【勝手気ままに映画日記】2021年12月

 

やっと会えたのに…今月の富士山は半分雲隠れ。12月26日、7年ぶりの今倉山〜二十六夜山縦走。7年前には雪道アイゼン装着で疲れましたが、今回は天気に恵まれ最高!でも富士山はちょっと残念というところです。赤岩(1444m)から。



①明日に向かって笑え! ②ダウン・バイ・ロー ③ディア・エヴァン・ハンセン ④これは君の闘争だ ⑤茲山魚譜ーチャサンオボー ➅ボクたちはみんな大人になれなかった  ⑦アンテベラム ➇天才ヴァイオリニストと消えた旋律(THE SONG OF NAMES) ⑨新女性 ⑩レッド・チャペル ⑪赤線基地 ⑫パーマネント・バケーション ⑬ゴースト・ドッグ ⑭悪なき殺人 ⑮トーべ ⑯水俣曼荼羅 ⑰海を待ちながら ⑱アイカ ⑲少年、機関車に乗る ⑳19歳の地図 ㉑40日間の沈黙 ㉒彼女の権利 ㉓テュベイカをかぶった天使 ㉔偶然と想像 ㉕黄色い雄牛の夜 ㉖リトル・ガール ㉗夜空に星があるように(Poor Cow)㉘皮膚を売った男 ㉙ジャンヌ ㉚ジャミリャー ㉛ジャネット ㉜世界で一番美しい少年㉝パーフェクト・ノーマル・ファミリー ㉞夢の向こうに(幻愛)

中央アジア今昔映画祭⑰⑱⑲㉑㉒㉓㉕㉚ 日本映画➅⑪⑳㉔ 中国語圏映画⑨㉞ 東京国際映画祭の出品作の劇場公開③⑭㉔ 日藝映画祭’21⑨⑪ ジム・ジャームッシュ特集⑫⑬
これらを含め、旧作をたくさん見た12月でした。
★まあまあ! ★★なるほど! ★★★おススメ!(あくまで個人的感想ですが…)



①明日に向かって笑え!
監督・脚本:セバスティアン・ボレステイン 出演:リカルド・ダリン ルイス・ブランドーニ チノ・ダリン ベロニカ・シナス 2019アルゼンチン(スペイン語) 116分

7月の『映画で見つめる世界の今』(BS1藤原帰一)で紹介されて、見たいと思いつつ期をのがし、ようやく下高井戸シネマへ。
なるほどね。種々の紹介や映画チラシも含め、痛快とはあっても、本筋は2001年の経済危機の中、集めた農協資金を失った人々が、いかにどん底から再起するかみたいな社会派ドラマなのか、と思ったら、まあその味わいもなくはないものの、基本は悪人(危機に乗じて銀行に預けられた現金を合法的に自分のものとした悪徳弁護士)が農場の真ん中の林の中に作った隠し金庫から現金を取りもどすという『オーシャンズ』を思い起こさせるような、知恵と技術の集結を楽しむサスペンス・アクションだった。
とはいえ、ちょっとジョージ・クルーニーを彷彿とさせる主人公フェルミン(リカルド・ダリン)は引退したヒーローサッカー選手で格好はいいが、危機に陥って逆上した運転での交通事故で妻を死なせ、自らも大けが、息子が大学から戻ってチームに加わるが、最後まで時に弱気という一種情けないところも見せ、チームの中心メンバーはそろってそうそうたる中高年というよりむしろ老人の風格だし、若者たちはそのリーダーシップに従い、それなりの活躍をするが見せ場が派手にあるわけでなく、おまけに最後に至って取り返した(というか過分に盗み出した)現金を持ち逃げするやつも現れと、けっこう渋かったり苦かったりという展開もあるところが、「社会派」の由縁ということになるのだろうか。
最後は無事に農協が設立され、息子のちょっと難しいかと思われた恋も成就し、穏やかな日常が映し出されるという丁寧なつくりの2時間弱は長さを感じさせなかったのも立派!
(12月1日 下高井戸シネマ 261) 

②ダウン・バイ・ロー
監督:ジム・ジャームッシュ 出演:トム・ウェイツ ジョン・ルーリー ロベルト・ベニーニ 1986米 107分  

アップリンクなどでも行って、ようやく下高井戸まできた「ジム・ジャームッシュ特集」。『ダウン・バイ・ロー』は見た記憶がないと思い見る…が出だしの墓や、街の建物が並び印象的な音楽がかぶさる部分モノクロ映像はは記憶があるような…。乳児を抱えてビデオで映画を見ていた時代なので印象が薄い?
3人の男の刑務所に入るまでの経過は今回もなんか頭にあまり入ってこない(昼食後で眠かった?)後半脱獄後はなるほどね、ジャームッシュの世界?それにしてもロベルト・ベニーニってやはりすごい。後からやってきて他の二人を完全に食い、物語としてうまいことイタリア人の恋人を得て定着を遂げるとは…。まあおとぎ話の世界ではあるのだが。
(12月1日 下高井戸シネマ 262)

③ディア・エヴァン・ハンセン
監督:スティーブン・チョボスキー 出演:ベン・フラット ケイトリン・デヴァ― ジュリアン・ムーア エイミー・アダムズ アマンドラ・ステンバーグ 2021米 138分  

東京国際映画祭クロージング作品だったが、映画祭では見る余裕なく、劇場公開に。アメリカの高校生の日常生活を題材に取ったミュージカルというのでどんなものかと思ったが、なーるほど、けっこうメンドクサイ心情露吐、セリフで聞いたら耐えがたく観念的な物語になりそうなところを、歌で綴ることによってちょっと舞台劇みたいな展開だが多分若者〜中年の心を打つような仕上がり??
しかしなあ…「ディア・エヴァン・ハンセン」というのは主人公エヴァンがセラピストに勧められて書く自分への手紙の書きだし、その手紙を憎まれ者の級友コナーに奪われ、また彼はどういう気まぐれか、ギプスをしているエヴァンの腕にコナーのサインを残す(ギプスのサインが友人の多寡を示すというのはアメリカ風慣習だな。制服の第2ボタンみたいな)。そして翌日コナーは突然の自殺。友人のいなかったコナーが唯一残した遺書がエヴァン宛とされ(実はエヴァン自身の手紙)、腕のサインもあってコナーの友人と目された、こちらも本来うつで友人もいない孤独なエヴァンの動揺と、もともと心惹かれていたコナーの妹(生前のコナーとは仲が悪かった)や両親(コナーとうまくいってはいなかった)が求めるコナー像(友人がいる)に当てはまって期待されたり、大切にされたりし、その気になってふるまっていくエヴァン。生きているコナーをむしろ疎んじられていたにもかかわらず、追悼集会や、記念公園のプロジェクトを進めようとする、やはり活動的なリーダー少女の仮面をかぶったアラナ、
それらの求められ、自らもそうありたいと願うような自分とそうはなれない自分に切り裂かれている若者たち―やコナーの両親のような中年も、の姿がひしひしと迫り、SMSで心情が吐露拡散されるというような現代の状況が絡んで、おいつめられ、そしてミュージカルらしくある意味ハッピー・エンドを迎えるまでが「感動的」に描かれる。
なかで、自分を保ちしっかりと息子を支えて冷静なシングルマザーを演じるジュリアン・ムーアが決してここでは美しいわけではない中年の母なんだけれどきわめて印象的で格好良かった。(12月2日 府中TOHOシネマズ 263)

④これは君の闘争だ
監督:エリザ・カバイ 出演(ナレーション)ルーカス(コカ)ベンチア マルセラ・ジェズス ナヤラ・スーザ 2019ブラジル 93分 ★★

2013年〜極右のボルソナロ政権成立の直前までのブラジルの高校生たちの、政府の学校再編計画―貧しい地域の公立校を統合廃校し、教育予算を節約する―に反対し、教育の平等を求める学校封鎖などを含めたデモ活動を、その当時の映像と、そこにも映っている3人の高校生の語り(5分ずつのプレゼンテーションという設定で始まるのだが、そのマシーンガン的トークの5分ではとても終わらない勢い)に圧倒される。しかし内容は決して元気いっぱいというわけではなく運動の中で感じられた不安や、デモでのシュプレヒコール、けがをした仲間を心配し、半狂乱に叫ぶ様子とか、さまざまな場面が盛りだくさんで、2時間ぐいぐいと引っ張られた。政府側のもったいぶった様子の演説の部分なども出てくるし、一応学校の統廃合を避け、教育予算も勝ち取ったかと思いきや、最後は極右政権で結局元の木阿弥的にまたまただ夏が続く予測はあるのだが、ラップに乗った乗りのよさや、仮装をして練り歩く元気の良さなども含めて若者のエネルギーと厳しくても負けないぞというような未来への絶望的な希望も感じさせらえて見ごたえがあった。
長期にわたり、同じ人物を追い続け活運動を追うというのはどうやって撮っているのかと思ったが、当時の映像は何人かのドキュメンタリー作家が協力して映像提供をしたようだ。2019年山形の観客賞?を取った作品だが、私はその時は見損なっていたもの。イメージフォーラムの最終日にようやく見た。 (12月3日 渋谷イメージフォーラム264) 

⑤茲山魚譜ーチャサンオボー
監督:イ・ジュニク 出演:ソル・ギョング ピョン・ヨハン イ・ジョンウン リュ・スンリョン ミン・ドヒ  2021韓国 126分 ★

全編モノクロの海と島の光景と思いきや、最後の方で薄緑薄荷色の小さな魚1匹、そして末尾、チャンデが帰っていく黒島(茲山)の島影のくすんだ青系の色合いが何とも美しい―全体はモノクロであることによって、主人公二人の置かれた島の未開明な閉鎖性とかそこでの伝統的な暮らしぶりを表彰しているのであろうか。
天主教の信仰により朝鮮半島南西部?の黒島に流された実在の人物丁若詮とその島での書物『茲山魚譜』(海洋生物白書)を題材に、島の暮らしの中で自然科学の真理追及をすることにより王政に疑問を持ち権力から離れていく学者と、一方貧しい学問好きの漁師が学者に最初は反感、やがて学びつつ教えつつという感じで師弟関係を結び、権力に近づきつつ挫折していく姿を情感をこめ、しかしちょっと距離を置いてもいる感じ―がちょうどいい―で描く。学者が島で結ばれ子までなすのが、イ・ジョンウンの寡婦で、島で疎んぜられる流刑人の学者を客人として親身にもてなすのが、意外にリアリティがあって好演。ピョン・ヨハンの若い漁師はそうでもないが、彼女をはじめ、他の、特に女性たちは(本当は皆美人なんだろうが)泥臭くやつしている感じで田舎の海浜のおばさんたちという雰囲気がすごく出ているのもリアリティというべきなのだろう。さすがの見ごたえの一作。(12月3日 シネマート新宿265)

➅ボクたちはみんな大人になれなかった
監督:森義仁 出演:森山未來 伊藤沙莉 東出昌大 大島優子 萩原聖人 篠原篤 2021日本 124分

ネット・フリックス製作で劇場公開は限られるこの作品、ちょうど前の『茲山魚譜』の終演から10分ではじまるということで、当日になって急遽見ることに。
森山未來は現代(2020年)の46歳から21歳の1995年までを一人演じる(他の男性陣も基本的にはそうだが、金髪ロン毛の時代があったり、篠原については女装時代もあったりで、けっこう変化をつけている。森山は前髪をあげるか下ろすかぐらいだが、顔のしわも含め25年間が自然に推移するのがおどろき)というわけで、現代での主人公佐藤(森山)と旧友七瀬(篠原)の邂逅から始まり、佐藤が過去にだんだんさかのぼりつつその時代時代の出会いを振り返り、最後に95年に出会ったかおりとの99年の別れ(別れの言葉もなく突然の)を振り返り、小説家志望ではあるがもちろんまだ何物でもなくバイトで暮らしていた佐藤がちょっとユニーク(に当時は見えた)かおりとの出会いの中で「普通」でないことを目指し、その時その時本人としてはマジメに普通でないことを目指しつつ、周り(観客)には普通に見える出会いや別れや模索を繰り返し46歳「やはり自分は普通だ(実はかおりものちに普通の暮らしをしていることがSNSでわかる)」と思いつつ過去を振り返るという、ウーン、なんかある意味すごくメンドクサイ話だよなあ。まあ、やはり見るべきは何歳を演じても不自然でない森山未來に尽きるのではないかという気がした。(12月3日 シネマート新宿 266)

⑦アンテベラム
監督:ジェラルド・ブッシュ クリストファー・レンツ  出演:ジャネール・モネイ エリック・ラング ジェナ・マローン ジャック・ヒューストン ガボリー・シディベ カーシー・クレモンズ 2020米 106分 ★

『ゲットアウト』(ジョーダン・ピール)のプロデューサー、ショーン・マッキトリックが製作陣の一人に名を連ねているというのが話題で、なるほど…。構成としてはある意味『ゲットアウト』よりはずっとシンプル、しかし、パラドックス・スリラーと銘打っているだけの驚きは仕掛けられていた。
最初は『風と共に去りぬ』の撮影のしかたを踏襲したとかいう南北戦争時代の南部のプランテーションで酷使されながら「逃げるチャンスを狙う」エデンのパート。次は現代のニューヨークで活躍する作家ヴェロニカの幸福順風満帆といった生活。演じるのはともにジャネール・モネイでこの二つの世界の関係がどうつながっていくのか?というのが興味を引くところだが、途中南部パートになぜかスマホが登場する。えええ?そして、現代編の方は、不穏な質問をする白人女性のオンライン・インタヴューのあと、講演をし、その後友人と3人(うち一人は『プレシャス』を演じたガボーリー・シディべ)でレストランで食事(予約の席があまりよくないとか、ちょっと「差別」?をもわせるところもあり、それを打ち砕き思いを通すガボリーの女性が印象的)で夕食後、友人と別れてタクシーに乗った彼女が拉致され、行方不明になる…という形で二つの世界がつながっていくしくみ。最後はスマホを駆使して夜中に逃げ出し、追いかけてきたプランテーションの女主人を殺して馬で逃げ出す撃ち合いやアクションシーンも含めて見せ場たっぷりで、しかし最終場面の衝撃、なるほどスマホの謎もあっけらかんと解けるうまさというか、なんていうか。感心はするけれど、そして黒人差別の新手?の出現にも(ほんととすれば)驚かされるが、はぐらかされ感もまあ、ないこともなく。ちょっと複雑な感覚に襲われる。(12月5日 キノシネマ立川267)

➇天才ヴァイオリニストと消えた旋律(THE SONG OF NAMES)
監督:フランソワ・ジラール 出演:ティム・ロス クライヴ・オーエン キャサリン・マコーマック ミシャ・ハンドリー ルーク・ドイル 2019イギリス・カナダ・ハンガリー・ドイツ 113分

第2次大戦下のロンドン、天才少年の名目でポーランドから家族と離れてやってきて、主人公の少年マーティンの家に寄宿するドウィドル。家族はトレブリンカ収容所に送られ生死不明に、少年は家族の行方に不安を抱きつつも成長し1951年、バイオリニストとしてデビューコンサートを行うことになる。しかしリハーサル後開演までの4時間半の間に姿を消し、その後35年間行方不明になる。35年後(1986年?)音楽関係のプロデューサー?になったマーティンは、あるコンクールの審査員として招かれ、そこで、かつてのドゥィドルと似たしぐさでバイオリンをひく少年に出会う。彼から、その師である街のバイオリン弾き、さらにその男にバイオリンのレッスンをしてポーランドに発ったという男とその足跡を追い、マーティンはドゥイドル探しを始める―というわけだが、この捜索過程は案外ドキドキ感もなく、なるほどねという展開で、マーティンはドゥイドルにたどり着くのだが…。
この映画の題材としてのすごさはドゥイドルがリハーサルから本番までの4時間半に経験したことで、それが英題「名前の歌」に集約されているわけだが、邦題はそこをずらして、ちょっとつまらないミステリーものにしてしまったという感じ。ただし、アメリカの評論サイトなどの映画評論でもそのあたりはまったく生かされずに、高評価とはいえない、ということになっている。
子どものときのドゥイドルは天才を鼻にかけているような感じもあり、大人になってクライブ・オーエン演じる彼も一度捨てた宗教に戻りなんか頑迷なユダヤ教徒という雰囲気満載で、あまり人好きがしないし、マーティンの妻でかつてドゥイドルのことも知っていたヘレンが、彼を探そうとするマーティンに対して全く共感的でないし、彼がみつかった後も皮肉っぽい調子で対する違和感があるが、これは最後の最後、4時間半を語るドゥイドルの言辞で納得という構造! ちなみに「名前の歌」とは収容所時代に死んだ人々の名を歌に詠みこみ、5人のラビが伝承をしたというものである。この歌も含め、レイ・チェンが演奏するヴァイオリン曲の数々も含め、音楽的にはなかなかに聴きごたえがあるのは確か。
(12月5日 キノシネマ立川 268)

⑨新女性
監督:蔡楚生 出演:阮玲玉 鄭君里 王乃東 殷虚 王黙秋 陳素娟 1935中国109分 モノクロ

1934年マスコミの迫害に耐えかねて自殺したアイ・ハをモデルとし、この映画のあと、主演の阮玲玉も自殺したという、当時の女性の自由に生き方がいかに阻害されていたかということを、まさに物語っているような、1930年代の悲劇的話題作。
音楽教師で駆け出しの作家韋明が名士哲学博士(!しかも妻帯者)のしつこい求愛を断ったことから窮地に追い込まれ失業、困窮。田舎の姉と彼女に預かってもらっていた自分の娘がやってくるも、面倒を見られず娘は病で死ぬ。絶望した彼女は自殺を図るが…。自力で頑張ろうとする女性をこれでもかこれでもかと卑劣な感じで叩く男ばかりでむかつくが、結局自殺を図った韋明も友人や、親切な編集者に励まされ「闘う!」とまあ決意表明。夜学の女性学校で教鞭をとる友人(韋明と違い、勇ましいパンツ姿の信念の女性として格好良く?描かれる)が女性たちの先頭に立ちシュプレヒコールする場面(取ってつけたような感じもあるのだが)で終わり、まあ女性を励ます内容になっているわけだ。
作曲者として聂耳の名がクレジットされ、録音の名も入っているし、内容的にもセリフはともかく、音楽教師が主人公だけあって音楽的な場面がたくさんありそうなのだが、実際に見たのは「無声映画」で弁士(山内菜々子)、三味線伴奏(宮沢やすみ=男性)つき。若干違和感があって、元のフィルムはどうなっているのかなと気になったところ。(12月6日ユーロスペース 日藝ジェンダーギャップ映画祭 269)

⑩レッド・チャペル
監督・出演:マッツ・ブりューガー 2009デンマーク(デンマーク語・英語) 91分 ★

『誰がハマーショルドを殺したか』のマッツ・ブリューガーが、韓国から幼いころに養子になった韓国系デンマーク人のシモンとヤコブ(彼は脳性麻痺でことばや手足がやや不自由)の二人のコメディアンとともに、北朝鮮に乗り込み、現地の楽団とともに公演を行うというプロジェクトの過程を追う―どうやって撮ったのかとも思われるが、撮影・編集はレネ・ヨハンセンという人で、この4人が北朝鮮に乗り込んだということか。多角的に撮影しているのがすごい。
北朝鮮では世話役の「おかあさん」みたいな女性が張り付いてヤコブには特に「息子」のようと密着、また現地演出家が、あれこれと口を出すのみならず、最初の演目から全く違うものに、しかもヤコブの障害をまったく見せず、あたかも健常者が演じているように演出するとしてデンマーク側、特にヤコブを困惑させる。さらに金日成広場での軍事パレードに強制的に参加させられるマッツとヤコブ(シモンは下痢で休養というが、本当のところは?)、その中で順応のポーズを取ろうとするマッツに対して、あくまでも手はあげられない、拍手はしないというヤコブの反骨。最後に付き添いの女性に、「次回は障碍者に会わせてほしい」という彼は(障がいのある人間を徹底的に外に見せないー生まれた時に殺している?というようなことも映画内で言われる)むしろ愚直なまでに北の独裁社会に抵抗し、その場では相手を受け容れるように見せるシモンとマッツは映画によって抵抗したわけだ。彼らと一緒になんか怖くなってくるが、それも危険な感覚かなと、映画のコワさも感じさせられる。(12月7日渋谷イメージフォーラム 270)

⑪赤線基地
監督:谷口千吉 出演:三国連太郎 根岸明美 中北千枝子 小林桂樹 金子信雄 1953日本 90分モノクロ

戦後、御殿場あたりの米軍基地によって変貌した田舎町。満州から10年ぶりに帰ってきた川奈部浩一という男。彼が帰り着くと元の家の場所は明軍基地の柵の内側、移転した家にはジュリー(ユキコ)という女性が彼の部屋を借りて住んでいた。彼女はパンパンで、街は彼女たちに部屋(商売の場所)を貸すことによって経済的に成り立つが、隣町?(こちらは農地が残り、部屋貸しはしていない)の浩一の友人、上西の父が突然訪れ、浩一の妹と上西の縁談の破談を申し出る。また、10年前に泣く泣く彼を見送った恋人だったハルエもパンパンになり、黒人兵との間に子まで設けて、浩一から見ると荒れた乱れた生活を送っていることが判明する。絶望する浩一に、自分たちも好きでこういう仕事をしているわけではないとタンカを切るユキコ、そして翌朝浩一が家を出、東京に行くことを決意してバスに乗ると、そこにはやはり荷物をまとめたユキコがいるが、二人は車窓の富士山をバックにそっぽを向きあったまま去っていく。
というわけで、冒頭には「この映画は誰かを告発するのではなく、日本人の反省?のため」みたいなテロップが出る。実際に反米的であるとしてアメリカ側の検閲にひっかかって上映禁止になったという経緯をもつとかで、そのあとにつけられたテロップかとも思われるが、ウーン。しかしまあこの時代にしっかり娯楽映画としてこういう社会派映画作られたのは立派というべきか。 (12月7日ユーロスペース 日藝ジェンダーギャップ映画祭 271)

⑫パーマネント・バケーション 
監督:ジム・ジャームッシュ 出演:クリス・パーカー ジョン・ルーリー マリア・デュバル 1980米 75分

ジャームッシュのニューヨーク大学卒業制作作品だそう。さすがの早熟とは思うが、ウーン、ヒョロヒョロのクリス・バーカーがうろうろとゴミだらけ、舗装のはがれた街を歩き回り、さまざまな人と話す―なぜか女性はスリップ姿が多いーとりとめのない会話から、最後にパリを離れてニューヨークにやってきた青年に会い、自身はニューヨークから旅立つ。その船から遠ざかるニューヨークの町を延々と映し出す幕切れはなんとも印象的だったけれど。全体としては??ジム・ジャームッシュが初めて日本で知られたころ子育て真っ最中だったので、多くはビデオで見たのだが、この映画もやはり見た気がするわりに印象には残っていなくて、見ていないと思っていたけど…。また何年かたつとどうなんだろう、印象に残るかな、という感じ。(12月8日 下高井戸シネマ ジム・ジャームッシュ・レトロスペクティブ2021 272)

⑬ゴースト・ドッグ 
監督:ジム・ジャームッシュ 出演:フォレスト・ウィテカ― ジョン・トーメイ クリフ・ゴーマン 1999年米 116分 ★★

「葉隠れ」を愛読する黒人大男の殺し屋とイタリアンマフィアの抗争というテーマ自体が違和感があって、多分ずっと見ていなかったのだと思うが、時間がちょうどあったし、未見だしと、あまり期待もしないで見たのだが、いやどうしてどうして、やはりジャームッシュの前半期、娯楽作品としては頂点だと納得、楽しむ。
読書家の殺し屋は「楽しい川辺」を少女と語り「羅生門」を読み、フランス語しかわからないアイスクリーム屋と言葉はわからなくても意味の通じ合う会話をする。それがなんとも愛嬌があり魅力的で、飼っている鳩を殺されて(まさに虐殺)、復讐をするというのも納得できるし、敵対するマフィアの連中のダサーい高齢者群?とアニメにうつつを抜かすボスと孫娘というのもなかなか意表をついた設定で、全体に哀愁も漂い、なるほどね…の出来栄え。
(12月8日 下高井戸シネマ ジム・ジャームッシュ・レトロスペクティブ2021 273)

⑭悪なき殺人
監督:ドミニク・モル 出演:ドゥニ・メノーシェ ローラ・カラミー ダミアン・ボナール ナディア・テレスツィエンキービッツ バレリア・ブルーニ・テデスキ 2019仏・独 116分 ★

フランスの片田舎、雪模様の寒い風景の中、社会福祉士のアリス、彼女が仕事上訪問する孤独な牧場主ジョゼフ、アリスに隠れてネット恋愛をする夫でやはり牧場主のミッシェル。街のカフェに勤めるマリオンと、彼女が恋する年上の女性エヴリーヌ。夫がいるエヴリーヌはマリオンと別れ別荘に。この別荘はアリスらが住む村の近くにある。そこに追いかけてくるマリオン。ヒッチハイクするマリオンをいったんは拾おうとしたミッシェルが止まりかけて走り去る場面がある。同乗していたアリスは驚き夫を非難するが、こういうのがすべて後の伏線というか、あとで彼の真意が示される仕組み。その網が全編に張り巡らされて、終わってなるほどというふうになるわけだ。
もう一つの舞台コートダジュールではネットで架空の恋人を作りネット詐欺をする青年アルマン、彼が写真を見つけて架空の恋人とするのがマリオンであり、その相手がミッシェルということになるが二人はもちろん互いに知り合うわけではない。さらにここにはアルマンの元彼女で娘もいる女性が、今はフランス人の恋人に屋敷をあてがわれてたまに来るその男性とつきあっている。ということでこのカップルもからみあい、それぞれの男女は、自身はそうと知らぬまま関係をもち、しかし当然互いを理解し合えぬ中での誤解や争いもあって、ある女性が殺され、その遺体も失われる…この事件はすでに映画のはじめの方で起こり、被害者が誰かもすぐにわかるのだが、なぜそこに遺体が現れ、失われるのか、殺人者は誰で動機は?というようなことが、それぞれの関係のドラマが描かれる中で徐々に解き明かされ、最初に敷かれた伏線が意味を持つという仕組みで、大変よくできた、しかもけっこうわかりやすくできた映画で、東京国際映画祭での観客賞受賞というのもなるほど、というまあ一般受けすると言えば言えるような映画ではあったが、飽きさせない。映画館では3回見てわかるというのでリピーター割引をしているが、映像的にも伏線は伏線とわかるような撮り方をしていてわかりやすく、3回見なければ理解できないというような映画ではない(これはほめことばです)。(12月9日 新宿武蔵野館 274)
 

⑮トーべ
監督:ザイダ・バリルード 出演:アルマ・ボウスティ クリスタ・コソネン シャンティ・ルネイ ヨアンナ・ハールッティ2020フィンランド・スェーデン(スェーデン語) 103分

「ムーミン」の作者トーベ・ヤンソンの若年〜中年の「恋」を描いている。彫刻家であり、芸術・愛国を目指す父との確執はあるものの、才能にも経済力にもまあ恵まれ、多分親の七光り効果もあって?若くして画壇に名を連ねるようになっている女性の、最初は不倫の相手(左派の新聞記者)を誘うような恋からはじまり、劇作家ヴィヴィカ・パンドラ(演じるクリスタ・コソネンがやたらでかくて、男っぽくて恰好いい)との恋と、その中で彼女による『ムーミン』の上演、やがて別れと数年後の再会、新しい恋人トーリッキの出現までを描いていて、しかしこの時代に同性愛者が置かれた社会的な地位や迫害などについて描かれているわけではなく、トーベ・ヤンソンがジェンダー・ロールに抵抗して女性への愛を貫いた人であることを前提に見ればなるほどというか、なんか美しく描かれすぎている感じ?だが、知らないで見ると(というか、実は私は知らなかったので)なんじゃ、こりゃという感じで少々疲れもするような…。
劇中上演されるムーミン劇が妙に稚拙な感じだし、なくなった父がムーミン関連のスクラップを残したというのもありそうだけど、それだけになんか俗っぽい描き方だし…。ただ、父の「正当性」の前で、漫画家・童話作家として画家としては「亜流」の道を歩むことへの迷いや悩みについては、さりげなくはあるが案外まともに描かれていて、そうなると性愛にかんする役割規範への抵抗と、「正当な」芸術性への抵抗というのは一致しないのかが、またちょっと悩むところ?そんなに深刻に考えつつ見るべき映画ではないのかもしれないが。フィンランドが舞台だが、なぜかほぼスェーデン語みたい。
(12月9日 新宿武蔵野館 275)

12・11東丹沢辺室山紅葉


ついでに早稲田大学構内の銀杏並木の黄葉

⑯水俣曼荼羅

監督:原一男 2020日本372分 ★★★

間20分の休憩を2回挟み、昼12時50分から夜19時50分の長丁場は、見に行くまでには相当覚悟が要ったが、しかし見てみると長いには長いが冗長さとか不要の長さはない、みっしりと中身の濃い―さすが原一男という力強さ(被写体への踏み込みの強さ・深さというか)と、期せずして笑いを誘うようなユーモアもあって疲れることはなかった。
1部『病像論』2004年の関西訴訟最高裁判決から語り起こし、「52年判断条件」で末梢神経の障害と認定されたことにより、たくさんの人が認定から漏れ救済の対象とならなかったということに端を発し、これが脳神経にメチル水銀が作用したものだとする、熊本大医学部の浴野教授・二宮医師の研究の上での闘いを中心に。2部『時の堆積』では小児水俣病患者として15歳で発病した生駒氏の子ども時代の記憶やその後の生活や結婚の語りから始まり、関西訴訟原告団長の川上氏とか、溝口訴訟の溝口夫妻(息子さんは胎児性水俣病患者)ら、次々、メチル水銀が封じ込められたヘドロの海に自ら潜って防御壁の腐敗を確認する原監督とか…3部『悶え神」胎児性患者の坂本しのぶさんの作った歌と、彼女の追恋愛ジャーニー、好きになった相手と並べてのインタヴューというのはいかにも原一男らしい無遠慮な踏み込み方でもあり、それゆえに笑いも誘う下世話さもあるが、まあこの映画の明るさ・ある種の強さを醸し出す力ともなっている…、語り部の会の緒方正実氏は天皇・皇后(当時)に水俣病を語る機会に、批判も受けたが石牟礼道子に励まされたとして、ここに石牟礼も登場する。もはや老い果てたという感じの石牟礼なのだが三部『悶え神』の命名は石牟礼のことばから。そしてボロボロになりながらしかし強く明るく戦う被害者たちの対局で訴訟に負けても口先だけで詫びを言い、責任逃れ的言辞に走る官僚や県庁役人・知事たちの対比―もっとも被告団のえげつないとも言える反発の言辞もしっかりとらえてウーン。
とにかくもう終わりとされている水俣が決して終わってはいない、未来にまで続いている環境問題であることもしっかりと示された、娯楽的ドキュメンタリーの完成がすごい!
(12月14日渋谷イメージフォーラム 276)




⑰海を待ちながら

監督:パフティヤル・フドイナザーロフ 出演:エゴール・ペロエフ アナスタシア・ミクリチナ ドムニハッド・アヒモフ 2012年ロシア・ベルギー・フランス・カザフスタン・ドイツ・タジキスタン(ロシア語)110分 ★

多国乗り入れのロシア語映画だが、監督フドイナザーロフは2015年49歳で亡くなっただタジキスタンの人。映画の舞台はカザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海。ここで船をもち船長をしていたマラッドは、「嵐が来そう」という中、妻も一緒に船で沖に出るが、目の前に壁のように立ちはだかる猛烈な波の柱に吞み込まれ、ハッと気づくと干上がった砂漠の中に…。数年後列車に乗って故郷に戻る彼は車内でウェイトレスをしている妻の妹に再会、あたかも言い寄られるがごとく彼女と関係を持ち、故郷に戻ると、海が干上がった砂漠には彼のを含め何艘もの船が残されている。マラッドは自分の船に綱をつけ、少しずつ砂漠の中を海を目指して船を移動させ始める…というわけで、砂漠の故郷の町の人々との反応や妻の妹が折に触れ言い寄ってくるとか、妻の父との関係や死とか、さまざまな事件があるのだが、それらは事件というよりはマラッドの何があっても動かぬ意志の点景として表れている感じで、壮大にして様式的でもある海やそれが干上がったとされる砂漠の映像美ともあいまって、きわめて寓話的な雰囲気を感じさせる。実際にアラル海は半世紀の間に10分の1までに干上がってしまい、この物語はそれを踏まえて作られたそうだが、映画の最後では、マラッドは海にたどりつく―埃っぽい砂漠の荒野と対比して、その海のもたらす平穏とすがしさがしみじみと感じられる。(12月15日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭277)

⑱アイカ
監督:セルゲイ・ドヴォルツヴェイ 出演:サマル・エスリャモワ 2018ロシア・ドイツ・ポーランド・カザフスタン・中国・フランス(ロシア語・キルギス語)114分 ★★

この映画は2018年19回の東京フィルメックスの最優秀作品賞を取ったが、この時は見損ない、その翌年、この映画でカンヌで女優賞を取ったサマル・エスリャモアが第20回のフィルメックスに審査員として招かれたときのトークで、映画について聞いたのが印象に残っていたという作品。今回4年ぶりかでで、やっと見る機会があったので、万障繰り合わせという感じで授業日の午後に出かける。
いや、すごい、最後まで目を離せない、借金を抱え、真冬のモスクワをさまよう、つらいつらいアイカの状況。キルギスからやってきてすでに就労滞在の期間が切れた彼女は、産んだ赤ん坊を産院に置き去りにして逃げ出し出産2日目で鶏肉工場の仕事に戻るが、給料を払ってもらえず真冬モスクワの町に放り出される。出血と腹痛を抱えつついかにも苦しそうで…。トイレを借りようと飛び込んだのは動物病院、そこの清掃作業員に救われるが彼女もキルギスからの移住者で病気の子どもを抱えいっぱいいっぱいの暮らし、子どもの病院に付き添う彼女の代わりに清掃の仕事を引き受けたアイカが見るのは贅沢に出産や病気をケアされる犬や猫、というわけでそのあたりの対比的な描き方もなかなかうまい。
アイカが身を寄せる簡易宿泊所で、不法移民を取り締まる当局や、間に立って賄賂や搾取で生きる宿の持ち主とか、5日間の苦しい彷徨の果て、借金の取り立て人にもとうとう追いつかれ(アイカは縫製工場を経営しようとして資金を借りたものの事業を立ち上げられず借金だけが残ったことが示される)彼女がした、決断とそのゆらぎ―しかしその行先に安泰が待っているとはとても思えない―が最後に観客の胸を打ちかつ暗澹を共感させるような仕組みになっている。アイカが本来やる気十分な元気な娘であったことがわかるだけに、本当にきついけれど目が離せず訴えかける映画だ。(12月16日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭278)

⑲少年、機関車に乗る
監督:パフティヤル・フドイナザーロフ 出演:ティムール・トゥルスノフ フィルス・サブサリエフ ナビ・ベクムラドフ ソ連1991(ロシア語・タジク語)96分モノクロ

最初は刑務所の弊の中に酒?を投げ入れて小遣いを稼ごうとする少年たち。その中の一人、祖母と暮す17歳のファールーと、7歳、土を食べる癖のある弟アザマット通称「でぶちん」が知り合いの運転する列車(機関車+貨車)に載せてもらい、遠くの町に住む父親を訪ねていく道中、トラックと競争したり、途中の町に止まるとポットをたくさん持った男が乗り合わせたり、崖上からバラバラと石を投げつけられたり、そして若い女性二人も乗ってきてファールーとしてはドキドキしたりというような小事件の繰り返しに中で、新しい女友達?と住む父の家にたどり着き、かの地ででもそこの青年たちとのやりとりがあったりして(わりと単調で、ちょっと眠くなったところもあった)弟を父の家に置いて戻ろうとするファールーと追いかけて列車内に隠れ、結局ともに戻っていく弟、というわけで、ウーン。
二人の子ども、特に弟のなかなか達者な演技、それと91年ソ連崩壊直前なのだが、貧しいが、ちょっと助け合ったり気にしあったり、あるいはケンカもしたりというような、なんとなくのどかなソ連の暮らしぶりが描かれているのが見どころか…。『海を待ちながら』が遺作となったパフティヤル・フドイナザーロフの26歳での監督第一作だとか。『海』に比べて成熟度は低いが、題材といい出演者といい若々しさがあふれている。 (12月17日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭279)

⑳19歳の地図
監督:柳町光男 出演:本間優二 蟹江敬三 沖山秀子 山谷初男 原知佐子 1979日本 109分

我が映画空白時代の作品なので初見。いまみると昭和の建物、昭和の街、昭和の人々という感じがする…。まだ携帯はもちろんポケベルもなく、スマホで音楽を聴くなんていうのもなくて、大きな縦横3,40センチはありそうなカセットデッキを首からかけてヘッドホンで音楽を聴くというのが多分このころの最新風俗で…。その割にジーンズにスタジャンとかいう主人公の貧しい青年の風俗は変わらず、30代?の中年男のどうしようもない同僚のオジサン的背広スタイルはさすがに今は見ない格好だなあ。とそんなところにばかり目が行くが、主人公の新聞配達予備校生は配達先の家々での待遇を評価して×を1~3個とランク付けして、地図を作り、電話をそれらの家にかけて脅して自らの鬱屈した感情を晴らす(晴れるわけはないのだが)という、今風に言えばオタクの先駆けだし、SNSでの脅迫的言辞に通じるが、このやり方もさすが昭和風。同僚はさらに鬱屈? ひったくりや泥棒をしながら「マリア」さまと呼ぶ、足の悪い―したがって稼げない娼婦にみつぐ。あ、でも気持ちはともかくとして昭和のこの時代の青年たちは、引きこもりもせず、一応自らの身や女の身も含めなんとか養おうとはするわけだし、現代の青年たちよりはアクティブかなあ。貧しいのは今も昔も同じだが昔の方がみんな貧しかったから??本間優二はセリフ回しなど信じられないほどへたっぴだが、それが世の中に受け入れられないと思っている青年のぎこちなさを表し、蟹江敬三は「中途半端な中年―生活能力があるのかないのか、不潔っぽいイメージでありながら女にそれなりにもてる?というような」をさすがの好演。(12月18日 新宿K’sシネマ 280)

㉑40日間の沈黙
監督:サオダート・イスマイロワ 出演:ルシャナ・サディコワ パロハド・シャクロワ サオダート・ラフミノワ ファリダ・オリモア 2014ウズベキスタン・オランダ・ドイツ・フランス(タジク語・アラビア語)88分 ★★

ウズベキスタンでは女性の身の上に何かあった節目の時―結婚、子供の誕生、身近な人の死など―に際して40日間家にこもり沈黙を守るという戒律?があるという。その40日間を過ごすビビチャという女性と彼女を取り囲む家族(女性ばかり)や周りの人々の様子を描いていく。音楽などはなく、セリフもヒロインはゼロだし、ただ、家の中の自然音は丁寧に拾って臨場感がある。女たちは、自由に生きるというところから切り離されている、その閉塞感というよりか受容も描きつつ、叔母がヒロインを助けたりする行為などに希望というか連帯の萌芽もあって、これからのウズベキスタン(イスラム圏)女性の姿を見ていきたいと思わされる。終わりにウズベキスタン学者の宗野ふもとさんの丁寧な説明トークがあり、なるほど、でよかった。ただしこの映画の最中にちょっと考えさせられる不快な出来事あり。前半は特に集中ができなくなってしまった面があって、その分は…残念。(普通の公開作ならもう一度見に行くのだけれど、そんなチャンスもなさそうだし。

㉒彼女の権利
監督:サオダート・イスマイロワ  2020ウズベキスタン15分(モノクロ+カラー)

ウズベキスタンの1920~80年の映画作品に現れる女性たちの姿をコラージュして作った15分の短編。残念ながら画面を見て、あ、あの映画とわかるほどにウズベキスタン映画を見ていないから、あ、あ、あ、と見ていくしかないが、それにしてもその力強い映像の連続に驚かされる。ウズベクの反ベール運動「ファジュム」を中心に描いているということで、撮影者も、映されている人々からも信念がにじみ出ているということなんだろう。㉑に伴映。

* 映画が始まってすぐ、隣に座った若い女性(といっても30代くらい?)が「静かにしてください!」と小声ではあるが、声をあげる。その直前ちょっと深く呼吸をしたという自覚があった(というか、画面への反応として少し息をのんだというような感じ)のでびくり!そのあとは息をひそめるという感じになってしまい身じろぎもできず、ウーン苦しくて集中できなくなってしまう。息をするのも、画面の音に合わせてという感じ。ところが中盤に彼女また、「うるさいからカシャカシャ音を立てないでください」とささやく。え?確かに前の方でいびきをかき始めた人がいたし、近くでそのしばらく前になんか物をバックから出した?と思われるような音もしたけれど、私はもちろんカシャカシャなんかしていないし、え?と凍ってしまう。しばらくしてから、もしかしてこの人、私にでなく向こう側の人?か誰かに言ったのかなとも思ったが、それにしても私には何のカシャカシャ音も聞こえなかったなあ、と最後まで居心地が悪くて参る。後から、こちらが彼女に「しっ」とか「静かに」とか言えばよかったのかなとも思ったが、それも周りにとっては迷惑だろうし。
だれの音かわからないが彼女自身が我慢できないほどにうるさかったのは事実だろうし、それを発信していく態度は非難すべきものではないとも思われるし、非常に複雑な思いで映画の終わりまで悩んだ。―実は昔マイケル・ジャクソンの音楽映画を見に行ったとき、気づかずに足で拍子をとってしまい、終わった後、前の席の人にうるさかったと怒られたことがある。この時は本当に「気がつきませんでした、ごめんなさい」と謝ったし、自分でも納得、申し訳ないと思えたし、以後このことを忘れずにというふうにもしているつもりなのだが…。―こういう場面って、どうすればいいのでしょうね??
私は、本当に周りが皆振り返るほどに傍若無人な音をたてたり、行儀が悪かったりすれば多分言うとは思うのだが、ちょっとお茶を飲もうとしてボトルのふたを開けるとか、シネコンでのポップコーンを食べる人(これって相当耳につくことがあるが、そもそもポップコーン持ち込みOKならば目くじらを立てるべきではないだろう)に文句を言ったことはないのだが。 (12月18日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭 281)

㉓テュベイカをかぶった天使
監督:シャケン・アイマノフ 出演:アミナ・ウルムザコワ アリムカズィ・ラインべコフ ビビグリ・トゥレゲノワ 1968ソ連(ロシア語・カザフ語)88分

監督のシャケイン・アイマノフはカザフ映画の父といわれた人だそう。この映画は50年前のカザフ共和国アマルティ(アマルタイ)を舞台に、28歳と設定されているが頭は半禿、だからいつもテュペイカ(男性のかぶる刺繍の入った帽子)をかぶっているの?と勘ぐってしまいたくなるような「オジサン」的風貌のタイラクという男を、田舎から母が訪ねてくるところから。母は50代というところだろうか、見かけは中年で、老婦人という感じではないが、60年代後半のツイッギー的ミニスカートとか、短パン、ビキニスタイルまで当時の若者風俗で勢ぞろいする女子大生群との対比では古臭い伝統主義的な「オバアサン」として描かれている感じ。彼女は独身の息子のための嫁を探すと宣言し、街角で若い女性に声をかけることを繰り返すが、まあ相手にもされない。息子には一応恋人がいるのだが、親の決めない勝手に付き合う女はダメという頑迷さもみせ、しかしやがてなぜか自身が恋をして相手ができることにより、息子の恋も認める、というまあ他愛もないと言えば他愛もないハッピーエンドのミュージカル仕立てで歌がいっぱい、女子大生のダンスも…(ダンスなんかダメと、母親は認めないのだが)。しかしなあ、50年前とはいえ、そしてもはや古臭いものとして描かれているとはいえ、母親タナは一応ヒロイン的中心人物で決して悪意を持って描かれるわけではないし、なんかなあ、そうだったのだなあ、ソ連時代であっても民族の伝統は???何すごいものを見たという感じの日本初公開作品だ。(12月20日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭 282)

12・19多言語化現象研究会(学会)にリム・カーワイ氏登場(リモート)新作「カム・アンド・ゴー」について10分間のトーク。活躍中です。


㉔偶然と想像
監督:濱口竜介 出演:古川琴音 中島歩 玄理 渋川清彦 森郁月 甲斐翔真 占部房子 河合青葉 2021日本 121分 ★★

ベルリンで銀熊賞、東京国際映画祭では開幕上映?だったこの映画、その時点ですでに劇場公開が決まっているというので見なかったのだが、開いてみると東京ではル・シネマでの単館上映。あれあれ?でも火曜サービスデイだから?とはいえ、平日昼間の劇場は盛況ではあった。
3本の短編、1本目は『魔法(よりもっと不確か)』親友が新たに付き合い始めたという男性が自分の元カレであると気づいたモデルの行動と想像(最後どちらかが想像であるはずの2種の終わりが実際に描かれる)。2本目は『扉は開けたままで』最初に単位が取れずに教授に土下座しつつ断られる学生がでてくるが、この困った青年の画策に乗り教授にハニートラップを仕掛ける青年のセフレである年上の人妻学生、そしてハニ―トラップには乗らないが「ドアを開けたままにする」そのきまじめさから、人妻学生の思わぬ過失にはめられてしまう教授とこの学生のその後が、5年後に偶然から明らかになる怖さ…最後の『もう一度』は仙台を舞台に、高校の同窓会に参加するために20年ぶりに戻り、クラス会には来なかった友人と偶然に遭遇し、彼女の家までいって語らう二人だが…実は…というわけで、この設定(彼女の家に表札が出ている時点で)ちょっと破綻もあるような気もするのだが、3本とも、限られた場所だけを舞台としていわばセリフ劇のごとく進行しながら、ひょっとしたところで会話が逆転したり、立場が変わったりというような脚本の妙というか会話の妙というところが、見ているうちはついていけるし面白いー会場からはしばしば笑い(くすっと言う感じ)が沸き起こるのだが、再現はすごく難しいという感じで進んでいく妙が非常に面白く興味深かった。(12月21日 渋谷文化村ルシネマ 283)

㉕黄色い雄牛の夜
監督:ムラド・アリエフ 出演:マクサト・ボラトフ アグゴゼル・ヌリィエワ 1996トルクメニスタン・ロシア(ロシア語、トルクメン語)121分 ★

1948年のアシガバート大地震の前夜(というかその少し前)から当日、そしてその後までを、少年セルダルの一家を中心に描く、のだがセルダルの父は戦争に行き消息不明、周りには父が戦死したという友だちも、両親のいない子も多く、少しひけめ?も感じる少年や、周囲、祖父とともに女手一つで三像的にいみのよくわからないところもありー当時のドキュメンタリー映像も挿入されているみたい。―だったが、自身の直前実は父は戦死していたと(大人になったセルダル「の声」でナレーションが入り)父母、兄・弟の一家が、セルダルだけを置き去りにして扉の向こうに消えるという(これはセルダルの夢)画像が繰り返され、そして地震、母の死や兄弟の行方不明意に一人瓦礫の街をさまようセルダルというあたり、励ます周りの大人とのやりとり、そして解放されて戻った祖父と少年が街にまた戻ると誓いつつ離れていく後半場面の迫力というか吸引力に、描き方の上手さを感じさせた。
(12月21日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭 284)

㉖リトル・ガール
監督:セバスチャン・リフレッツ 2020フランス 85分 ★

体は男性、しかし2歳のころから自分は女の子である(ありたい)と主張してきた小学生の少女サシャとその母、父・兄などの家族が描かれる。家族も最初は戸惑ったと母は話すが、しっかりありのままの彼女を支えていこうとする家族というよりか母の主張が前面に。ま、本人は意見を言うというよりは涙ぐんだり、母に訴えたりというような感じで、それは自然ではあろうが、この年頃のトランスジェンダーの子どもを描くというのは大変だったろうと思われる。
学校もバレー教室も彼女が女の子として生きたいというのを認めない。パリの著名?なカウンセラーが一家の相談に乗りつつ学校とも話し合い、最後には学校はスカートをはいての通学を認めるが、バレエ教室の方は、断固として認めず、彼女を教室から排除しようとする(最初バレー教室で、短いスカートの稽古着の処女たちに交じり、一人黒っぽいスエットの上下の彼女、そして衣装を着けての練習でも一人だけ男のこの衣装を与えられ、黙ってそれを着て他の子を見つめながら練習に参加する彼女がとても哀切)。で、そういう場面の撮影はできたのだが、学校でもバレエ教室でも、彼女を女の子と認めないという主張は実際に映されることはなく、間接話法で母が語るということだから、本当は相手側にも言い分はあるのかもしれないのだが、何より可憐なサシャの様子に観客ともども黙らされてしまう?
しかしなんで、教育の場がそんなに頑迷なのか…さすがフランス、かも。
もう一つ、人形やかわいいフィギュアなどで彩られた部屋やスカートを喜ぶ様子に、できればジェンダーフリーで育てたかった自分を振り返り、最近よくいわれるが性自認がいつからどのような形で行われるのなのかー人形=女の子、車のおもちゃ=男の子は文化に過ぎないのではないのか?と今一度悩みも深まった気がする。(12月22日 新宿武蔵野館 285)

㉗夜空に星があるように(Poor Cow)
監督:ケン・ローチ 出演:キャロル・ホワイト テレンス・スタンプ ジョン・ピンドン 音楽:ドノヴァン 1967イギリス 102分

貧しい家庭に生まれ教育があるのでもなく、成り行きで二人の泥棒稼業の男と付き合い、幼い息子を持つシングルマザー18歳ジョイの暮らしを描く。息子の父であるトムは刑務所に行き、戻って同居するとDV、もう一人の優しいデイブは12年の刑で刑務所に。彼女は息子がいなければ娼婦になる、女は男がいなければ生きていけない(暮らしが成り立たない)、とデイブを慕いつつ、トムと暮していくわけで、常に一生懸命ではあるが救いようのないような悲惨―息子ジョニーもトムやデイブの再生産ということになるのだろう…―を描きつつ、ただ彼女を見つめ彼女に寄り添うような、まさに「夜空の星」の視点で描かれた、ケン・ローチの53年前のデヴュー作。男たちの印象はイマイチ―昼食後に見たせいか、男たちがべらべらしゃべりだすとふっと眠気が差し前半見損なった場面もありそうな―あの時代とはいえ、そして自分の人生については目標も方針もたたずフラフラしていて、息子も日常的には行き届いた面倒などは見られない、しかし息子―子育てには執着している若い女を、音楽入りで孤独なロマンチック?に描くのには「男視点」も感じるが、これが出発点だったとは、さすがケン・ローチとも思える。(12月22日 新宿武蔵野館 286)

㉘皮膚を売った男
監督:カウテール・ベン・ハニア 出演:ヤヤ・マヘイニ ディア・リアン ケーン・デ・ボウ モニカ・ベルッチ 2020チュニジア・フランス・ベルギー・スェーデン・ドイツ・カタール・サウジアラビア(アラビア語・フランス語・英語)104分 ★

まずはシリア、列車の中で親の反対する恋人とデートするサムは、思わず「革命だ!自由だ!」と叫び車内での結婚宣言、乗客たちも祝福するが、そのあと「革命派」として捕まえられてしまう。看守の親戚の男に逃げ道を示されて逃げ恋人に会いに行くが彼女は家族にいわば拘束状態でシリアの大使館勤めのベルギー人と結婚させられようとしている…、でサムはやむなくレバノンに亡命。やがて彼女が結婚してベルギーに行ったことを知り、何とかベルギーに行き彼女を助け出したいと思うのだが、もちろん、なかなかそうはいかない。そこに声をかけたのが「芸術家」のクリスティアン。彼はサムの背中に「VISA」のタトゥを入れてサム自身を作品として展示することをもくろむ。その秘書で世話役(モニカ・ベルッチ)の世話で契約をし、タトゥを入れ、大金も手に入れたサムは…展示品となったことは隠したままベルギーにも行き、彼女と再会するが夫が彼女を連れて展覧会に乗り込み、一方シリア難民の人権団体もサムの処遇に怒りというようなトラブルにサムは巻き込まれる。クリスティアンは作品の彼をオークションに。その席上、サムはとんでもないパフォーマンス(音楽を聴いていたイヤホンを使い…)をし、またまた拘束されてしまう―そこで夫と別れ本職の通訳をする彼女が弁護士とともに現れ、彼女はは通訳する振りをして、二人は弁護士の前で意思疎通。弁護も成功し彼は釈放されるも実はヴィザが3か月前に切れていたとかで国内退去となる。二人はむしろ喜んでシリアに帰るのだが、間もなくサムが過激派に捕まって射殺される映像が世界に流れる…。最初の場面が額に入った彼の背中が展示されるが、それが繰り返され、この社会派悲劇の幕切れかと思うと、観客は驚きの裏切りに会うハッピーエンドという仕立てで、娯楽作品としての完成度もなかなかだ。
サムはシリアのイスラム教徒というっ設定だが、タトゥを入れられる場面のクローズアップの表情はなんだかキリスト像みたいな感じで、キリストが中東人であったことを思い出させると同時に、この映画、そういう面でもメタファーが含まれているのかなと感じさせられる多国籍映画である。1年10か月ぶりに新百合ヶ丘アルテリオ映像館に。
(12月24日 川崎市アートセンター。アルテリオ映像館 287)

㉙ジャンヌ
監督:ブリュノ・デュモン 出演:リーズ・ルブラ・ブリュドム ファブリス・ルキーニ クリストフ 2019フランス138分 ★★

未見だが同監督、同主演女優、同時上映の『ジャネット』の「奇想奇天烈、破壊的なミュージカル」というのにひかれて、どんなジャンヌ・ダルクだろうと見に行く(ちょうど時間がぴったりはまったので)が、こちらは全く端正な、むしろ演劇的な作品だった。原作のシャルル・ペギーの視点がより直接的に表されている?のかも。場面もフランス王の野営の丘の上?とか、異端審問が行われる大聖堂の中(ほんとに壮麗。どこなんだろうか)、ジャンヌの閉じ込められる牢とか五,六箇所だけで、そこで男たちが延々と語り、神職者はいかにももったいぶった感じで祈り、礼をささげという感じで、しかし何となく皆不気味・滑稽・そしてその言葉は凛々しい少女ジャンヌの前ではうさん臭く響いていき、とにかく破れかぶれで無理やり彼女を処刑に追い込むというあたりが強調されている。これはジャンヌを描くというよりキリスト教の偽善というか独善をジャンヌのまっすぐな冷徹とも言える目が見つめているそんな映画である。そこから放たれ処刑ははるかな遠景で描かれるが、何となく解放感に満ちているのが不思議でもあり、映画の上手さでもありそう。(12月24日 渋谷ユーロスペース 288)

㉚ジャミリャー
監督:イリーナ・ポプラフスカヤ 出演:ナターリャ・アリンバザロワ スイメンクル・チョクモロフ ポロド・ぺイシェナリエフ 1969ソ連(ロシア語・キルギス語)78分 ★

ソ連時代の「メロドラマ」というのであまり期待しなかったのだが、どうしてどうして。実写のドラマ場面はモノクロ、合間に入る鮮やかな物語を描く絵はカラーで、これは語り手の画家志望のセイト少年の夢想の中の絵ということか。その鮮やかさと現実の差がまざまざと感じさせられるような演出もさることながら、そしてキルギスの民族的な伝統や習慣の中でコルホーズが営まれているその対比、男尊女卑的な思考がむしろ現代ソ連のコルホーズ側にあって、騎馬競争に勝った男のみが相手の女に結婚を申し込めるとか、既婚の若い女性に男たちが群がる川遊びとか、男性と同様に馬車を駆って荷物運びをするとかの活発な女性の姿。いっぽうで顔をうずたかいベールの下の隠す花嫁の異様なともいえる風俗とか、嫁を自家のものとして外に出すまいとする姑とか、非常に閉ざされた女性の境遇とかが入り混じる。そのなかで、戦争に行ったまま帰ってこない夫の留守中、負傷して戦場からもどり彼女が一緒に荷運びをすることを命じられるダニヤルとの最初は遠くからむしろ敵対、しかし徐々に心が近づきという交渉、そして夫の帰還と、彼女の駆け落ちと、まあ俗っぽくはある確かにメロドラマ的展開ではあるのだが、そこに因習への抵抗とそこから逃れえない苦しみと、見つめて兄嫁に恋し、彼女を他の男から守ろうとする少年セイトの視点(絵)を置いたことで叙情にも満ちた印象的な作品ないなっている。原作『この星で一番美しい愛の物語』アイトマートフだそう。(12月24日 渋谷ユーロスペース 中央アジア今昔映画祭 289)

㉛ジャネット
監督:ブリュノ・デュモン 出演:リーズ・ルブラ・ブリュドム ジャンヌ・ヴォワザン リシュル・ダーティユ 2017フランス112分

『ジャンヌ』に引き続き、その前作を見に行く。ウーン。こちらはほぼ野外場面のミュージカル仕立て、『ジャンヌ』では寡黙なジャンヌだったが、ジャネット時代(聖女として「ジャンヌ」の名を得た…)は神への疑問や自分の使命への悩みについて延々歌い、踊る。そこに現れる二人組の修道女とのコラボ?とか、同世代の現実を受け容れよと諭す友人とのからみとか、あるいはバカみたいな聖ミカエルほか3人の聖人との出会いとか、まあ目は引くのだが、やはりちょっと奇をてらったというか、歌舞伎みたいな作りだなっと思った。聖女が髪振り乱し連獅子風に踊るとか、オルレアンへの出発場面で側転もふくんだ踊りを延々と見せるとか…話の展開としてはたいしたこともないものを延々と歌と踊りで引き延ばし、見えをこそ切らないものの、キッと天を見上げる表情のクローズアップとか。ところで映画前半の図アネット(当時8歳の素人だそうだ)は後の『ジャンヌ』と同じ少女が演じていると一目瞭然なのだが、この映画の「3年後」とかいう場面で出てくるジャネットはすっかり成熟・成長して大人の女性の雰囲気を漂わせ、同じ人?ーわかりません。眉とか目は全然違う感じだが口元あたりは面影があるかなあーえ?え?という感じ。もし同一人物ならばこの映画前半撮影後、『ジャンヌ』を撮り、さらにその後『ジャネット』の後半を撮ったということになるのかなあ。数年がかりの壮大なプロジェクトということだろうか。おまけにプログラムも、公式サイトも、その他の映像も幼い顔のリーズ・ルブラ・ブリュドムばかりで、『ジャネット』後半の彼女?の写真は巧妙に隠されている感じも…。いや、なんか不可解。映画の中ではジャンヌの叔父が従者として彼女に付き添うが、彼の歌はラップ。馬に乗れず振り落とされたり(あえてこういうミステイクを採用したとか)ちょっと間の抜けた雰囲気も漂わせ、映画を「バカみたいな大真面目」の雰囲気を盛り上げている(聖人出現場面でうろうろするヒツジなんかも…)(12月28日 渋谷ユーロスペース290)

㉜世界で一番美しい少年
監督:クリスティーナ・リンドストロム クリスティアン・ぺドリ 出演:ビョルン・アンドレセン 2021スェーデン 98分

ヴィスコンティのオーデション(少年にとってすごい残酷映像)からはじまり、現代の長髪痩身は60代にしては老け顔で、多分世界には同じくらいの美少年というのもいたはずで、その人々がどんな人生かはわからないが、ビョルン・アンドレセンが見いだされたばかりにいわば数奇な運命まで選び取らされたことになったのは間違いなく…感慨を持ってみる。
しかし子供も二人。二人目が8ヶ月くらいで乳児突発心不全?いわゆる突然死してしまったことが、彼を酒に走らせ、その後の破滅的人生を歩ませたとすれば、これもそこまで幸せな家庭を持っていたということだし、長らくあまり縁がなかったという娘とも今は関係を保っていて、映画出演のチャンスや日本旅行もしていて―確かに出だしの方でガスをつけ放し、部屋を汚し放題とかで大家から立ち退きを迫られたりもするが―恋人が助けてくれもして、意外に不幸な人生を歩いているわけではなく、数奇とはいっても悪くはない数奇ではという感じもさせられた。なるほどね、という感じ。(12月28日 新宿シネマカリテ291)

カリテロビーのパネル

㉝パーフェクト・ノーマル・ファミリー
監督:マル―・ライマン 出演:カヤ・トフト・ローホルト ミケル・ボー・フルスゴー リーモア・ランテ ニール・ランホルト 2020デンマーク 97分

ティーンエイジャーの娘二人を持つ父が、性的違和感から女性になり、妻(娘たちの母)とは離婚するという話を娘の視点から描いている。娘たちが小さい時からの一家のホームビデオのしあわせそうな姿が折々に挟まれつつ、女になった父をすぐに受け入れる姉娘―しかし父が転職してロンドンに行くと言うとヘソを曲げる―となかなか受け入れられない下の娘の1年間を描いていくわけだが、周りの人々が戸惑いつつも彼の選択を受け容れているようなのはいかにも北欧?という感じだし、そうはいっても結局父と娘たちのサークルからは母ははじき出されつつ、しかしさりげなく娘たちをバックアップするというふうな描き方で堅実だけれど、ウーン、あまり意外性もない。それにしても女性性を選んだトランスジェンダーの元男性ってどうして、みんな同じようなビジュアル、服装趣味になるかなあと、そこがまあ映画ゆえと思いつつちょっと気になったところ。(12月28日 新宿シネマカリテ292)

㉞夢の向こうに(幻愛)
監督:キウイ・チョウ 出演:テレンス・ラウ セシリア・チョイ 2020香港120分

リム・カーワイがキュレーターを勤めた香港映画祭2021は東京では暮れもいよいよ押し迫った12月29日30日の2日間行われた。あまりに年末すぎて家事家族の世話もあるしなあ(普段してない分こういうときには逃れられない)、と悩んだが、この最後の1本のみ、なんとか時間を作って見に行く。178席の劇場は最前列を残しほぼ満席!
この映画祭最初の予定から途中で3本が配給会社の差し止めで上映できなくなり差し替えられる―その理由はリム氏にもわからないとの説明あり。その中には彼自身の作品も含まれている―ということもあり、厳しい香港の映画統制の中でようやくにして撮影された作品(ただし国家保安法以前、雨傘革命以前の作品も含まれている)公開された作品ということで、今後見るチャンスもなかなか作りにくいのではないかとも思われる貴重な機会だった。
この映画は、『時代革命』のキウイ・チョウの恋愛ドラマ。統合失調症を抱える青年ロックの前に現われた欣欣という女性と、彼のカウンセリングをする臨床心理士の卵の大学院生(有能だが、母との過去の確執もあり、「誰とでも寝る」というような彼女も心の悩みをかかえている)を、『返校』で読書クラブを主催する殷老師を演じたセシリア・チョイ(蔡思韵)が演じている。欣欣はロックの幻想ということで、行ったり来たりのあげくに、彼女は臨床心理士の職をなげうちまあハッピーエンドにはなるのだが、なんかなかなかメンドくさいなというのと、統合失調という病気をこういうふうに扱っていいのかというのがちょっと引っかかるところか…『時代革命』とは全くかけ離れた視点で、いかなる政治情勢下でもそれにかかわらず政治とはかけ離れたところにある人間心理を描き切ろうとした?ところに意義があるのかもしれない。(12月30日 渋谷ユーロライブ 293)

珍しくリム・カーワイ氏のカタカナサイン入りポスターをGET!

onlineで行われた、トーク



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