原作だそうで、いかにも「舞台」っぽい画面のしつらえ、人物が登場する場所も決まっていて演劇的だし、カットせず役者が舞台の端から端まで歩き、延々と語るというようなロングショットもたっぷり見せ、なかなかの端正・様式美が面白い。物語は宗教への懐疑や、勢力争い的な葛藤のあるユトランド半島の農場一家と、息子(三男)の恋の相手の仕立て屋、そして一家の心配の種である次男(ヨハンネス 優秀で勉強しすぎて心を病んだ、自らをイエスと信じている)。美人でしっかり者の長男の妻・29歳のインガ―は3人目の子を妊娠し、一家は男子誕生を切に望んでいるというような、宗教も絡んだ家父長的な伝統意識のもと両家の父の間には三男の婚姻をめぐる争いが起きる。そんな中、インガ―が難産に倒れ死産、本人も命を落とす。するとそれまで自身の中にこもり祈り続けていた次男が一旦失踪。葬儀の席上妻・嫁の死によって諦念や、三男の結婚の和解や解決の兆しも見える中ヨハンネスが戻ってくると「なぜ、皆真の望みを祈らないのだ」と訴え奇跡をを起こす…というわけで、現代的なリアリズム的視点から見ると、寓話的なイメージではあるが、見終わると意外に演劇的というか映画的な快感が残り、満足感がある。(2月11日 渋谷イメージフォーラム 奇跡の映画カール・テオドア・ドライヤー セレクション 033)

⑨理大囲城
監督:香港ドキュメンタリー映画工作者 2020香港 88分 ★★

昨年オンラインで行われた山形国際ドキュメンタリー・フェスティバル、コンペ大賞作品だが、残念ながら自宅にいると他の用事が目白押しで見損ない、ようやく機会を得て、夜の講演時まで。約300人?の会場は満席(前売り券は買った1週間前に残り僅かという状況だった)観客の年代も多岐にわたり、関心の高さを感じさせられる。
2019年逃亡犯条例が可決された時期の民主化運動の流れの中、11月に香港理工大学の学生が学内に立てこもったが、警察に包囲され、攻撃されて、逆に閉じ込められる状況となった11日間。匿名の監督(集団?)が学内状況を撮影したものを編集、状況説明のテロップは出るが、それ以外ナレーションも、音楽(は、爆発音等のほか登場する学生が歌うラップ、警察側が流すジェイ・チョウらのポップス歌謡の音響のみ)もなく、「個人」が描かれることもほとんどなく、いわば淡々と描かれるのだが、その中で意気盛んに発言し、シュプレヒコールをしていた学生たちがだんだん疲弊し、先の見えない状況に脱出をはかるも失敗、最後の方では高校の校長たちが乗り込んで、警察側と交渉し学生の身元をを明らかにすることを条件に脱出させるというようなことにもなり、「家に帰りたい」という声ばかりが目立ちそれに乗っかるもの、いや頑張ると籠城を続けるものと、分裂も起こりというような運動の終わりまでが描かれている。一昨年見た『私たちの青春、台湾』(2017傅楡)は同じようなテーマを「個人」に特化して描いていたが、こちらは「個人」よりもいわばマスとして短期間の行動に凝縮して描いているだけに事件としてのインパクトは強いし、個人であれば様々な事情を抱えるわけだが、ここではそうではないどのような事情を持つにしろ、ここにいたのが普通の、弱さを抱えた人間である、そのような人々の主張が官憲の前で潰されていく悲惨さもより強く感じさせるのだった。事件を淡々と描いているが、カメラアングルなどはずいぶんおしゃれなところも。セレクションをされた森達也氏によれば、終わりの方ほど「女性の声が強くなる。男はダメだね(笑)」モザイクが掛けられていた学生の顔が、逮捕された瞬間モザイクが外されるのは、逮捕者の身を護るためなのだそうだ(身元不明のまま闇に処理されることがないように)。


上映前、人でいっぱいのロビー

(2月12日 座・高円寺2 【座・高円寺】ドキュメンタリー・フェスティバル 034)

⑩怒りの日
監督:カール・テオドア・ドライヤー 出演:リスベト・モーヴィン トーキル・ローゼ 1943デンマーク モノクロ・スタンダード94分 ★

中世ノルゥエイの牧師館。一、それが物語全体のアンネの性格造型の底流となっているようだ。3人の暮らしの中に、アンサロンの息子マーチンが帰郷する。これが顔つきは謹厳実直な父とそっくりのひょうたん茄子型風貌で働くこともなく家でブラブラ、年齢的にはアンネとちょうど釣り合うほどで、夫にあまり顧られないと感じていたアンネとは、まあ必然的な成り行きというか、好意を持ちあうことになる。「魔女」は焼き殺され、姑は厳格というよりはむしろあらわにアンネを敵視、夫は宗教的な「魂の安息」を求めて妻に向き合おうとはせず、アンネは情熱的にマーチンに向かうが、これも刹那的にはアンネを刺激するが、父の眼、神の眼?を恐れて煮え切らず…と、そんな孤独なアンネの状況がひしひしと身に沁みる。そしてある嵐の夜、友人の牧師をみとった深夜帰ったアブサロンは、アンネの非難とマーチンへの愛を打ち明けられて頓死するーアンネに見捨てられたからというより、誇りを傷つけられ神を冒涜されたと感じたのだろうなあ…そして葬儀の席上姑が決然として嫁を「魔女だ」と告発する…というわけで、この映画、人との関係を断たれたような孤独なアンネの闘いを描いているのだが、それにしてもアンネ、姑と、女性たちの何とも頑固で決然としているのに対して、男どもは神の権威を笠に着て自らを正しいと信じているものの、内面はどちらかというと弱弱しい、それゆえにさらに弱いものに対して強固な圧迫を機和得るというような描き方をされているのが印象に残った。「魔女」と告発されたら、私は魔女ではないと主張することはできず、自らが魔女であることを拷問によって自白しなくてはならぬという仕組みも驚きー「苦痛を伴う尋問によって、自らが魔女であることを自主的に述べた」と牧師は調査記録に書くのだが、え??これって字幕の誤訳ではないよね?という矛盾だ!これも戯曲原作があるようで、『奇跡』と同じく演劇的な舞台設定もちょっと感じられる。 (2月16日 渋谷イメージフォーラム 奇跡の映画カール・テオドア・ドライヤー セレクション 035)

⑪名付けようのない踊り
監督・脚本:犬童一心 アニメーション:山村浩二 出演:田中泯 石原淋 中村達也 大友良英 ライコー・フェリクス 松岡正剛 2021日本 114分 ★

踊り、ダンスというより身体表現というか身体と自然(場)の一体化を目指すパフォーマンスなんだな、これは…、と見入る。山梨での農業生活の時は普通の端正な中老の男なのに、踊る場面になると口は左に向けて開き、あえぐようなむしろ苦し気でさえある鬼気迫る表情となるのが面白い。最初と最後のポルトガル、山梨、78年全裸のパリでの踊りから現代の(裸体ではない)再演と観客のインタヴュー(これはなかなか興味深い。観客が彼と一緒に踊るダンサーはいるのかと聞くところから始まり、子どもや観客が一緒に踊り出すことはあると答える田中、するとお観客が、たとえ体は動かさなくても心では踊っている人が多いというやり取り、そうだなあと共感できた。田中という人はことば以前のものとして踊りがあるというが、カイヨワの遊び論への傾倒も含め、また石原淋という女性ダンサーへの指導演出の場面の語りなども含め、相当に明快な理論派なのだな、話がとても分かりやすいのにも感心した。踊りの方は、さすがに今は全裸はしないようだが衣装といい表情と言い、寝転がったりギクシャクと動いたり、油まみれになったりかなり異様な雰囲気を醸し出しているのだが…。「脚本」があり、語りは田中自身だしドキュメンタリー調ではあるが、単なる「記録片」ではなく相当作られ、演じられているのではあろうが、とにかく、見ごたえのある一本ではあった。(2月17日 渋谷文化村ル・シネマ036)

ジョージア映画祭

⑫インタヴュアー(個人的な問題についてのいくつかのインタヴュー)

監督:ラナ・ゴゴペリゼ 出演:ソフィコ・チアウレリ ギア・バドリゼ ケテヴァン・オラウラシュレリ 1978ジョージア 95分 ★★★ 

夫、思春期の息子と娘(監督の娘サロメ・ココペリゼが演じている美少女)、老いた母と暮し、記者として、いろいろな女性の生活や夢についてインタヴューをするという仕事をしているソフィコが主人公。。ドキュメンタリーのような感じで挿入されるインタヴューされるおもに女性たちの語りは断片的ではあるが、それぞれに当時のソ連邦ジョージアの暮らしや、おかれた政治的立場を彷彿とさせるもので印象的。そしてそれを聞くソフィコ自身が、フルタイムで出張も多いインタヴュアーの仕事に生きがいを続けていて、夫も協力的ではあるが必ずしも納得していない(まさに日本でも私たちの同世代はこんな感じの人が多かったと思う…)面もあり、不在がちな妻に浮気で応えるというようなこともあり夫婦仲がギクシャクしていくという「個人的問題」そしてソ連時代の粛清で父は処刑、母は流刑になり孤児院に育った彼女が二人の叔母に引き取られて育ち、10年後に母とも再会したのだという記憶が挿入されるというような社会的な問題が、説明的にではなく一つ一つの会話や、ソフィコの追憶的としてのエピソードで語られて、彼女の人となりがだんだん明らかになっていく。両親の幼年期のつらい記憶とは無縁に、けっこうワガママに育っている(朝、起きない息子をソフィコがたたき起こすような場面からはじまる)感じの息子や娘も飼い犬がいなくなって必死に探すが見つからないというようなエピソードも挟み込まれ、つまりはすべての人々がこの時代・社会の中で問題を抱えていないことはないのだ、それでも何とか生き続けるというようなメッセージが、端正な画面や、当時としてはすごくおしゃれなソフィコのファッション(旧世代には懐かしくも親しみやすくもある、例えばトレンチコートとしっかりした黒縁メガネ・ブーツとか)とともに描かれ、静かに心に染み入ってくる感じがした。(2月17日 ジョージア映画祭 岩波ホール 037)

⑬幸福
監督:サロメ・アレクシ 2009ジョージア 30分 ★

監督サロメ・アレクシは、『インタヴュアー』でソフィコの娘を演じたサロメで、ラナ・ココペリゼの娘だそう。この映画30分の短編だが、ジョージアの葬儀習俗とともに、印象に残る作品だ。3人の幼い子を残し亡くなった父の遺体が置かれた部屋に集まる家族の場面から。彼の妻はイタリアに不法入国し、(多分同じジョージア出身の?)金持ちのメイドをして家に仕送りをしてきたが、急な夫の死に帰国することができない。彼女は携帯電話で亡くなった夫に切々と語りかけ、その音声が葬儀の席上庭に集まる人々にまでスピーカーで流される。悲しみに暮れた妻はよき夫を称揚し、惜しむが、実際にそこにいる家族や弔問者にとって、なくなった男は必ずしも妻が言うようではなかった?ということで、その意識の食い違いとか、冷めた表情だったり、もっと実務的だったり?あるいは夫と付き合いがあったらしい女性が訪ねてきたりという食い違いがユーモアも漂わせながら描かれる。そのさなかにコンテナに潜り込みギリシャに出稼ぎに行くという親戚の女性もやってきたりするが、特にそれに対して作者的な視点からの評価があるわけでなく、やがて葬列は子どもたちを先頭に墓に向かって進んでいくという30分。美しい緑が印象的な自然、そこでの参喪者たちの風俗やおももち、そしてこの小さな事件の背後にある現代ジョージアの抱えた問題(海外に散らばっていわば出稼ぎをしている人々の63%が女性だとか)などが雄弁に描かれる30分でもあった。⑭と伴映。

⑭ブバ
監督:ヌツァ・ゴゴベリゼ 1930ジョージア 39分モノクロ/サイレント・サウンド版 ★英語字幕入り ★★

こちらは⑫のラナ・ゴゴペリゼの母で、ソ連邦初の女性監督であったというヌツァ・ゴゴべリゼのドキュメンタリー映画。コーカサス・ラチャ地方のダム建設から話を起こし、この地方の人々の自然の中での労働や、暮らし、祭りの群舞などの様子が描かれるが、モノクロでどちらかと言えば引き(ズームアウト)で撮っているにも関わらず、四季の移り変わりと人々の営みのドラマティックさは迫力がある。特に2歳までは家で一人で小さなベッドに寝かされ、2歳からイラクサ摘みなどの労働に従事する子どもたちの痛々しさとも、たくましさともつかない映像は、ウーン心に迫ってくる。こうしてみんな大人になって同じように暮らしていくのだという感じがするが、実際はそうでも何のだろうということも含め…。場面の切り方展開がやたらとうまくて斬新な感じがするからでもあろう。⑬と伴映。
(2月17日 ジョージア映画祭プログラムI 岩波ホール 038)

⑮DUNE砂の惑星
監督:ドゥニ・ウィルヌーヴ 出演:ティモシー・シャラメ レベッカ・ファーガソン オスカー・アイザック ジョシュ・フローリン ジェイソン・モモア ハビエル・バルデム チャン・チェン センディヤ 2021米 155分

実は我が家1分の映画館で長らくやっているときは、張震が出ているとは知らず見に行かなかった!「張震出てるよ~」という某氏の情報に都内上映館を探し最終日に。けっこうな満席近くでへー!で、10190年の宇宙SFで物語は割と単純、ただし8000年後でもヒエラルキーある帝政社会で覇権争いみたいなそこに、父を失ったややマザコンっぽい?若い青年後継者の砂まみれサバイバルと成長ということで後半につながっていく展開。ただし全面砂嵐や、爆発や、眼をひく画面展開と人種カラー入り乱れ、物語中も敵対する一族とか、皇帝?とか、それに砂の惑星の先住民なんかも現れ、主人公の青年に敵対したり味方したり、見ている間はなんか???という感じも。張震は青年の侍医ドクター・ユエ(月?)で青年を支えつつ、父公爵を陥れると見せかけて??というようなちょっと裏もありそうな、なかなかわかりやすい活躍だけれど、ウーン、最後はあえなく…ただ髪をオールバックにしているせいか、なんか陰険なオジサンという雰囲気なのがちょっとなあ残念というところ。物語は第2部に続く展開。(2月18日 早稲田松竹 039)

⑯最後の決闘裁判
監督:リドリー・スコット 出演:マット・デイモン ジョディ・カマー アダム・ドライバー ベン・アフレック 2021英・米(英語)153分  ★★

こちらも同じく、家の傍でやっていた時はどうかなあ、と後回しになってしまっていた。今回は2本立てということで見たのだが、長さはともかくとして、藪の中的展開をきわめてわかりやすくまとめて、見せ場もしっかりという感じのさすがの貫禄という作品だった。夫と敵対して出世していった旧友に強姦される妻の、当時にはあり得ぬような決意と、それだけに女性(妻)の置かれた立場の非人間的なまでの低さというかー夫は、持参金と後継者を生ませるためのみ妻をめとり、強姦された女が告発しても、それは夫の持ち物を汚されたゆえで、相手の男はあくまでも合意だ、むしろ女性が誘惑した姦通だと言い張る、その結果男たちは決闘することになり、負けた方は裸にしてつるされるのだが夫が負けた場合には妻が神意に背いて嘘をついたことになり火あぶりという何ともいやはや、なのだが、それでも自分は強姦されたのだと主張する妻の強さ恰好よさ、そしてそのような苦境を切り抜け(まあ、夫に賭けたということ?)夫が十字軍に遠征して死んだあとも30年、女主人として再婚もせず館を守り切ったというのは快哉というべきなんだろうな。ジョディ・カマーが極めて格好いい。3人の視点で同じ物語が3回演じられ語られるのだが、その時のそれぞれの視点の差の描き方も極めて明快であった。マット・デイモンの愚直剛健な夫というのは今までとは少し違う役柄のようにも思うが、はまっている。(2月18日 早稲田松竹 040)

ここからイスラム映画祭

⑰ある歌い女の思い出
監督:ムフィーダ・ムラトゥーリ 出演:ヒンド・サブリー ガーリヤ・ラクロワ アーメル・へディリ ナジア・ヘルギー 1994チュニジア・フランス(アラビア語・フランス語) 129分 ★★★

この映画のかつて日本公開時のポスターはすごく印象的で、2001年中野武蔵野ホール?上映で多分見た…ヒロインの少女の顔にも見おぼえあるなあと思いつつ。ユーロスペース恒例のイスラム映画祭の初日、ほぼ満席とみえる会場に潜り込む。
1960年代、チュニジアの元王族の王宮で召使(台所仕事も、小間使いも、ベリーダンサーも、そして王家の男の夜伽も)ケテイージャを母に父はわからず(王族のだれかではある)生まれたアリヤ。母は二度目の妊娠で命を落とし、少女は大人になって王宮の家庭教師と駆け落ちして王宮を出、歌い手として生きているが妊娠、しかし恋人は子どもを持つことを望まないという中で、王宮で父のようにかわいがってくれた元皇太子シド・アリーの死の知らせを受け取る。葬儀に王宮に戻った彼女が、自分たちの暮した王宮の部屋を歩き、今や目を患う老いた召使頭ハシダと再会し、少女時代の様々な場面を思い出していくという話。
王宮は王族たちと台所の召使たち(とその家族)に二分されているが、少女アリヤはその出自ゆえに王族の女たちには冷たくあしらわれつつも、同日に生まれた王族の娘サラとは仲良く育ち、男たちにもまあ好色含み?ではあろうが可愛がられ、歌のうまさもあって、両者を行き来する視点を持つ。その中で召使の女たち、とくに母の立場や過ごし方のあたかも奴隷のような不自由とその境遇での一種のシスターフッドが描かれていく。サラの婚約式の日、歌を披露することになったアリヤは国の独立と自由を希求する歌を歌い、王族や客の総スカンを食らう。同じ時間に母が亡くなり、そして彼女は会場にただ一人残った独立派の家庭教師と王宮を出ることになるわけだ。大人になったアリヤは、召使たちにはいわば羨まれるような外の世界で生きる自由を得たかのように見えるが、恋人との関係ではやはり抑圧され、妊娠した子を生む自由さえ阻害されるわけだ。しかし、王宮での数時間の追想後、生まれる子が女なら母の名をつける(これは名前は繰り返しつつ、同じ人生は歩ませないという決意に思える)そんな、アラブの女性の沈黙を強いられるような生活が描かれそこからの脱却を暗示される、きわめてジェンダー意識の高い映画だ。(2月19日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 041)


⑱ヌーラは光を追う
監督:ヒンド・ブージャマア 出演:ヒンド・サブリー ロトフィー・アブドゥリー ハキーム・ブームサウーディ  2019チュニジア・ベルギー・フランス・カタール・オランダ(アラビア語) 93分 ★

⑰で主役の少女を演じた女優ヒンド・サブリーは国民的女優となり、15年の時を経てティーン・エイジャーを頭とする3人の子の母を演じている(それにしても、ちょっと小太りのこの体型、⑰の母役や大人になったアリヤ役のほっそり・すっきりに比べるとウーン?ていう感じも)。ヌーラの夫ジャメルは詐欺や強盗?罪で刑務所に(出たり入ったりを繰り返す職業的泥棒?みたい)。その留守、病院の洗濯部門で働きながら女手一つで子育てもする彼女は、ラサドという自動車修理工と恋仲になり、夫との離婚を申請中、あと4日で離婚が成立するというところにこぎつけたが、突然大統領恩赦でを受けた夫が出所・帰省してきてしまう。チュニジュアの法律は女性からの夫との離婚申し立てはできるが、婚姻中に他の男と付き合うと姦通罪で(男女とも?)5年間の懲役ということになる、というわけで大慌てのラサドとヌーラだが、ラサドはヌーラに、夫に告げて別れるように迫り、夫の方は当然のこととして家族とともに暮らすつもりであり、どちらの男も言いたい放題したい放題という感じでヌーラを攻め、夫に別れを言えないヌーラはラサドに答えることもできず苦しむと、ここでも女が沈黙を迫られ苦しむという構造が描かれる。数日間の話だがその中で夫は、ラサドの存在を知り、ヌーラに無理やり電話をかけさせラサドの勤める修理工場に呼びだし…とこのあとは暴力的な展開にもなり、警察で三者が対面するというようなハラハラ場面もあるが、ヌーラはあくまでもラサドを知らないとしらを切らざるをえない。その結果夫は新たな暴力事件の結果もあり再度刑務所へ。そこに離婚の成立を告げる役所からの電話があって、ヌーラはラサドをたずねて改めて復縁を申し出るが、ラサドは冷たく断る、というわけで結局いろいろに気を使いつつも、状況に流されその場しのぎの対応しかしなかった(できなかった)ヌーラは二人の男性を失う?最後に家でぐったり倒れ伏し、周りで子どもたちが騒ぎまわる描写があり、そこに1本の電話がかかってくるところで映画は終わる。さてこの電話誰から何を言ってきた?ヌーラの頬に幽かに浮かぶ笑みとともにいろいろな想像を掻き立てられるような終わり方もなかなかうまい。(2月19日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 042)


⑲時の終わりまで
監督:ヤスミーン・シューイフ 出演:ジーラーリー・ボウジェマア ジャミーラ・アラ―ス イーマーン・ナマーム   2018 アルジェリア・UAE(アラビア語) 94分 ★★

こちらは男性が主人公の女性監督映画。田舎の街の集団墓地がほぼ舞台。墓堀や遺体の清めを仕事とするアリーという老人(幾つくらいの設定だろう。少なくとも60以上ではありそう)。墓のある街には都会から3日1回のバス便があって、参拝客を下ろしていく。ある日その中にジョヘルという初老の女性がおり、彼女はこの街で暮らして亡くなった姉の墓参りに来たというがきわめて不機嫌な面持ち。姉はこの街に住み着き、墓に参る人に食事を出すなどの世話をしていたが、ジョヘルはそれをいかがわしい商売と誤解して、周りへの警戒を解かなかったのだと、中盤近くにわかる。姉の住んでいた家に住み、残した衣類などを着て(もともと姉とはそっくりらしく、人々は皆彼女を一目見て姉の妹とわかるのだ)アリーの世話を受け、二人はだんだん打ち解けてくる。最初は真っ白に漆喰を塗られた墓地の輝くような明るさ、そこで死者の世話をする人々、アリーの他に漆喰を塗るジェル―ル、参拝者を気遣う導師、それにこれは最初あら最後まで墓地ビジネスにいそしむナビール、それにかつて姉と仲良く参拝者の世話をしていたナスィーマという女性などに見守られつつ、アリーはただ死者のため、来世というか、彼らやアリー自身の来るべき未来のため?に諮穴を掘り、遺体を清めるのだが、やがて…。アリーとジョヘルの仲が取りざたされ、ジェルールも取りつかれたようにナスィーマを愛し、結婚にまで持ち込み墓の仕事はやめてしまう。導師はメッカ巡礼を目指して浮足立つが果たせず,遺体を清拭するアリーの仕事場に脱臭スプレーをもって駆け回るー匂いの感じられなかった乾いた明るさのこの映画に一瞬にして臭いー死臭が満亙なかなかの演出だーそしてナビールの墓地ビジネスはますますエスカレートして泣き女のデモンストレーションとか、笑えるようなシーンも。アリー自身も導師に留守を頼まれて導師風の衣装を着こんだり、またバイクの後ろにジョヘルをのせて買い物に行ったり、要所要所ではいつもの作業着風シャツから、なかなかおしゃれなブレザースタイルになったりと、決して墓守一筋で世間を知らない男というふうには描かれずけっこう俗っぽいのだが、こうしてジョヘルの視点から描かれた町の人々が、単なる墓守たちから「人々」に変わっていったとき、アリーは導師に勧められジョヘルに求婚。しかしジョヘルは…というわけで終わりは純粋なアリーの方がこの街を見限った?とも思われるほろ苦い遠景の演出で終わる。清廉に墓守をして、周りの尊敬を受けているようでありながら、街では子どもたちに石をぶつけられるアリーの立場の微妙さとか、ある意味二面性も感じさせられるような、このからりと明るく光に見た、俗世間離れしているかに見える小さな町の二面性の奥深さのようなものが感じられ、それがこの社会全体の変化にもつながっていそうで、ウーン、案外複雑な視聴感といおうか…ジョヘルの風貌もあいまって『バクダッド・カフェ』を見た時の感じを思い出した。(2月19日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 043)

⑳ジハード・フォー・ラブ
監督・脚本・撮影:パーヴェス・シャルマ 出演:ムフシン・ヘンドリクス マーゼン サナ マリアㇺ マハ アミール 2007米・英・仏・独・豪(アラビア語 トルコ語 ペルシャ語 ウルドゥ語 パンジャビ語 ヒンディー語 フランス語)81分 ★★

「ジハード」は「聖戦」などと訳されることが多いが、本来は「努力」だそう。ゲイのイスラム学者ヘンドリクスや、同性愛者として、神はそれを許さないとされる教義の中、信仰と自らの性愛志向を両立させるべく、さまざまなやり方でーヘンドリクスは教義について旧来的な考え方と論争をするが、それだけでなく中には亡命や、結婚などもあったり、などの同性愛者(男女とも)のさまざまなジハードを描くドキュメンタリー。舞台も南アフリカ、フランス、イラン、トルコ、パキスタンなどと彼らの移動の曾即席や、あるいは考え方の違いから「努力」のありようが違ったりと、見ごたえあり、勉強にもなった。終わった後の、九州大学博士課程の辻大地氏の「イスラムと同性愛」の話で、内容が整理された感じで、これもよかった。監督自身もゲイを公表しており、内部からの描き方(でも本当にありようは様々なのだということも含め)を感じる。2008年にすでレズビアン&ゲイ映画祭で公開されたものだそうだ。(2月20日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 044)

㉑泣けない男たち
監督:アレン・ドルリエヴィッチ 出演:ボリス・イサコヴィッチ レオン・ルチェヴ エミル・ハジハフィズベコヴィッチ セヴァスティアン・カヴァツァ エルミン・ブラヴォ ボリス・レル 2017ボスニア・ヘルツゴヴィナ スロベニア クロアチア ドイツ(ボスニア語)99分 ★★

かつてボスニア紛争で心や体に癒えない傷を負った男たち10人ほどが部?のシーズンオフのリゾートホテルで、セラピー・ワークショップに参加する。支援団体主催で参加者が報酬をもらうような仕組み。ボスニア人、セルビア人、そしてムスリムと三種の民族立場が入り乱れるというか、互いの立場に思いをめぐらすことも重要なセラピーの一環ということであえてそのようなワークショップが開かれているのだ(この映画では俳優陣もそれぞれ自分の民族を演じているそうで、そういうことはむしろこの地域の映画としては珍しいことらしい。なおことばについてはボスニア語、セルビア語、ボスニアムスリム語とそれぞれ称してはいても、通じ合う同じ言葉と言っていいらしい)主催するセラピストのイヴァンはボスニア人だが戦争中はスロヴェニアにいて紛争を経験していないーそれが引け目にもになってるという設定。でワークショップは、それぞれの過酷な経験を互いに演じ合いお互い相手の立場を経験するというようなもので、参加者にとってはなかなか過酷、互いの反発や憎悪も生まれたり、逆にもちろん思いやり生まれたりはするのだが、その過程がドキュメンタリーのような感じでリアルに描かれていく。セルビア人のミキの抱えるが虐殺に加担した記憶の重荷、役割を変えることにより頭では理解を示すが、やはり感情が許さず彼の車を叩き壊し火をつけるという暴挙に出るクロアチア人のヴァレンティン。そんなかムスリムのアフメドの母の葬儀に全員で参加することになるが…ムスリムの一族はクロアチア人やセルビア人らを含むうさん臭い一行の参加を必ずしも歓迎せず、一方のミキは罪の意識から自殺を図りそれをヴァレンティンが見つけて助けるというようなドラマティックが最後にある。帰り道小休止する一行の前にサッカーチームのバスが止まりユニフォームの少年隊がわらわらと下りてきて、ボールをパスし合うという光景は、作者がこの映画に託した未来の姿にも見えてなかなか秀逸、印象的だ。すごく意欲的な実験映画、そして自らも多分傷を持ちそれを体現することができるっ役者たちの名演技によって支えられているのだと思われる。ことらはボスニアに紛争を含むバルカンの歴史について、山崎信一氏(東大)のわかりやすい講義(解説というより)がありこれも勉強になった。(2月20日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 045)

㉒天国と大地の間で
監督:ナジュワー・ナッジャール 出演:モナ・ハワー フィラース・ナッサール 2019ルクセンブルク パレスチナ アイスランド(アラビア語 ヘブライ語 英語 仏語) 92分★★

これも離婚しようとする夫婦のロードムービー兼メロドラマ(ということもないが心理ドラマ)さらにミステリー仕立てという娯楽映画の王道みたいな構成でありながら、やはり舞台となったイスラエル北部ガレリア地方の社会情勢・歴史・文化状況などを知らないとなかなか理解が難しい奥深さを持った作品。特にかつてユダヤ教シオニズムが、アラブ系ユダヤ人の赤ん坊を盗み「純粋なユダヤ人家庭」に預けて「血の浄化」を行ったという、ナチスまがいの恐ろしい歴史が下敷きになっているはいささかのショックを感じさせられる。離婚しようとする夫婦も片やベイルート出身でイスラエル入国が難しい夫と、イスラエル生まれで市民権も持つ妻がナザレの裁判所に出向いて離婚を届けようとすると、夫の父(有名なジャーナリストがモデル)の最後の居住地が違うとか言われその身元を明らかにするために、夫の父と最後に一緒にいたという女性ハジャルとその息子の所在を訪ねて行くのだが―そこに両親が殺されるような悲惨な夫の幼時の記憶が重なり、父の死の真相とそこに関わったハジャル関係があきらかになり、夫タームルの異母兄タミールが「盗まれた子」であったということも明らかになっていくのだが、むしろ冷めた夫婦が旅の過程で会うフランス人夫婦とか車に住むシリア人?の女性とか、彼を取り囲み脅すユダヤ人たちとか、あるいは旅の音楽家?とかそういった造型がなかなか面白く、ユーモラスでもあり楽しめるドラマにも仕上がっている。わからない難しいとは現地の人は多分思わないような歴史の常識なんだろうと思われる。(2月20日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 046)

㉓ソフィアの願い
監督:マルヤム・ビンムバーラク 出演:マハ―・アルアラミー サーラ・ベルレス
ルブナ・アザバル ハムザ・ハフィーフ ファウジー・ベンサイーディー 2018仏・カタール・ベルギー・モロッコ(アラビア語 フランス語)85分 ★

これは、なんかすごいものを見た!投資や事業の拡大について盛り上がる一家の、いわば末娘的立場?でも「お茶を淹れて」とか言われて台所とその場を行き来しているようなソフィアが、その台所で苦しみだし破水。気がついた従姉で癌の専門医のリナが母の車のキーを借りソフィアを病院に連れていく。最初の病院では断られ、リナは自分の伝手で無理に知り合いの男性医師に頼み込みソフィアを自ら出産させる。ーというのもモロッコでは婚外交渉は厳しく処罰され父がわからない子を妊娠出産をすると懲役刑になるとか。リナは子の父が下町(貧しい地域)に住むウマルという男だと聞いて認知させようと赤ん坊を抱いたソフィアともども訪ねて行くが冷たくあしらわれる。そしてソフィア・リナの両親の知るところになり、彼らが乗り出してくるのだが…。そこからの展開がすごい。富裕層・上流階層を自認するソフィア側の一家は(特に貿易商の専業主婦であるリナの母が中心になり)、ウマルに責任を取らせ、結婚させようと図る。最初娘たちがやってきたときにはドアをあけもしなかったウマル側の母も、相手が富裕であることを知った途端に息子不在の場で彼を売り込みにかかるという感じで、ここでは母子の幸福とかそういうこと以前に、こういう関係によって事業がダメージを受けないようにと心配するソフィア側とともにこういう関係を利用して地位上昇生活の安定を目指そうとするウマルの母側の思惑が優先されるわけである。そんな中、警察での調べでソフィアは合意の交渉であったことを認め(レイプと言い張ればウマルは5年の懲役刑)、自分が処女であった(このとき答えるまでにだいぶ長いのが一種の伏線になっている)ことも認める。最初は彼女とは1度あっただけで触れてもいないと言っていたウマルも交渉を認め子の認知と、結婚することを宣言し、法律的には彼らは状況クリア、リナだけが愛がない結婚をするのかと心配する中、ソフィア側は早速に一家をあげて華やかな結婚式の準備が始まる。しかしウマル側は結婚を承諾したもののウマルは、すり寄り子の命名を願うソフィアには唾を吐き、二人の仲をより良くしようと、リナが休暇旅行用(つまりハネムーン)費用をウマルに渡すーこのリナの造形も興味深い。常にソフィアの味方であろうとし、家名や事業の維持のために便宜的に結婚が進められているような状況に疑問を持ち、従妹(夫婦)に良かれと行動もするが、そのやり方はこのハネムーン費用や、カフェでソフィアが頼んだオレンジジュースが生(ナマ)でないと文句をつけるところなど、彼女の母とそっくりな強引・独りよがり的なところがあるように描かれている)ーウマルはその金で「高級娼婦を買いに行く」と言い放つ。というわけで、その後、実は子どもの父はウマルではなかったという衝撃の事実も判明、それにもかかわらず結婚式は華やかに予定通りに敢行され、美しく着飾っているのに少しも美しく見えないソフィアの笑顔、彼女と離れてすわり仏頂面のウマル、そして子供の実の父にはカメラはかなり長くとどまりという極めて意地悪なカメラワークでこの物語は仕上げられる。単に婚外妊娠のジェンダー的問題にとどまらず、それが社会の貧富の差の二重構造の中で、それぞれの思惑にのせられソフィアさえもそれにのせられているという厳しい批判、人間の心より経済的な価値や社会的地位などにより、それと気づかずか気づいてか蹂躙されていく人々の姿が苦い映画だ。功利的にものを考えるソフィアの叔母役は、『モロッコ、彼女たちの朝』の主演女優ルブナ・アザバルでいわば正反対の役柄を演じているわけだ。(2月21日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 04)

㉔アジムの母、ロナ
監督:ジャムシド・マームディ 出演:モフセン・タナバンテ モジュタバ・ビルザデ
ファーテメ・ホセイニ フェレシティ・ホセイニ ファーテメ・ミルザイ 2018アフガニスタン・イラン(ペルシャ語・ダリ語)89分 

こちらはアフガニスタンからイランに移住したアフガン人一家の母と息子の物語。母と一緒に住んでいた弟一家は母を残してドイツへの密航を図り、おいていかれた母は、弟一家を送って行った帰り道アジムの運転するバイクから転げ落ち、その怪我はなかったものの、病院で重度の糖尿病で腎臓移植しか助かる道がないと宣告されてしまう。母の腎臓を求め右往左往するアジム。妹は血液型が合わず、彼自身も母と同じく遺伝性の糖尿病の素質を指摘され腎移植をすると数年後には自身の命が危ないと言われてしまう。臓器を売るというイラン人の男にたどり着き難しい交渉をし、なんとか承諾にこぎつけ腎臓を買うことにするが、イラン人から外国人であるアフガン人への臓器移植はできないという法律があるということでこれもダメ。万事休すで母はどんどん弱っていき、というような過程が静かに重苦しく進んでいく。2か月?程してある日突然、弟が息子を一人だけ連れて帰国する(妻と他の二人の子がどうなったのかは語られないが、無事に?移住したのか、それとも密航に失敗して命を失った??どちらにしても移住を試みた弟も決して幸せになったわけではない)。瀕死の母に孫が寄り添うところで映画は終わるのだが、それが唯一の救いで、彼らのおかれた立場の苦しみやそれを神の定めとして受け入れる姿が、アジムの姿を通して感じられるのである。(2月21日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭7 048)


ここから再びジョージア映画祭(岩波ホールロビー)




㉕結婚式
監督:ミヘイル・コバヒゼ 出演:ギオルギ・カフタラゼ ナナ・カフタラゼ 1964ジョージア(ソ連)モノクロ字幕版20分 ★

薬剤師の青年が街で見かけた女性に恋をし、思いを募らせ家までついていってしまう。しかし女性の母親のユーモアたっぷりの横やり、そして夢のシーンではプロポーズが成就するが、現実は・・という苦い終わりまで。セリフは一言もなく音声で綴ってすごーい。おしゃれでユーモアに満ちて、こんな映画が60年代ジョージアでは作られていたのだと初めて知る。以下㉕㉖㉗㉘は一続きで伴映。とってもお得感がある。

㉖傘
監督:ミヘイル・コバヒゼ 出演:ジャナ・ペトライティテ ギア・アヴァリシュヴィリ1967ソ連 モノクロ字幕版19分 ★★

こちらも、孤独な線路監視員の青年の、女性(というか少女かな)の恋。現われた白い傘が二人を翻弄するかのように空を舞い、持ち主らしき男も現れて…ちょっとハラハラドキドキしつつ、ひそやかだが幸福感もないでもないという結末へ。今ならCGかもしれないが、この当時傘の空中飛翔をどんなふうに撮ったのだろうか。

㉗音楽家たち
監督:ミヘイル・コバヒゼ 出演:ミヘイル・コバヒゼ ギア・アヴァリシュヴィリ1969ソ連 モノクロ字幕版13分 ★★★

いや、もうこれはなかなか。全体が真っ白い背景の中、監督自ら演じる男(ミシャ)の一人チェス、そこにはるかかなたに現われるギアは『傘』を主演したギア・アヴァリシュヴィリだが、全然違った雰囲気で、二人の男のユーモラスな(ちょっと毒もある)パントマイム劇で、ダンス、追いかけっこ、フェンシング、闘牛、銃や大砲での闘い、片方が倒れたり、バイオリンとコントラバスの演奏、またまた仲直りのデンス?と13分とは思えない盛りだくさんさで話が進み(台詞なし、音楽は結構凝っている)人間関係とか国家間のさまざまな関係のメタファーになっているというのだが、上品・上室・ユーモアに満ち、かつ哲学的でもある?というステキな至福の時を過ごさせてくれる。

㉘井戸
監督:エルダル・シェンゲラヤ 2020ジョージア モノクロ+カラー21分 ★

「ミヘイル(ミシャ)・コバヒゼの思い出に捧げる」という献辞からはじまる。コバヒゼ監督は2019年80歳で逝去。この映画は彼より6歳年長のシェンゲラヤ監督が87歳で作ったというわけか…。テイストとしてはやはり老成した監督が作ったという感はあるー現代のトリビシの旧市街で工事人たちがやってきて街角に井戸を掘る話ー携帯電話なども出てくるので現代の話と分かるが、そこに現われる登場人物は日本風に言えば「昭和の人々」という雰囲気をまとっている感じがする。そして町の大時計がいつも8時を指して進まないところなども、この映画の未来性というよりは過去性を表している感じがする。ただし決して古臭いという感じではなく、ユーモアや皮肉にも満ち、傘が飛んだりなどはコバヒゼ作品を彷彿とさせ、最後の方人々が集まるエンドロールも幸福感に満ちて温かい作品に、まさに仕上がっている感じ。プログラムには入っていなかったのだが、当日追加上映となった。㉕以下との伴映作品で、お得感はますます。(2月21日 ジョージア映画祭プログラムD岩波ホール 049)


㉙私のお祖母さん
監督:コンスタンティネ・ミカベリゼ 出演:アレクサンドレ・タカイシュベリ E・チェルノワ E・オヴァノヴァ  1929ジョージア(ソ連)モノクロ無声67分

「お祖母さん」と言ってもこの映画では「後ろ盾」のこととか。前半は遠景の「職場」席の後ろにそれぞれドアがあり、理事長、書記、なんとかかんとかという役名の札がかかっている。それぞれの役職はテーブルに向かって書類を書いたりしてもいるが寝ていたリする人も。その外側にはゴミ箱とあふれる紙屑の山がそれぞれにあり、それを上から見下ろす位置に襤褸を来た門番が座って監視?しているという映像。そこで理事長が頓死?してそのあとをめぐる権力争いとか、労働者代表がストライキ通告を持ってくるが遠景テーブルの面々の書類のたらいまわしとか、官僚的な機構の有名無実の仕事ぶりのバカらしさが皮肉たっぷり、様式的に描かれる。後半はひとりの役人の失職と離婚するかどうかの騒動?こちらももちろん主張としては同じで、1930年ごろのソ連でこんな体制批判的なユーモアたっぷり、アニメまで含んだ映画が作られた文化度の高さに驚かされる。あまりに過激な内容にジョージア映画史上初めて上映禁止になり67年までお蔵入りしていたのだとか、それも納得という映画であった。次の㉚と伴映。

㉚スヴァネティの塩
監督:ミヘイル・カラトジシュべり 1930ソ連 モノクロ無声44分

作られた時期からいっても⑭『ブバ』と同じテイストで、スターリンの生産計画の現場プロバカンダ映画としてこちらはコーカサス・スヴァネティ地方の高地の過酷な自然やその中での生活が描かれたドキュメンタリーで、映像の力が並外れて強力であると評価された「傑作」らしい、のだが、クローズアップ映像の連続で、ときに非常に凝ったアングルの遠景というか全体像が混じるというのが、迫力はあるのだが、生活も自然もマクロに描かれている感じで全体像というか俯瞰的なところがあまりなく、話を聞け話を聞けと押さえつけられている感じですごく疲れて集中できなかった。もう、今日の続きの鑑賞はやめて帰ろうかと思ったくらい。㉙と伴映。  (2月22日 ジョージア映画祭プログラムF岩波ホール 050)

㉛少女デドゥナ
監督:ダヴィト・シャネリゼ 出演:マレフ・リコケリ ぺレク・オドシュシュシェリ ジョージア国立弦楽四重奏団   1985ジョージア・ソ連 64分 ★★

こちらは、85年の作品だが現在ドイツに1本フィルムが残るのみとか。今回は監督が提供した作品素材だそうで、かなり劣化しているが、でもしっとりした山村の雰囲気と、少女の黒髪・赤いコートが美しく心に残る。母を亡くし山村で牛飼いをする父と二人で暮らす少女、近所のマルタおばあさんのようなしっかりした大人になると願う素朴な、周りの人々を思いやりつつ学校に行き家事もするという少女の学校~休日~学校の2日間あまりが淡々と描かれるのだが、本当にしっかりと堅実・素朴な暮らしを着々とこなしながらー母の残した着物を胸に当てて大人のおしゃれの世界にあこがれるようなかわいい女の子らしさや、祖母の夢を見て寄宿舎を抜け出し、少女の父に助けられる少年とのちょっとときめく?ような(しかし少年は少女の家のドアや再生機(蓄音機)を直すなど、これもなかなかに現実的堅実な付き合いなのだが)少女の少女らしさもにじみ出ていて、ちょっと寂しいが穏やかな後味である。(2月22日 ジョージア映画祭プログラムF 岩波ホール050)

㉜大いなる緑の谷
監督:メラブ・ココチャシュヴィリ 出演:ダヴィト・アバシゼ リア・カバナゼ ムジア・マグラケリゼ 1967ジョージアモノクロ85分

「大いなる緑の谷」で牛飼いをするソサナという男が主人公。この地に油田開発の動きが起こって井戸水が汚染され、また農場集団化で、彼らはこの地を離れて農場に加わることが政府からは求められている。男の妻もそんな動きの中でこの地を離れる(最初はソサナに反発する妻が柵に首をかけて半死になるようなちょっとショッキングな場面から)ことを望んでいるし、長年彼のもとで働いてくれた老いた友も仕事に見切りをつけて去っていく。彼は、慕ってくれる小学生?の息子だけを相棒に牧畜にいそしむわけだが、水質汚染のゆえか牛たちも日に日に弱り、という苦境に立たされる。古くから大切にしてきた自然や暮らしが現代化によって破壊されていくことへの抵抗をソサナの姿によって描くこの映画、体制へのアンチテーゼと批判され。完成してから10年間公開できなかったのだそうだ。モノクロなので、緑の谷といっても寒々とした厳しい土地の印象が強いが、主人公が息子や恋人?と水浴びをする川辺の映像は陽光に満ちた雰囲気で主人公の心の陰影が反映されているようだ。平日夕6時からの回だが2時間前にチケットを買い68番。始まってみると前5列ぐらいはほぼ満席。熱心なジョージア(ソ連系?)映画のファンがいることを感じる。(2月22日 ジョージア映画祭プログラムF 岩波ホール051)

㉝ゴヤの名画と優しい泥棒(THE DUKE)
監督:ロジャー・ミッシェル 出演:ジム・ブロードベント ヘレン・ミレン フィオン・ホワイトヘッド  2020英96分

この映画のチラシのバントン夫妻(もちろん、演じる二人の役者)は夫はなかなかシックなスーツ姿、妻役のヘレン・ミレンはすてきな赤いカーディガンでとても若々しくおしゃれな雰囲気なのだけれど、実際の映画の中では、夫はパン屋の制服?姿だったり、妻もいつもくすんだダーク系のいでたちで、高齢になって他家の清掃をするというような暮らしぶりを表しているような暗さ。映画もそういう感じで奇想天外な名画泥棒実はハートウォーミングな…というようなイメージが強調されるが、いい人でおしゃべり上手だがなのだが周りをあまり見ず、案外困った?オジサンのしかし横車押しつつ日本で言えばNHK不払い運動に邁進する男の物語で、けっこう真面目な?(しかしどこか不真面目というか規格に合わない感じがある)社会派ドラマでもあり、何しろ実話ベースで、しかも実在のバントン氏の孫(映画の中の一人息子のその子どもっていうことになる)の企画発案でできたというのでびっくり。戯曲ををたくさん書いて上演はされなかったというバントン氏(なんか切ない)の孫らしく、ご本人が脚本の初稿を書いて売り込んだというから、けっこう祖父似の孫なのかも…、と思えてしまう。役者がみんな結構個性的・魅力的なので楽しんで見られた。変わり者っぽい息子役のフィオン・ホワイトヘッドもなんか、かわいいし。(2月25日 府中TOHOシネマズ 052)

㉞国境の夜想曲
監督:ジャンフランコ・ロージ 2020イタリア・フランス:ドイツ 101分 

『ローマ環状線、めぐり行く人生たち』(2013)ではローマの環状線という限定された場所を芯としてそこに育る人々のそれぞれのありようを撮ったロージ、『海は燃えている~イタリア最南端の小さな島』(2016)では海辺の村に生きる人々と難民問題がリンクして映像的にはよりドラマティックというか迫力が増したが、少しポイントが定まらないという感じもしなくもなかった。映像ビジュアルで見せる?という傾向はさらに強くなり、イラク・シリア・レバノン・クルディスタンの国境地帯で3年以上の時間をかけて撮ったという今回の映画、国境地帯で生きるそれぞれの人々ー戦争で子どもを失って嘆きの歌を歌う母、戦火にさらされ人の死を見つめて傷ついた子どもたちの絵をとおしての教師との会話、政治劇?を演じる精神病院のワークショップ、シリアに連れ去られた娘からのメッセージを聞く母、国境地帯で暮らしアルバイト?にガイドをする?少年ーこの子が映画のポスター映像で、何とも印象的な美少年だが、暮らしぶりはむしろ地味。暗い中に光が漏れ、水辺が光り、夜の闇に夜明けの光が…というわけで全体的にすごく暗くて老いた目にはとてもつらいのだが、それだけに光のシーンはまた、印象的ということで、けっこうどんどんビジュアル化している。戦乱の国境とはいってもあちこちにカメラが飛びまた戻って繰り返すという感じ。ほとんどはロングショットで人の顔も定かならず、中で幾人かが闇に浮かぶようなクローズアップ映像という映画なので、相当に事前勉強もしてある程度知識を持ってみないと、今何が移っているのかさえ分からないところもあって―ウーン。すごく意欲は感じるのだが、いささか疲れる。しかし疲れたということ自体がその人の意識の低さを示すような?そんな後ろめたさも感じさせられている評判の高さ。(2月27日 キノシネマ立川 053)

㉟白い牛のバラッド
監督:マリヤム・モガッダム ベタシュ・サナイハ 出演:マリヤム・モガッダム アリレザ・サニファル ブーリア・ラヒミサム 2020イラン・フランス(ペルシア語)105分

夫が死刑になって1年後、工場勤めで聾唖の娘を育てながら生活苦にあえぎ、夫の家族からは同居せよと催促されているミナのもとに実は夫は冤罪であったのだという報せが届く。その直後、彼女の元に夫の友人だったというレザという男が突然訪ねてきて、夫に借りていたとして大金を彼女に返し、また、男を家に入れたとしてアパートを追い出された彼女に家を提供し行き届いた世話をしてくれる。前半はこの男いったい誰なのか、この親切には裏があるのではないかとミナともども観客もハラハラ、ドキドキのサスペンス気分を見ながら見ていくのだが、間もなく、ミナの知らないところで観客にはこの男こそが実は彼女の夫に死刑判決を下した判事で自らの判決を過ちとして悔い判事を辞したのだとわかる。そうなると今度は、それを知ったミナがどういう態度を取るのかというのがもう一つの映画のサスペンスということになるわけだが、観客の心配をよそに、男の息子の戦死や男自身の病気とミナが世話をする、そしてミナが男に心を許し一夜男の部屋をノックするというような展開も経、また夫の家族から娘の親権を要求する裁判を起こされていたミナの悩みと男の援助?なども描かれたはてに、夫の弟から実はレザこそが判事だったのだと知らされたミナ…、さてどうするか。いや、日本人には考えられないような直撃的な復讐のしかただなと感心するような、しかし女の復讐は、自らの破滅なしには成就しないのではないかと思わされるような、なんともここもサスペンスフリーな結末。前半のミステリーと後半の恋愛復讐劇がちょっとアンバランスな感じもしないでもない。むしろ、夫を失ったことで、生活苦ー社会保障を求めてなかなか得られないシーン、家を失う場面(未亡人には家を貸せないと不動産屋が言う)、娘の親権さえも危うくなる家父長制などで、苦吟しつつ頑張る女性の姿を描きたかったのかもしれない。ともあれ、最後までどう展開するか目が離せないという意味では(ちょっと最後にえ?がっくり、苦労が続きそうという母娘の今度ではあるが)力を感じさせる映画である。監督自身が主演女優でもある。(2月27日 キノシネマ立川054)

㊱ホームワーク
監督:アッバス・キアロスタミ 出演:シャビッド・マスミ小学校の生徒と親たち アッバス・キアロスタミ   1989イラン 77分 ★

日本で公開されたキアロスタミ映画のうちの未見の1本。ということで夕方から出かける。まずは小学生の登校風景から、インタヴュアーのキアロスタミ自身に答えてシャビッド・マスミ小学校だと子どもたち。次は小学校の校庭での朝の集会。コーランの朗詠?があったり、「イスラム教は勝利する、西にも、東にも」とか「打倒フセイン」とか教師が音頭を取って全校生がシュプレヒコール。お国柄、時代柄とは思うがぎょっとするような光景でもある。そのあと、一人一人の子どもたちがカメラの前に立ちキアロスタミ自身のインタヴューに答えるという形で映画は進む。これがまた結構ずかずかと「コワいオジサン」風のインタビューで「もっと大きな声で」とかいう場面も何度もあって、すごいなあ、私が子どもだったら萎縮してしまいそうと思うが、子どもたちもなんかすごく礼儀正しく、ボソボソと答えていく。その中で宿題がたくさん出て、書き取りなどは誰かに読み上げてもらわなくてはならないが、両親が文盲であるとか、見てくれるのは兄や姉だが彼らもなかなかに忙しいとか、できないと罰としてぶたれる、とか「ご褒美」の意味が分からないとか、子どもたちの置かれたなかなか過酷な教育環境の問題や生活ぶりがあらわになっていくというしくみ。間にこの国の教育の問題について雄弁に語る父親(転校させるためにこの学校にやってきたという)とか、また、最後の方に一人、インタヴューが始まった途端泣きだした少年がいて友人の立ち合いを求めるのだが、その子の父親(少し能力が低いと言われている息子への心配や、しかし母親が甘やかしているのも気になるとかなどなど)、そして立ち会ってほしいと言われた子の友だちについての語りなども入り、例の凶暴な感じの朝集会での二人の少年の姿なども映し出されて、最後に泣いた少年が友達の見守る中で宗教詩「大いなる神」?の暗唱をする。そこで映画は終わるのだが、厳しい状況の中で一生懸命宿題を受け容れぶたれたり、先生にも理解されなかったりするような中、泣きながらも一生懸命頑張る子と、それを支え見守ろうとする友だちの瞳が印象的で感動的。あの子たち今や40歳くらいになっているわけだが、どんな大人になってどんな暮らしをしているのだろうか…。それにしても見事に男の子だけの学校で男の子だけの映画ではあり、仕方がないとも思いつつ、ああキアロスタミ映画ってそうだったかもと思わされた。(2月28日 下高井戸シネマ 「そしてキアロスタミは続く」特集 055)

2月のもう一度はタケ山~シタンゴ山

頂上付近はやはり雪!

でもそろそろ春の声も聴かれそうな…





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