【勝手気ままに映画日記+目の手術!】2023年6月

 

山頂はまったく眺望ナシの笹子・雁ケ腹摺山↑

前号で書いたように、6月に入って1週間おきに右、左と白内障の手術をしました。手術は日帰りで簡単?でしたが前後には通院が何回もあり、手術後2週間は登山や水泳などはNGということで、6月は結局手術前に駆け込みで行った日帰り1回だけ。
6月3日に笹子・雁ケ腹摺山へ。前日は大雨でどうしようかと思いましたが、当日はなんとか天候回復。ですが富士山は途中一瞬半分だけで写真を撮る余裕なく、おまけに泥道でぬかるみに足をとられ路肩から滑り落ち、幸いけがはなかったものの片足ドロドロ↓
山ツツジだけが美しく、それでも楽しく行ってきました!
下右は、左目手術の翌日眼帯を外してもらいに行った眼科前で、同じ手術を受けた方と写真の撮り合い(笑)の1枚です。

    


6月の映画

①メモリー②ぼくたちの哲学教室③どん底 4Kレストア版⑤怪物⑥苦い涙⑦岸辺露伴ルーブルに行く➇不思議の国の数学者⑨コシュ・バ・コシュ恋はロープウェイに乗って⑩ルナ・パパ⑪ウーマン・トーキング 私たちの選択⑫逃げ切れた夢⑬ナイン・マンス⑭ドント・クライ・プリティガールズ⑮アダプション/ある母と娘の記録⑯青いカフタンの仕立て屋(Le bleu du caftan)⑰プチ・ニコラ⑱焼け石に水⑲アシスタント⑳世界が引き裂かれるとき㉑ペトラ・フォン・カントの苦い涙㉒テノール!人生はハーモニー㉓日陽はしづかに発酵し㉔孤独な声㉕チョコレートな人々㉖スーツ㉗遺灰は語る(Leonlla addio)㉘マリとユリ㉙クリーン㉚阮玲玉㉛キンキーブーツ(松竹ブロードウェイシネマ)

中国語圏映画㉚
日本映画⑤⑦⑫㉕
ドキュメンタリー映画②⑰㉕
再発見!フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅 ⑨⑩㉖
メーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命⑬⑭⑮㉘
ソクーロフ小特集㉓㉔
『苦い涙』公開記念⑱㉑ 
いろいろな監督のシリーズの中で未見のものを選んでみることが多い6月でした。
★はナルホド! ★★はいいね! ★★★はもう一度見ても言い、ぜひおススメ!という個人的感想。各映画末上映館後は今年劇場で見た映画の通し番号です。

目の手術をしたらしばらくは映画を見られないと覚悟していたのですが、どうしてどうして、手術の翌日眼帯がとれたら視力1.2!1週間は洗顔や激しい運動、目をこするとかはしてはいけないというのですが、PCも映画も見られれば見てかまわないということで、さすがに右目の手術が終わり左目はまだという1週間は若干自粛(というかやはり少々見にくい)していましたが、左目が終わったあとは1日だけ休みましたがその次からは映画を見始めました。
そんなわけで(山にも行かなかったし)例月通りというかそれ以上の31本の作品を見てしまいました。

「白内障手術」報告はこのBlog末尾に(ご笑覧ください!)

①メモリー
監督:マーティン・キャンベル 出演:リーアム・ニーソン ガイ・ピアーズ モニカ・ベルッチ タジ・アトウォル 2022米 114分

70歳になったリーアム・ニーソンが認知症(アルツハイマー)の殺し屋を演じるという。なんかなあ、ちょっと悲しい気にもなるが認知症高年者のあらたな「生き方」が見られるかもなというのが、まあ、最終日最後のレイトショーを見に行った理由ということになるか。風貌はやはり老いたーというかメイクの成果かもしれないがーリーアムだが、ケガをしている場面も含め、強い!そうそうたる?敵を物陰から飛び出して叩きのめすとかね。
認知症になったアレックスは病院で清掃人に化けて鮮やかな手口での殺人を終えた後、殺し屋の元締めに引退を申し出るが、最後の仕事として2人の殺人を押し付けられる。その一人が少女だった(メキシコ移民でとても12,3には見えない成熟した感じの美少女)ことから、その殺人を断る。しかし少女は同じ組織が差し向けた別のものによって殺されてしまい、アレックスはその復讐のため?彼自身に殺人を命じ、少女を殺した相手を狙う。一方少女を介して人身売買組織の存在を洗っていたのがFBI捜査員のセラ。アレックスはセラに電話して「捜査が遅い」といったことから、自身を殺人者と特定され追われることにもなる。そこからは追うセラ、追われるアレックス、そしてすべての黒幕となっている大富豪の女性ダヴァナ・シールマンとその周辺の実行者(ドラ息子を含む)や援護者(警察官も)や雇われた殺し屋たちや警察との攻防・攻防という展開。
「悪人」は次から次へと殺され最後は撃たれ倒れたアレックスも…というわけで、アレックスが思い出し彼の死後にセラが見つけ出したタヴァナの関与を示す証拠は不十分として司法はタヴァナを立件せず、これは息子や手下は殺されたもののタヴァナの一人勝ち?と思われる最後になぜか彼女は喉を切られて死ぬ。
ウーンなるほどねの終わり方(セラは部下が誘い出しアリバイを作ってくれた)だが、これって法よりも実力行使のテロ行為の肯定か??認知症のままで事件を解決するのは(自己犠牲をしても)難しいもんかねと、ちょっと落ち込んだ結末だった。(6月1日 府中TOHOシネマズ 177)

②ぼくたちの哲学教室
監督:ナーサ・ニ・キアン 出演:ケヴィン・マカリーヴィとホーリークロス男子小学校の子どもたち 2023アイルランド・イギリス・ベルギー・フランス 102分


二コラ・フィリペール(先月は『アダマン号に乗って』を見た)の『ぼくの好きな先生』(02)を彷彿とさせると言われることもある、この作品、未だ静かながら宗教対立の地であるアイルランド・ベルファストの小学校での「哲学」の授業を描いて大評判。
実は私自身はこういう学校ドキュメンタリーは苦手(眉唾な気がしてしまう)なので後回しにしていたのだが、5月末の『映画でみつめる世界の今』(NHK国際報道・藤原帰一)でも紹介されたー紛争のある世界での和解への試みとして意味があるということかーので、見に行くことに。
確かに映画の背景に町の分離壁や親も抱えるプロテスタント・カソリックの対立する社会が透けて見えるような作りで、その中で暴力ではなく思索や対話で解決していこうという教育なのだということはよくわかるように作られているのだが、映画の感動を成立させているのが、校長マカリーヴィ氏のスター性?(エルビス・プレスリーの大ファンで、常に階段を一段飛ばしで踊るように?教室に向かう姿が何回も繰り返される。演技力たっぷりに生徒と対話を試み、一方厳しい教育者としての一面も見せる)と、それにこたえる子どもたち(自分の悩みを涙を流しながら教師に訴える子供のクローズアップ、叱られて立たされボードに反省の思考を書く、自分が地域のマーケットで犯した行動を教師に訴えるウソの場面=万引きをしたようだがそれを隠す、万引きであることはそのあとの教師の電話での話から分かる。これも名指しの顔の大写し)撮影者が当然この部屋にいるわけだが、こういう撮影ができたというのはヤラセとは言わないが、撮影される側の意識というものがどうなっているのか、撮影者との関係がどう構築されているのか、むしろそちらが気になって(フィクション作品なら逆にこういうことは気にならないだろう)映画の主張に集中できない。
この小学校何百人か児童がいるようだが、この映画で取り上げられているのは多分一クラス、名前も同じ子が繰り返し出てくるし、ウーン。また、コロナ禍での閉校が終わり新学期が始まった時に、中学校に進学する子がヘアスタイルも替え中学の制服で校門に現れ、そこにいる教員と話し励まされてから中学に向かって去っていくシーンなど、とても偶然の記録的映像とは思えず、これをドキュメンタリーと言っていいのかどうかと思われるようなドラマティクさに、内容的には感動してしまう自分を一歩外から「騙されるな」と思わず感じてしまうような、ウーン。ドキュメンタリー映画の難しさをすごく感じさせる映画だったが、こういうことを思う観客の方が問題なのかなあ(そのくらい評価は高い)。(6月2日 渋谷ユーロスペース178)

③どん底 4Kレストア版
監督:ジャン・ルノワール 出演:ジャン・ギャバン ルイ・ジューヴェ 1936フランス 白黒スタンダード 93分 ★

ゴーリキーの『どん底』が原作だが、ルノワール映画の楽天性?向日性?を感じさせられて、映画の楽しみをたっぷり味わえる。描かれるエピソードは『どん底』だから暗いし、ギャンブルですべてを失い、泥棒に入ったぺペールと意気投合して彼の住むどん底の宿に身を落とす男爵も普通に考えたらどうしようもないダメ男の悲惨な境遇ということであろうがひょうひょうとして状況に順応するし、ペペールのほうも大家の死を契機にもうおしまい?と思われる境遇になるが、そこから抜け出し恋人と手を組んでこのどん底を出ていくというわけでそこに悲壮感があるわけでもなく、ゴーリキーっぽくないところがさすがにフランス? (6月2日 渋谷ユーロスペース179)

6月4日(天安門事件から34年め)こんな集会に参加しました。戦争への道を二度と歩みたくないという思いで…できることはし、言えることは言っていきたいと思っています。↓


参加者300人?盛況の会場


④ふたりの女、ひとつの宿命
監督:メーサロシュ・マールタ 出演:イザベル・ユペール モノリ・リリ ヤン・ノヴィツキ ベルツェル・ズィタ 1980ハンガリー・フランス 105分 ★



はじめてみるメーサロシュ・マールタ監督の映画。1936年ハンガリーを舞台に、帽子店の店員、ユダヤ人のイレーンは裕福な友人スィルヴィアに彼女の軍人の夫アーコシュとの間に子を作り代理出産してほしいと懇願される。不妊のスィルヴィアは父に、生まれてくる孫に全財産を相続させるという遺言を書いたと言われたのである。―金持ちの家を覆う家父長封建社会の影―夫も、イレーンも最初は驚き断るが、実際に会うと…というわけでイレーンは妊娠、夫婦はイレーンを別荘?に住まわせ出産までの面倒を見る。
食卓を共にし、スィルヴィアはイレーンに毛皮を与え、二人はおそろいの服装で雪遊びをしたり…その間にいる夫は、知人に紹介するときイレーンを妻とし、スィルヴィアのことは妻の姉だと紹介する(知人が妻の妊娠をしっているからだとは夫の言い訳の弁)。そんな状況に納得ずくだったはずのスィルヴィアの心は穏やかではなくなり、イレーンはある日家出をするものの追いかけたアーコシュに連れ戻され、やがて出産(隣室で狂ったようになるスィルヴィア)子どもはスィルヴィアに連れ去られ、彼女を母として洗礼を受ける。
そして1944年、ハンガリーにもナチスの嵐吹き荒れ、ユダヤ人狩りが始まる。アコーシュはスィルヴィアとイレーンの住む二軒の家の間を行ったり来たりの暮らしで、アコーシュとイレーンの間にはすでに二人目の子どももいる。アコーシュは妻の身分証をイレーンに渡すようにと言い拒否される。「わたしは8年耐えたのよ」というスィルヴィア。一方のイレーヌはアコーシュが逃げるように勧めても、「あなたがいるこの地を動かない」。二人の間で困惑し怒るアコーシュが、なんか、どうしようもない男に見えてくる。そしてある日、イレーヌが幼い息子と住むこの元別荘に兵士(警察?)が乗り込んでくる…。
前半は愛不在の代理出産だったはずが愛にからめとられて関係が変わっていく3人というドロドロ愛憎のフランス映画だが、特に後半それがナチズム支配の社会恐怖につながっていくところが、この作者のいかにも―ナチズム台頭を逃れてキルギスに逃げるが父をスターリンの粛清によって失い、母も幼くしてなくして児童施設で育った—という社会派映画にもなっている。若いイザベル・ユベールの美しいがふてぶてしさもあるような存在感が抜群。1930年代の富豪の衣装もゴージャスだし、見ごたえのある一本だった。(6月4日 新宿シネマカリテ メーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命180)

⑤怪物
監督:是枝裕和 脚本:坂元裕二 音楽:坂本龍一 出演:安藤サクラ 永山瑛太 田中裕子 黒川想矢 柊木陽太 高畑充希 中村獅童 2023日本125分 ★

諏訪湖畔の街のビル火災場面からはじまり、この火事の夜が、違う登場人物の視点から何度も繰り返されながら物語がらせん状?に深まっていく構造は「坂元裕二らしさ」。視点が変わると同じ登場人物の態度が違った意味をもって立ち現れるのは是枝裕和の演出力もだが、やはり田中裕子の恐るべき演技力?で「裕」つながりのコラボの成果でもあろうが、その分物語が特に後半少し間延びした感があるのは否めない。
火事を息子と見るシングルマザーさおりは息子の様子がおかしいのに気づき、新任の担任保利に「お前の脳は豚の脳」と言われたとか殴られたという息子のことばに、学校に事情をききに行く。校長は能面のように保身的態度をとり、担任教師は何を考えているかわからない不誠実な頼りなさ(なのに、不審な行動もあるようで)、教師たちはさおりにそろって頭を下げるが、彼女はそれではおさまらない。このあたりのさおりの心理描写と緊迫感はなかなかで、物語に緊張を与え、思わず身を乗り出してしまうのだが…。
二幕目は恋人に結婚を申し込もうとする明るい、まじめな、子ども思いの教師保利が、この事件によってどんどん追い詰められていくようす。普通に子どもに誠実に向き合おうとする教師の行動がボタンの掛け違えのように、悪意に寄ったり指導の間違いだとされていく過程は是枝的映画世界でもあり、坂元的ドラマティクでもあり…。その中でちらちら見えた子供たちの世界が最終章は二人の子供の視点で語られる。
前半でも伏線のように現れた学習障害を抱え級友にいじめられ、親からもネグレクトされているが、実は自身の豊かな世界を持っている依里と、彼に心をひかれながら、周りの友人たちの前では「話しかけるな」と依里に迫る星川湊、この二人の美しい緑の秘密基地での夢のような交流―このような場所が日本国内にあるのか、という意味では非現実的にも思われるが、その非現実性こそが映画の狙いなのだろうとも思われる―の中で回収されていく前半の伏線。そして嵐の夜、子どもたちは帰ってこない。さおりと保利は周りの制止を振り切って子どもたちを探しに行くが…。大人同士はある種の和解に到達するが子供はどこに行ったか分からないという結末の思えば悲惨ではあるが、なんか明るさも漂って、結局「怪物」は誰だったんだろうという問題は最後まで。考えてみれば集団としてのクラスメートたち、個ではなく教師集団こそが「怪物」ということかもしれない。(6月5日 府中TOHOシネマズ181)

⑥苦い涙
監督:フランソワ・オゾン 原作:ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー出演:ドゥニ・メノシュ イザベル・アジャー二 ハリル・ガルビア ステファン・クレボン ハンナ・シグラ アマント・オディール 2022フランス 85分 

主人公の映画監督ペーターが助手のカールをこき使って(淡々と仕えるカールの造形が面白い。最後のどんでん返しまで。予測はされるが…)自堕落に暮らす事務所兼自宅のマンションだけが舞台、出演者も表記の5人のみという、室内劇的様相。二人以外の登場人物は全員玄関ドアのベルを鳴らして入ってきて、玄関から退出する。
大女優シドニーが連れてきた(といっても彼女が先に来て、そこに呼び寄せる)アミールに恋したペーターは彼の写真を撮り役を与えるといい支配しつつ、気まぐれなアミールの心をおもんばかって支配されてしまうという、まあこのあたりは予想の範囲。面白い?のはアミールに去られたペーターの焦燥と周りへの当たり方。誕生日を祝って訪れる(カールが迎えに行く)ティーンエイジャーの娘シドニー、そして母(かつて、この映画の元になっているファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』㉑で本作のアミールに当たる小悪魔的な女性カリーンを演じたというハンナ・シグラが演じている)とのやりとりとそしていわば結局ペーターに起因する別れにより孤独になり最後にカールに言い寄るのだが…。
ファスビーダーに似せたという造型のペーターの立派な(太目のというべきか)体躯とうらはらな軽薄っぽい動きでどうにもならない弱さと悲しみを体現する演技はなかなかすごい。目の手術前にみられるものをなるべき見ておきたいと原稿書きの合間に必死の映画館通い
(6月6日 新宿武蔵野館183)

⑦岸辺露伴ルーブルに行く
監督:渡辺一貴 原作:荒木飛呂彦 出演:高橋一生 飯豊まりえ 長尾講杜 木村文乃 白石加代子 美波 安藤政信 2023日本 118分

出だし露伴は「黒い絵」に興味を示し、取材を兼ねたオークションで150万円で落札するが、これを奪おうとする謎の男がで現れ、さらにこれは彼が求めた日本人画家のホンモノではなくそれを模写した外国人画家の作品ということで、本物を求めて露伴と編集者の泉はルーブルに旅立つことになる。
次は若き露伴が滞在した元旅館、今は下宿屋になっている祖母の家で謎の女性に出会い「黒い絵」の存在を知るエピソード。3つ目はルーブル美術館についた二人が学芸員エマの案内で「黒い絵」が発見されたという古い倉庫?に入り、そこを守る警備員(消防隊員)、著名なキュレーターとともに、不思議な幻影を見るというアクション・オカルトを交えたパート、そして高橋一生扮する「黒い絵」の画家仁左衛門と木村文乃が二役の妻の江戸時代の悲劇的なエピソードにより「黒い絵」の謎解明のエピソード(解明したのかどうかあまりわからなかった)、最後にルーブルから戻った露伴と泉のいつもながらの掛け合いまで。
あまりに盛りだくさんに話が展開し、しかもなんかどのパートもインパクトはイマイチで、ウーン。画面の暗さは目のせいとして割り引くとしても、なんか集中しにくく漠然とした雰囲気のみが漂い、「ヘブンズドア」の見せ場もインパクトが弱い感じでウーン。テレビドラマサイズで十分?(テレビドラマではけっこう楽しめる感じがした)高橋と飯豊のツーショットには映画の画面は少し大きすぎる感じもする。(6月6日 府中TOHOシネマズ184)

➇不思議の国の数学者
監督:パク・ドンフン 出演:チェ・ミンシク キム・ドンフィ パク・ヘジュン カン・マルグム 2022韓国 117分

名門進学校の夜間警備員にして実は天才数学者と、落ちこぼれかけている高校1年生の青年のまあ、友情と、少年の追い込まれた苦境を救う警備員というのはかなり、予想される展開通りの映画だが、この数学者が脱北者で、しかも政府の監視?を受けているというのはいかにも韓国だし、数学と音楽を結び付けて「美」を語り、円周率をピアノ演奏するシーンはなかなかにステキではある。
高校生ジウは数学者ハクソンの授業を受けて力をつけるが、それを担任教師ににらまれて、転校しなくてはならない状況に追いこまれるというのは何とも嘘っぽい。トップ校で貧しい子や片親の(優秀な)子を特例入学させる制度が本当にあるのかわからないが、塾に行けないがゆえにそういう子を教師が転校させたがるというのが本当にあるとは思えない。それと、最後の方で監視をしていた骨董店主実は政府機関の役人?がハクソンにパスポートと航空券?を渡すが、これってどこへ行かせようとするのか?(北に一時帰国ってありうる?)今一つ分からず。数年後生徒はこの警備員に再会するので、北へ帰ってそれきりということでもないらしいし。
(6月7日 川崎市アートセンター・アルテリオ映像館185)

コシュ・バ・コシュ恋はロープウェイに乗って
監督:バフティヤル・フドイナザーロフ 出演:パウリーナ・ガルベス ダレル・マジダフ 1993タジキスタン 96分


内戦状態にあるタジキスタンの首都ドゥシャンベが舞台。友人同士の賭博に「全財産」をすってしまった男は、ちょうど帰省してきた娘を借金のかたとして差し出すと宣言する。博打仲間の若者で町のロープウェイの管理をするダレルはこの娘ミナに同情から恋をして彼女を連れだし、大騒動。
賭博に負けた父と、ダレルが川に流れる死体を引き上げる場面が最初の方に出てくる。この街が内戦下にあって四六時中銃撃音がとどろいていることをより視覚的に表したのかと思われるが、物語の筋自体にはあまり関係ないこのような場面が結構多い?感じで、一つ一つには注意がひかれ引き込まれる。しかも素朴さもあっていい感じだが、あまりに続くとうん?かったるーいという感じもなくはない。そんなわけで劇場のあまりの寒さ((人の数のわりに冷房きつすぎ)もあって、最後のほうは早く終わらないかと思ってしまう。
ダレルの恋がハッピーエンドに成就するわけでなく、最後までミナをロープウェイの下を駆け、車の後を自転車で追っかけるダレルのドローン映像?(俯瞰)で終わるからかもしれない。(6月8日 渋谷ユーロうペース 「再発見!フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」186)

⑩ルナ・パパ
監督:バフティヤル・フドイナザーロフ 監督:チュルパン・ハマートバ モーリッツ・ブライブトロイ アト・ムハメドシャノフ メラーブ・ニニッゼ 1999ドイツ・オーストリア・日本 110分 ★★


93年の前作?⑨がローカルなタジキスタン作品なのに対し、こちらは国際化、商業化?して、映画としてはとっても進化。さらに2012年の『海を待ちながら』を思わせるような風景映像もあって、作者の大監督への変化も感じさせる完成度。厳格な父と、戦争で頭に障害を負った兄と住むマムラカッットは満月の夜暗闇から役者?らしき男に言い寄られ妊娠してしまう。町では父のない子を妊娠したマムラカットへの風あたりは強く、父は兄と彼女を車に乗せて赤ん坊の父親を探して各地の芝居に半分殴り込み。その過程がドタバタという感じで描かれていく。献血(実は闇の買血)車の医師と知り合い、後半では家族や町の差別に家出をし列車に乗り込んだ彼女がこの医師と再会してからの冒険と、医師の彼女への恋、そして結婚と話が進むのだがこれも思いがけないドンデン返しーなんと空から牛が降ってきてーさらに牛を落としたパイロットが実は月夜に言い寄った男?だと名乗り彼女に結婚を迫るのだが…。
前半もだが後半はさらにシュールさも増し、笑いながら何だか悲しくなるような奇想の幕切れへと続き、マムラカットは孤独に楽しそうに、兄によって旅立たされるのである。2000年に日本公開されていて、多分ビデオで見たと思う。(6月8日 渋谷ユーロスペース「再発見!フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」 187)

⑪ウーマン・トーキング 私たちの選択
監督・脚本:サラ・ポーリー 出演:ルーニー・マーラ クレア・フォイ ジェシー・バックリー ジュディス・アイビー ベン・ウィショー フランシス・マクドーマント 2022アメリカ 105分 ★★★

2005~9年にボリビアのメノナイトのコロニーで起こった事件を元に書いたミリアム・トウズの同名小説が原作で、フランシス・マクドーマントが上映権を買い、ブラッド・ビットの制作会社「プランB」に売り込み、サラ・ポーリーに監督を熱望したという。アカデミー賞’95で脚色賞をとっている。マクドーマントは製作者としてクレジットされているほかに、自身も出演しているが、いかにもと思えるような討論参加者の女性としてでなく、宗教を捨てることを恐れ男たちを許そうとする少数の一人として終始無言で暗い横顔を見せながら画面を引き締めているのはさすが。
長期にわたり牛の麻酔薬?を盛られてレイプを受け続けて、それは「悪魔の仕業」だと思い込まされた女性たちだが、あるとき少女がレイプ犯を見つけたことにより、犯人は摘発され街の警察に送られ男たちは保釈を求めて街に出向き、村は2日間女たち(子どもや老人は当然いるのだろうが)のみになる。このあたりは大幅な省略話法で、警察が介入したとすれば村と外の世界にはつながりがあるはずだが、そのあたりを映画は合理的には説明しない。また方角を知るのに南十字星を利用する場面もあって、ここが南半球であることは示唆されるが、どこと場所が特定されることもない。さらに2010年の話で、村の道には国勢調査を呼びかける宣伝カーが入ってくるという場面もあるが、うらはらに村の女性はだれ一人学校に行っていないし文字の読み書きができないというのも考えられないことだし、そういう女たちがたった2日間(男の一人が途中帰って来たことで実際には1日)で「赦す」か「たたかう」か「村を出ていく」かの投票をし、話し合って結論を出し、村中に触れ回り、翌朝には出エジプト記を思わせるような馬車をひいた何百人もの隊列になって彼方を目指すということ自体が非現実とも言えるが、そこからはこの物語が一種の寓話として描かれていることがわかる。同時にその女が置かれた立場についての寓意はタリバン支配のイラクの状況を示している?とも思われるような今日性ももっているように思われる。
物語のほとんどは人家から少し離れたところに建つ納屋の中で3家族8人の女たちと書記役の教師である男が話し合う―男は「書記役は話すな」とも言われるが、村を離れる時に15歳の少年を帯同するかどうか関する議論では請われて彼らの教育の可能性を論じたり、レイプにより妊娠している女性オーナを愛し結婚することも誓いながらも村を出ていく彼女たちを見送り語り伝える役を引き受けるなど、かなり重要な役回りにはまり役のベン・ウィショー。女たちは男たちを赦し天国での幸を求めるか、たたかうか(「男たちを村から追い出す」案も含め、これは非現実)、宗教を捨て今後の見通しがなくても村を出て新しい生き方を求めるかを議論する過程がほぼ映画の全容なのだが、それぞれの宗教的な意識や、怖れがぶつかることもあり、レイプによる心の傷は老いた長老的立場の女性たちにも含め見られ、そして村を出ることの「得」と「損」を書きだしていき、議事録を残すというような議論の在り方も含めとエキサイティングで目を離せない。彼女たちの選んだ道はどこにつながっていくのかはわからない、これも寓話的な描き方ではあるが、オーナがはらんだ胎児(最後に生まれた赤ん坊として現れる)の立場で次の世代にはこういうことはないだろうと語られるところに一抹の希望は込めている。暗いし嘘っぽいけど、思想的には十分に理想とも思えるところがなかなかな映画だ。(6月9日 立川キノシネマ188)

★6月10日 いよいよ右目の白内障手術でした!(翌11日まで眼帯装着)

⑫逃げ切れた夢
監督:二ノ宮隆太郎 出演:光石研 吉本美憂 工藤遥 岡本麗 光石禎弘 坂井真紀 松重豊 2022日本 スタンダード96分

今まで近視+白内障で映画を見るのには必ずメガネをかけていた。右目白内障の手術をして、右は1.0の視力を何十年ぶりかで取り戻す(視力検査では見えているというのだが、イマイチ安定はしていない感じ)。左はもともと右ほどには悪くなかったので、右目のカバーもあって両目で遠くを見るのは結構楽になった。さて、ならどうするか?ちょっとこの目で映画を見るとどうなのか、オタメシをしたくなり、短めで字幕もないということでこの映画を見に行ってみた。さて、それでウーン。スタンダード画面は全般にくすんで暗く、え?え?目のせいではないはずだよね???
光石研にあてがきされたという脚本は、光石自身の故郷でもあるという北九州を舞台に、定年まであと1年、認知症を発症したらしく突然とんでもない物忘れをすることが出てきた定時制高校教頭の主人公が、早期退職を決意する中で、老人ホームにいる認知症の父、妻や娘、生徒や同僚、診断をした医師、いつも出勤前に昼食を食べに行く食堂に勤める元教え子(主人公が支払いを忘れたことから、この教え子だけが、家族も気づいていない主人公の認知症?に気づいている)そして子供時代からの友人などと「会話」をしていくという話。しかし会話といっても家族や生徒はほとんど聞きもせず、他の相手ともことばはかわすものの会話がかみ合うとはいいがたく、映画全体いつもスタンダード画面には主人公だけが映り、相手の姿は見えない(相手がしゃべるときもその人の姿のみ画面に出てくる)という撮り方が、話者の孤独(しかし会話自体がやはりちょっとずれた感覚を表す、その点ではなかなか秀逸な構成)を強調する。特に退職まで話が進むわけでもなく、物語後半は若い食堂店員の女性教え子との会話と、最後までなんか主人公必死だが理解されない悲しみと滑稽、みたいな感じで終わってしまい、楽しむ映画ではないのは確か。真面目で職業人としても実直に生きている主人公だが、先月の『波紋』(荻上直子)の「夫」にも通じるような身勝手さ(鈍感?)が意外ににじみ出てくる感じではある。認知症でことばもかわせない父を演じているのは光石研の実の父上だそうで、立派な風貌と存在感!(6月13日 立川キノシネマ 189)

⑬ナイン・マンス
監督:メーサーロシュ・マル―タ 出演:モノリ・リリ ヤン・ノヴィツキ べレク・カティ 1976ハンガリー スタンダード94分 4Kレストア ★★



いかにも70年代という感じの自立を求め強く生きようとする女と、それを阻む旧来意識で女を抑圧する男の一典型を描く。ヒロイン・ユリが職を求めて鋳物工場を訪れるところから。彼女は肉体労働に従事し、その彼女に声をかけ就職2日目にして食事に誘い、熱心に求愛するのが職場主任のヤーノシュ(この二人を演じる役者は④『ふたりの女、ひとつの宿命』でも、こちらは金持ちの夫婦を演じている。さらに㉘『マリとユリ』でも)。ユリはなかなかヤノーシュに応じない。実は彼女には妻子ある大学教授の恋人との間に息子(5歳)がいるが、恋人は妻子を捨てられずユリとも縁を断てないという感じで、息子はユリの実家で母と祖母が育てている。そのことをユリはヤーノシュに言えないのだが、彼の情にほだされる?というか彼女自身のなかにも男性を求める心情があるのであろう、付き合うようになるとむしろ彼女の方が彼を激しく求めるというような場面もある。ユリの秘密を探ってヤーノシュは息子の存在を突き止める。一方ユリの方もヤーノシュの経歴を調べていて、なんかなあという感じ。
ユリは鋳物工場に勤める一方、恋人の勤める大学で農学の勉強をしていて、将来はそちらの方で自立したいと考えている。卒業試験が近づくが、妊娠が発覚、ヤーノシュは今年の試験はあきらめ、自分と結婚して仕事もやめるように促すが、ユリは受験勉強に打ち込み合格する。その発表後、大学で恋人の教授とヤーノシュを引き合わせるが、そのあたり男の互いのエゴがぶつかり合う。女を自分のものとしておきながら自立を促す教授の狡さと、女を自分のものとして従わせようとするヤーノシュの勝手さがあらわになる。時代制約とは思うが妊娠中のユリはスパスパとタバコをふかし(同席のヤーノシュも)、ワインも飲もうとするとヤノーシュは「酒はやめろ」とたしなめる、このあたりにも女の身を思うようでありながら、実は抑圧的な男の態度―若い時を思いだした。妊娠中タバコこそ吸わなかったが、「女がタバコを吸うのはおかしい」というような男たちの感覚に抵抗してタバコをふかしていた日々。妊娠中もビールくらいは沢山ではないが飲んでいた気がする―が(多分世代的な)反感を呼びおこすように描かれている。
それでもヤーノシュと結婚したいユリだったが、彼がユリには子どもがいることを家族に言えず、自身が言うと「ふしだらな女」「大事な息子を引っかけた」みたいな言われ方をされ(さすがのその家族をヤーノシュはことば荒く追い出すのではあるが)、ユリはヤーノシュの別れを告げる。するとヤーノシュは「自分の子どもは堕せ」と叫び、その後はなんと、偶然妊娠中だったという主演女優モノリ・リリ自身が演じるというか、彼女自身の出産シーン。ショッキングなほどに生々しい出産場面がR15 指定の由縁?監督はドキュメンタリー映画出身だというが、まさにドキュメタリー的映像として撮られているようだ。
なお、彼女は教授の恋人が世話をしたらしい農業工場のようなところで職を得るらしいシーンもあり、なんとか自立ははかれそうなのだが、そういう世話をしながら女と距離をとる男のずる賢さ?もまたここで感じられる。というわけで、男社会の抑圧を受けつつ自らの意思でシングルマザーとして生きていく女に寄り添う視線や、その女の強さを描くが、これを支えているのが女の母や祖母などであること、子どもを育てるための社会的仕組みなどは見当たらないことなど含め、やはり70年代の限界を描いているようにも、またそれって本質的には今も変わらないかなとも思わせられるような、ウーン。だがこんな映画がこの時代のハンガリーで作られていたのだ(日本初公開。しかしプログラムを見ると日本人でも知っている人は80年代ごろから知っていたらしい)とい衝撃も含め、忘れられない一作になりそう。はじめて?メガネなしで見た字幕付き映画としても…(6月15日 新宿シネマカリテ メーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命 190)

⑭ドント・クライ・プリティガールズ
監督:メーサーロシュ・マル―タ 出演:ヤロスラヴァ・シャレロヴァ― 1970ハンガリー スタンダード・モノクロ89分 2Kレストア



全編リズミカルなハンガリー・ロックとともにあたかも踊るように飛び回る若い男女グループは、当時の閉塞したハンガリー社会で工場労働者としてうだつの上がらない日々を過ごし音楽やダンスやグループでの遊びにふけっているという設定らしいのだが、風俗(衣装)といい、行動の雰囲気と言い、わが青春(まさにこの時代)の学生運動に遅れてきた大学生という雰囲気である。
友人仲間も認めた恋人シャヴァニューと婚約しているユリがヒロインだが、わりと大勢の若者たちに囲まれていて、その中でシャヴァニューはほかの女性にもちょっかいを出す感じ。そこに現れるのがチェリストでコンサートプロモーターもしているゲーザという青年でビジュアルも長身、白いシャツで他の若者とは一線を画する格好良さ。ユリを含む若者グループをライブの列を無視して特権で会場に入場させるなどというちょっといやらしい場面も含みつつユリとの関係を深め、地方へのライブの彼女を誘う。
シャヴァ―ニュや他の青年たちがこれを阻止しユリを引き戻し、結局ユリとシャヴァ―ニュのゴールインでめでたしめでたし?となるわけだが、これがハッピーエンドとは描かれないところがこの作者の描き方なのだろう。夜半寮にこっそり彼女を引き入れて洗濯をしろと求める男(よくわからないのだが、多分シャヴァ―ニュはユリの兄と同室で、その兄が妹に洗濯を命じた。まさかいくらなんでも恋人との逢瀬に彼に洗濯を求められたらユリでも興ざめ?だろうし…)、同じ工場労働者で同じような意識を持っている仲間が、結局ユリの夢を奪い、その世界のうちでのフツウの暮らしを強いるわけだ。
軽快なロックで彩られたミュージカル形式とも言われる作りだが、内実は決して軽快ではない。ハンガリー語がわかればもっとわかるのかもしれないが、ロックの歌詞も字幕で見る限りでも決して明るく楽しくではないのである。(6月16日 新宿シネマカリテ メーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命191)

⑮アダプション/ある母と娘の記録
監督:メーサーロシュ・マル―タ 出演:べレク・カティ ヴィ―ヴ・ジェンジェヴェール フリード・ベーテル サボ―・ラースロー 1970ハンガリー ビスタ・モノクロ88分 4Kレストア ★



うーん…。工場勤務の43歳(夫とは死別)のカタには妻子ある男の「パートナー(と本人は言っている)」がいて、彼との子どもがほしいと願っているが、男の方はカタが一人で育てると言っても、彼女が婚外子を生むこと自体を拒み続ける。そんな彼女の独居に若い女性が飛び込む。近くの寄宿学校の生徒アンナは恋人と会う場所としてカタの空いている一部屋を使わせてくれというのである。最初は受け入れないカタだったが、アンナが親に向け書いたが投函を学校から許されなかったという手紙を読み、彼女のネグレクトされ6歳から寄宿学校を転々としてきたという過去を知って彼女のために動き出す。映画は二人のだんだん近しくなり心を許し合い、カタはあたかも母のごとくアンナの処遇について寄宿学校の校長に掛け合ったり、アンナと疎遠になっている親に、アンナの恋人を連れて結婚許可を取りに行ったり(アンナは未成年なので親や校長の許可がないと結婚できなかった)という一方、若いアンナがカタを励ますというようなシーンを交えて二人の関係の深まりと、それを機妙なものとして見る男たちの視線などをクローズアップ画面の多用などで印象的に描いていく。その中でこの二人、アンナは恋人との結婚を果たし、披露宴のシーンが出てくるがそこに参加する友人たちが皆、暗い顔をしているのとアンナ自身も部屋の片隅で放心したようにたたずむ姿が長回しで映される。アンナの両親との対談で恋人は父親(義父)の追求に応え、彼女を決して離さず、恋人自身の両親の家に一緒に住まわせ、離婚したとしても彼女との同居は解消しないという約束をする、そういう結婚である。一方カタは恋人との間の子どもをあきらめ、施設から乳児を引き取って養子にする。彼女が赤ん坊を抱き寒々とした田舎道で家に帰ろうとバスに乗ろうとするシーンのフリーズショットで映画は終わる。
彼女はアンナとの擬似母娘関係を経て実子でなく養子を得るという選択をしたのであろうが、その行く末がどうなるのかはわからないーあまり明るい展望があるとは思えないという画面で、二人とも既存の伝統的・封建的な家族主義による抑圧からは一見逃れる選択をするのだが、それが明るい未来に進むとは言えないというところに作者のこの時代の女性の行く末への見方があらわれているのだと思われる。
すっきりしてわかりやすく、べレク・カティの意志的な中年の表情は格好いいし、映画全体の画面の作り方とかはすごく意欲的というか魅力的だが、後味自体はうーん、考えさせられてしまう映画。1970年にこういう映画が作られたことに驚愕すべきか、あるいは1970年だからこういう映画ができたのかとも思われる。(6月16日 新宿シネマカリテ メーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命 192)

6月17日、今回は左目の手術です!

⑯青いカフタンの仕立て屋(Le bleu du caftan)
監督:マリヤム・トゥザニ  出演:ルブナ・アザバル サーレフ・バクリ アイユーブ・ミシウィ 2022フランス・モロッコ・ベルギー・デンマーク 122分

うーん。これこそうーん。夫婦で営む仕立て屋がいる。1枚のカフタンを頼まれるとミシンは使わず手縫いの刺繡を施して仕上げるのに6週間。客のわがままな依頼は気丈な妻―ただし映画の最初から病気を抱えているらしく調子は悪そうで、夫は気遣う―がさばく。そこに雇われるのは8歳から一人で生きてきたというなかなか美丈夫な感じの青年。夫とこの青年の何となく意識する微妙な雰囲気を妻は感じて、ちょっと意地悪をしたり…。
夫は妻を愛してるのだが、ときに男ばかりが集う公衆浴場に行き、行きずりの関係を持つ様子が描かれる。モロッコは同性愛は禁止されているそうだが、こういう場所に普通の男たちが通うというような文化伝統があるのだろうか??―ま、そういう形で夫の性向と、病弱だが気丈、余命がわずかという妻の、夫の文化としてカフタンづくりの伝統を引き継いでくれそうで、かつ夫への愛を持っている青年と夫の関係の受容が行われていく過程を描いたと言っていいのかな…。
映画の最初から終盤まで夫は注文を受けた青いカフタンに金糸で刺繍を施す様子が描かれ、終わり近くにカフタンは完成し妻もそれを喜ぶが夫はなかなか出来上がったカフタンを注文した客に納入しようとはしない、そこらで概ねそのあとの展開は予想できてしまい、そしてその通りに展開していくわけだが―中盤で妻が自宅の二階から知人の葬儀をの行列を見て「寂しい葬儀だ」ともらす場面が伏線になっている。この葬列はそうはいっても列を10人以上の知人・家族などが取り囲んでいるのだが―。
邦題には「仕立て屋」がついて(『仕立て屋の恋』(パトリス・ルコント)とかを意識した?)いるが、原題は「青いカフタン」で映画内の印象も「悩む仕立て屋」というよりは作られたカフタンのブルーと金糸のイメージの鮮烈さ(妻につながるものとして?)が強い。単に妻が夫の禁じられた性向を肯定するというだけでなく、そこに夫が答える(妻への愛とともに伝統を妻とともに葬るというメタファーともとれる?)ところに、『モロッコ彼女たちの朝』の監督の社会的意識が表れているとみるべきなのか?左右1.2の目を獲得して色の鮮やかさが感じられるはずだったのだが、武蔵野館、見やすそうなH列を選んだにもかかわらず、前に座った人が伸びたり縮んだり(多分その前の人に連動している)で字幕が見えない…画面が欠ける…。(6月19日 新宿武蔵野館 193)

⑰プチ・ニコラ
監督:アマンディーヌ・フルドン・ バンジャマン・マスブル 出演(声)アラン・シャバ ローラン・ラフィット 2022フランス 86分

予定はなかったのだが、⑱開始が夜8時半、3時間以上の時間にすっぽりはまる形でこの映画の上映があったので目を心配しつつ、珍しく開始直前に前に人がいない席を選んで購入鑑賞。結論から言えば目の手術をしたことによって効果がぐっと上がったのではないかと思われる美しいアニメーション劇だった。
お話は子供向きでは全然なくて?(映画中のアニメーションの『プチ・ニコラ』は小生意気な都市型の悪ガキというか甘やかされた子どもで何かなあ…「一般庶民」でブルジョア志向?みたいな両親や祖母も含め、また学校教師の威圧的なありようも含め現代の目でみるとあまり共感できるとはいいがたい)むしろ生み出した二人の作家、アルゼンチン移住によりナチスの支配するフランスに帰れず親族と引き離されその親族はアウシュビッツ収容所で亡くなったというルネ・ゴシニ(『プチ・ニコラ』の物語担当)、子どものころ両親に愛されなかったというジャン=ジャック・サンペが二コラのイラスト書きながら得られなかった少年時代を追体験していくというな苦い大人の物語としてはあっさり上品に描かれているのだが、なるほどねという共感・郷愁を呼び起こす。絵がとにかくきれいなのだが、白い画面が案外多くてぎらついたのは私の眼、まだ回復していないということだろう(恐る恐る見ているところもある。)(6月19日 新宿武蔵野館 194)

武蔵野館ロビーに置かれた『二コラ』のタイプライター

⑱焼け石に水
監督:フランソワーズ・オゾン 出演:ベルナール・ジロドゥ マリック・ジディ リュディビーヌ・サニエ アンナ・トムソン 2000フランス ★★

すでに見た⑥の公開記念に3日間だけ夜8時35分開始という、なんかなあというプログラムの特集。こちらも『苦い涙』と同じくライナー・ベルナー・ファスビンダーの未発表の戯曲を映画化した旧作で、名前は知っていたが見てみるとなぜか未見だったよう。4つのパートに別れ1は50歳のレオポルド(みるからに中年男)が20歳になったばかりのフランツ(巻き毛のなかなかの美青年)―恋人アナとのデートに出かける途中だった―を自宅に連れてきて、帰ろうとするフランツを言葉で篭絡、最後は裸のフランツがベッドに横たわりグラスを洗いコートを羽織ったレオポルドが近づく…。パート2は半年後、同じ家で入浴しくつろぐフランツと帰ってきて不機嫌なレオポルド。二人は同棲しているがレオポルドの気持ちはもはやフランツにはない??このパートではフランツがレオをなだめ最後はパート1と逆の形でベッドに横たわるレオとコートを羽織って近づくフランツとなる。このパートには謎の女性ヴェラが訪ねてくる一瞬のシーンあり。パート3はまたまたレオの留守中、フランツの元かののアナが訪ねてきてフランツの戻るように言う、しかし自分はレオを愛しているというフランツ、そしてここでもやり取り後その気になったフランツを誘い裸でベッドに横たわるアナと、人は変わっても状況がそっくりな3パートの終わり。ここでもヴェラが現れて、アナの応対に部屋を間違えた、と消える。パート4はアナにせかされ出ていく支度をするフランツ、そこにふたたびヴェラが訪ねてくる。さらに予定外に早くレオポルドも出張からから帰り、ヴェラが10年間?レオと暮らした元男性の恋人であったこと、多情移り気なレオの正体がヴェラによって暴露される。そこで有名な4人のダンスシーン。なぜか女性たちはレオにひかれて楽し気だが、フランツだけがともに踊りながらもぎこちない。そしてレオは二人の女性を両側に寝室へ。フランツは???最後はまあ衝撃的な最後といってもいいのだろうなあ。アナもレオもその場を去り、開けようとして開かない窓ごしに外を見つめるヴェラ。この舞台の閉鎖的世界といったんは外に出たものの、戻って閉じ込められているかのような表情を印象的に映し出してオワリ!(6月19日 新宿武蔵野館 195)

⑲アシスタント
監督:キティ・グリーン 出演:ジュリア・ガーナー マシュー・マクファーディン 2019アメリか 87分 ★★★

2017年「#MeToo運動」に触発されたドキュメンタリー出身の監督は数百件のリサーチとインタヴューをもとに「実話」ベースの話として映画会社の新人アシスタント・ジェーンの職業生活を物語化したという。現代的ではあるがどちらかといえば暗い狭いオフィスで二人の男性先輩と机を並べというよりその下世話ぽい視線を受けながら、アシスタントとして仕える会長のスケジュール管理とかそれに伴う飛行機の予約やキャンセル、会議資料作りなど地味な仕事に追われるジェーン(この名も「普遍的な」女性の名として設定されたとか)の様子が描かれてリアリティがあるが、そこにかかってくるのは会長の妻?からの会長の行方を問うとか苦情じみた電話とかで、そういう現場にいたことがない私としては、この会長の職場と私生活の密着度ってアメリカでは普通なのかな?とちょっと思う。
ジェーンは会長室で見知らぬイアリングも拾ったり。話は突然雇われてきた新人アシスタントに会長が高級ホテルの一室をとって、ジェーンに彼女を送らせるという出来事から話しが展開し、セクハラを疑ったジェーンが社内の苦情処理室?に意を決して行くが男性の担当者に適当にあしらわれ、嫉妬だろうとか、仕事をやめるかと恫喝を受け、挙句「あなたは彼の好みではないから心配するな」と言われて退散するまで。
400人の希望者から職を得たという就職2か月の若い女性新人に対抗・抵抗ができるはずもなく、その意味ではジェーンはもちろん観客もなんらカタルシスを得ることはなく、どうにもやりきれないという感じで映画は最後、一人仕事を終えて暗い夜の街でファストフードを食べて歩き出す彼女の姿で終わるのだが、観客ともども彼女の気持ちに寄り添い、何とか世の中を変えなくてはと思わせるところにこのドキュメンタリー監督の真骨頂が現れているように思う。コンパクトだが、主張があり見ごたえもある一本で、何しろ主演のジュリア・ガーナーのフツウのでも芯のある若い女性ぶりがいい感じ。(6月20日 新宿シネマカリテ 196)

⑳世界が引き裂かれるとき
監督:マリナ・エル・ゴルパチ 出演:オクサナ・チャルカシナ セルゲイ・シャドリン オレグ・シチェルビナ オレグ・シェフチェフ 2022ウクライナ・トルコ 100分 ★★★

2022年1月ロシアのウクライナ侵攻が始まる直前のサンダンス映画祭’38のワールド部門で監督賞をとったこの作品、映画の中に描かれる「時と場所」は2014年にウドネツク州で実際に起こったマレーシア航空17便撃墜事件を背景とするということで、実際にこの事件の、遺体にモザイクがかかったり遺品探索などが行われている映像が出てくるのだが、この事件と映画の主人公の夫婦の関係がイマイチわからない。マレーシア便は世界的な調査ではにはロシアのミサイル攻撃を受けたとされているが、これに対してはロシアは否定し、戦争下のウクライナ上空への旅客機の航行を許したウクライナ政府の落ち度だと主張している。が、この映画の中ではなぜか新ロシアが幅を利かせ、反ロシア派?の民家を砲撃したり(旗色を鮮明にしない主人公の家の爆破については、新ロシアの手先になっている友人が、誤爆した、あとで修繕すると言い訳する)検閲を強行して住民の交通を制限したりしているのだが、ん?これは住民に飛行機墜落の当事者がいると見込んでいるのかな?あり得ないと思うのだけれど…そこがよくわからない。
ま、いずれにしても新ロシアの砲撃を受けて家に大きな穴が開いてしまった、その自宅で2か月後に出産を控え、家にあくまでとどまって出産のために家を直そうとする妻イルカ、妻を理解・支えようとはしつつも保身のためには新ロシアには逆らえないと新ロシア派よりの友人に車を乗り回され、命令されるままに自家で飼う牛を殺し解体して肉を提供したりするーそして妻にはなじられるー夫トリク、そんな夫婦の閉ざされた生活を描く。
薄暗い平原にポツンポツンと立ち並ぶ民家というロケーションで、朝夕の光など平原は暗くあるが美しい色合いを醸し出したりもするのだが、そこに立ち上る黒煙とか平原を横切る軍のトラックとか、そんな戦争の描写と、この夫婦の暮らしぶりの閉塞感が画面を閉ざしている感じがつらい。そこにキーウにいた妻イルカの弟ヤリクが戻り、早くこの地を逃れようと夫婦を誘うが、イルカは動こうとはしない。トリクが与えられて放置していた新ロシア派の軍服を見て怒るヤリク。ケンカになった義弟をトリクは地下室の監禁してキーウに帰れという。その後夫婦は脱出しようとして車を走らせるという一下りもあるのだが、検問があったりしてうまくいかず?家に戻る。
さてそんなとき新ロシア派の兵士たちが家を襲い、トリクは捕まる。彼が命じられたのは…とここから物語は残酷な悲劇的な展開を迎え、取り残されたイルカはただ一人、家に残された穴の傍のソファーの上で出産する…最後に元気そうな赤ん坊の泣き声で終わるのが救いでもあり、さらなる悲劇の始まりでもある。この映画の時点ではロシア軍はまだ侵攻していなかったわけだが、国内新ロシア分離勢力の横暴と抵抗できない庶民の苦しみがすでにあったことがわかり、この後のウクライナ戦争への歩みをも予感させるような見ごたえのある作品である。(6月20日 渋谷イメージフォーラム 197)

㉑ペトラ・フォン・カントの苦い涙
監督:ライナー・ベルナー・ファスビーダー 出演:マルギット・カルステンセン ハンナ・シグラ イルム・ヘルマン エーファ・マッテス 1972西ドイツ 119分


なるほどね!⑥『苦い涙』(フランソワ・オゾン)の公開特集として3日間(その後好評で延長されたみたいだが)夜8時35分開始にもかかわらず、すごく見にくい武蔵野館の座席にもかかわらず満席!で、こちらはオゾンが心酔したということなんだろうが、オゾン作品よりは豪華・賢覧きらびやか。寝室の壁一面19世紀のオーストリアの城みたいな官能的裸体の男女を描くタペストリー、部屋の中には乳房の大きなトルソー(ヒロインはこちらはデザイナーという設定。自分では情熱を失い助手マレーネに仕事(デッサンなど)を任せきりにしている)、映画のほとんどはベッドルームで、ハンナ・シグラ扮すカリーンは入場・退場場面以外はほぼベッドの中。部屋には豪華な毛足の長いじゅうたんが敷かれ、ペトラの最後の嘆きはそのうえで展開、というわけで、オゾン作品の方がより硬質だし、こちらの方がより耽美的な感じがするのは女性同士の愛が描かれているから?
考えてみればこちらの登場人物はすべて女性で(オゾン作品の方では、男同士の恋でも紹介するシドニーやピーターの母は女性だし。これって役者優先だったかな…)、シドニーとペトラの結婚に関するトークなどは、ほとんどガールズ(というかマダム)トークで、シドニーのセリフを男性がしゃべるというのはちょっと考えられないという気もした。ま、とにかく面白かった。マレーネの行動もなるほどね。カールほど直接的ではないが、もっと恨みに満ちて毒がありつつ、靜かかも…(荷造りをして出ていく)。あちらフランス語、こちらドイツ語というのもちょっとイメージが変わって面白いと言えば面白い。(6月20日 新宿武蔵野館 198)

㉒テノール!人生はハーモニー
監督:クロード・ジディ・Jr. 出演:ミッシェル・ラロック MB14 ギヨーム・デュエム マエバ・エル・アロウシ ロベルト・アラーニャ(本人役)2022フランス 101分

いわゆるフランスのバンリュー(郊外)映画で、郊外に住む貧しい移民がブルジョア階層とふれあい理解され友情を築くといった、まちょっといやらしいと言えばいやらしい感じのジャンルだが、今回主人公の青年アントワーヌはラップバトルの才能ある演者でもあり兄の出資で大学で会計学の勉強をしているが、そこでもそれほど好きではない(授業中はどうも内職場面が多い)がそれなりに力を発揮し、教授が眼をかけているというまあこの移民社会ではそれなりに一歩抜きんでて期待の星みたいな青年。彼がすし屋のデリバリーで届けに行くことになったパリ・オペラ座。そこでちょっといやらしく高飛車な受講生の青年に会い、ついオペラの一節で応酬してしまう。それを聞きつけたオペラ教師(もちろん元歌手)に目をつけられそのオペラ教室に引っ張り込まれ…というまあ展開的には予想もつくのだが、この映画では彼をパーティに招いてモーツアルト風衣装を着せてデュエットをさせる女性も出ては来るが、彼女のパーティは父と再婚した女性の家で開かれたということで、この娘があまり家族には恵まれないこと、最初に主人公をからかって歌わせるきっかけを作った同級生の青年(野心家とされる)がそんなに嫌な奴ではなく、むしろ親切・好意的だったり、先生が何よりけっこうファンキーというかトンでいたりであまり格差見せつけになっていないところ、また話の展開を引っ張るのがアントワーヌの兄や、幼馴染のガールフレンド(兵士?になるこのアフリカ系少女がなかなか格好いい)であるのが面白い。しかし彼らがぞろぞろオペラ座に入りオーデション中のホールにまでは入れてしまうというのはいかにも嘘っぽいけど。先生は病で余命が少ないという設定も絡むのだがこれって必要か??とも思われた。ま、そういう難点はありつつも、MB自ら歌ったというオペラの曲目を楽しみ、オペラ座の内装に目を楽しませ、その意味では大いに楽しめた一作。(6月21日 立川キノシネマ 199)

㉓日陽はしづかに発酵し(DNI ZATMENIYA 日蝕の日々)
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 原作:ストルガツキ―兄弟 出演:アレクセイ・アナ二シフ エスカンデル・ウマーロフ 1988ソ連 35m 138分 ★★

中央アジアトルクメニスタンに派遣されたロシア人医師(金髪長身であきらかにトルクメニスタンの多くの人々とは異質の風貌、書き物に励むシーンは多いが、なぜか医師としての診療などの場面はほとんど?=見落としたかも=出てこない)の周りで起きる様々な、異様?、不思議、不条理と言えるような出来事を、冒頭から生き場もない雰囲気で座り込みたたずむ老若男女、金茶色のモノクローでも時に色が入るような部分もあり、またモノクロトーンが変わるところもあって不安が書き立てられるような砂漠のような村の景色を背景に描いていく。前半、唯一かかわりができるようなサーシャ?(ドイツから来た人物でドイツに帰ることを望む=ただしヒトラーのドイツ?、そして帰っていく別れで映画が終わる)が届ける荷物、呼びもしないのに姉がやってくるとか、11階の住人の自死の場面(現場検証の延々たる長回し…ここは主人公は全く無関係の傍観者。その後解剖される前のモーグルでこの死者が口を開き主人公に語りかける場面がでてくる)あたりまではなんか、物語の構造がよくわからず延々と続く固定カメラの長回しと会話にいささか疲れたが、主人公の身の上に起こることの不条理というか、彼にとってここが異郷であり、あるべきではない世界であることが見えてくると引きずり込まれて行った感じ。解説によれば崩壊に向かうソ連を描いている?のだとか。ウーン言われて見れば。とにかくこの主人公のこの場での居心地の悪さとか、どう動いたらいいのかわからない心の不安というのが映像からビンビンと伝わってきて、自分も居心地が悪くなってしまうのが面白い映画体験で、なるほどのソクーロフ!(目が治ったので見られたが、白内障だとついて行けそうもない画面色合い)過去に原題訳?の『日蝕の日々』の邦題で上映されたらしいが、なんかその題の方がぴったりという気も。(6月21日 川崎市アートセンター・アルテリオ映像館 ソクーロフ小特集 200)

㉔孤独な声
監督:アレクサンドル・ソクーロフ 出演:アンドレイ・クラトフ タチアナ・ゴリャチョア 1978ソ連 86分

ソクーロフの国立映画大学卒業制作作品だそう―すごい完成度!さすがとしかいいようがない―が反体制作家とされていたプラトーノフの『ポトゥダニー河』と『職人の誕生』を原作としたため公開が認められず、ペレストロイカ後にようやく日の目を見たという。最初はモノクロの古い映画のような荒れた?画面で大きな輪を回して(ロバがひく石臼みたいな)労働に従事する男女の映像がドキュメンタリー的に入る。このあともところどころ軍学校?の青年たちの集合写真、若い女性たち10人くらいの記念写真風、あるいは働く人々の姿などがドキュメンタリー風に織り込まれるのは主人公ニキータの心象をや歴史を表しているのかな。その最初の映像後、広い枯野?を遠くから近づいてくるニキータ。彼は赤軍兵士で除隊して家に戻ってくる。迎える父、そして幼馴染のリューバとも再会ーリューバの積極性と頻繁な瞬きは何を表しているのだろうーそして二人は結婚するがなんとも鬱屈した感じのニキータ(リューバとセックスができないということらしいのだが、わりと抽象的なというか直接的な描き方ではないのでボーとしているとイマイチわからない)は後半家を出て放浪の旅?に川に浮かぶ小舟から「死は他県に移動するようなものだ、その他県は水底にあるのだが…」ということばとともに身投げする、で、終わりかとおもいきや、屠殺業者?の庭先?流れ着き、再びリューバのもとに戻っていくという、まあもちろん物語展開よりもニキータの心象とかそれを反映するかのような画面―ルコフスキーを彷彿とさせるというのだが、確かに水っぽさとか色合いとかそんな感じ。映画は発禁になったときタルコフスキーが擁護し(でもダメ)、最後にこの映画をタルコフスキーにささげるという献辞もついている―その画面構成とかモノクロときれいな色合い(暗いんだけど)とかを、特に後半は楽しむべきかな。5月に見た『独裁者たちのとき』公開関連のプログラムとして上映され、㉓はちょうど日にちもあってみたところ案外面白かったので、この映画、わざわざ雨の中、夕刻からの新百合丘まで見に行ったのだが、観客は15人くらい?でも好きな人はいるんだなあという映画。(6月22日 川崎市アートセンター・アルテリオ映像館201)

㉕チョコレートな人々
監督:鈴木祐司 出演:夏目浩次  2022日本(東海テレビ)102分 ★★

障害のある人、子どもや病人を抱えて介護をする人(やはり女性が多い)、トランスジェンダー、さまざまな人が、少なくとも定められた最低賃金以上の給料を得て働けるということで、20年ほど前のパン屋、そして2013年からのチョコレート専門店、最近は焼き菓子店もオープンして愛知県豊橋市から現在は全国展開52店舗+工場に広まった久遠チョコレート。代表の夏目浩次氏といくつかの店や工場で働く障がいのある人に焦点をあて、パン屋時代からの映像も交えたドキュメンタリー映像。さすがの東海テレビ14作目で危なげもないし、わかりやすいし、長年の蓄積なのか若い頃の夏目氏やパン屋時代の従業員の姿なども含めて歴史もわかるようなというか、このだれでも働ける職場をポリシーとして事業を拡げ従業員を増やし(給料を保障し)、時には大口注文を上手くこなせず事業を広げ過ぎたのか、しかしそうでなければ雇用はできないと悩む夏目氏の姿まで、納得と感動とそして励ましの意識ももたせるような、なかなかすごい映画。それにしても全国の店を飛び回り営業をし、実際に店で従業員を指導しながらチョコづくりをしたり、人手が足りなければシール張りもするというなんかすごいエネルギッシュなオーナー夏目氏の姿に感動とともにどのくらいの時間かはわからないが、従業員の家庭生活まで含め被写体にしっかり張り付いて非常に細やかな場面までとらえたこの撮影クルーのエネルギーにもただただ感動。映画館で販売していた久遠チョコレート、ついつい購入してしまったが23度で保温する必要があるとカード支払いしてから言われておいおい😞ガックリ。(6月23日 下高井戸シネマ202)

㉖スーツ
監督:パフティヤル・フドイナザーロフ 出演:アレクサンドル・ヤツェンコ アルトゥル・ボヴォロツキー イワン・ココーリン 2003ロシア・ウクライナ・ドイツ・フランス 92分 ★★


ユーロスペースのフドイナザーロフ特集に後から追加された1本。クリミア半島、黒海に臨む港町を舞台として、「海」の気配が色濃く、主人公の青年3人組は居住区域から繁華街への行き来をフェリーに乗るという設定で小舟も含め何種かの舟が重要なアイテムになっている。海・船のモチーフはさらに進化して次の次、最後の作品『海を待ちながら』につながっていくのだろう。
物語は3人の青年―サイドカー付きバイクに3人で乗り、やたらにエネルギッシュで村の青年たちと喧嘩をしたり飛び回ったり、そんな彼らが街の繁華街のショーウインド―に見つけたグッチの黒ピンストライブのスーツ。これにあこがれかなり強引なやり方で他の人が買おうとしてたのをこの3人で手に入れ、順番を決めて交代で着ることにする。後半はそのスーツを着て3人がそれぞれに思惑の行動をとるのが順番に描かれる。
一人目のシティルは露店を開きながらハープ奏者をしているがどちらもうまくいかない母を思い、彼らを捨てた父を憎んでいる。父が仕立て屋として羽振りがいいことを知った彼はスーツを着込みナイフ片手に父のところに乗り込む。もう一人のゲガも母の死後別に女性と愛し合っている父が許せず、その女性が働くホテルにスーツで乗り込むが…。そして3人目ダンボ(この青年は二人に比べておっとりしているというか二人にケンカをけしかけられしり込みするが結局戦わされ、もちろん勝てずに二人に救われるというような場面もあって、3人の中では?と思われたが、意外な存在感で3人は悪事(というほどのことはしないが)も楽しみもいつも3人でつるんでやっている)この青年は祖母と二人暮らしだが家庭的には恨むような相手はいない。魚屋の美しい女性に恋をして彼女への求愛にスーツを着込んで出かけ、恋敵というか彼女に横恋慕している男に割り込まれたりするが、その結果むしろ恋は成就(ユダヤ人の彼女のために割礼をしてから行くというのがおかしくも、ちょっと切ない)しかし…。それぞれの結末は一応きちんとつけられて、シティルとゲガはちょっと大人になって最後に船で旅立つ。スーツはヤギを引いて歩いている町の半端モノのような男に与えられ、そしてダンボは…???ま、こう終わるしかなかったんだろうけど悲しいなあという結末。行動がドタバタで「三馬鹿のような」とも言われたこの3人への親近感がいつの間にかわいているという意味では『少年、機関車に乗る』が思い出される。(6月23日 渋谷ユーロスペース 「再発見!フドイナザーロフ ゆかいで切ない夢の旅」203)

㉗遺灰は語る(Leonlla addio)
監督:パオロ・タビアーニ 出演:ファブリッツィオ・フェラカーネ マッテオ・ピッティルーティ ロベルト・ヘルリッカ 2022イタリア モノクロ・カラー 90分 ★★

タビアーニ(弟)が兄を失い初めて単独で作った作品だそう。最初に「兄・ビットリオに捧ぐ」という献辞がある。しかし91歳タビアーニの若々しいとは言えないけれど、決して老大家っぽくなってはいない、瑞々しささえ漂う、静謐だがドラマティックでもある映像にしびれてしまう。物語はルイジ・ピランディロの死の部屋(とにかくこの部屋の「静物」の様式化された端正さ)に3人の子どもたちが現れるところからー子どもで現れ、青年になり、やがて白髪が目立つと形容される年頃になるところが、映画最後の「釘」というピランディロ作品の、最初少年として登場した主人公が青年、壮年、老人と姿を変えていくところと呼応して全体が「人生の時の流れ」を示しているようなのはやはり90歳ならではなのかなと思える。
映画はドキュメンタリー映像?ともみられるピランディロの1934年ノーベル賞授賞式から、そののち36年の死、そして彼の遺言に反して彼の遺灰がムッソリーニによってローマに留め置かれ、ようやく10年後戦後になって、故郷シチリアからの特使によって迎えられ運ばれるロードムービーに。ここは「死体」と一緒に乗るのは嫌だと飛行機(米軍の?)に乗る人々が皆下りてしまい飛行機自体が運航をやめてしまうところから始まり、汽車に乗って運ばれる途中遺灰の木箱が紛失、大慌てで探すと、同乗の客のトランプの台に使われていたりとか、そして戻るとギリシャのツボに入ったままではローマ・カソリックは葬儀ができないという話になり、棺に入れることになるが去年おととしのインフルエンザの流行で子どもの棺しか残っていない…葬送の列を2階のバルコニーから見送る人々の失笑(そんなにおかしいかなとも思うが、文化的な差ってあるのでしょうね)、そして遺灰は期せずしてピランディロの二つの遺言通り(シチリアの岩山に封じる/海に撒く)に葬られるまで…この海の場面から深い青い海のカラーになり、続けてピランディロの『釘』へ。シチリアの海から、母と引き離され移住する少年パスティアネッドの「定め」(これは言語では「目的」?となっているみたい。要は期せずして偶然に与えられる方向性ということか?)による殺人とその後の20分ほどの短編で終わる。なぜそうなるのかわからない小学生くらいの赤毛と黒髪の少女の金切り声をあげての取っ組み合いのけんかが映画のもたらす不穏な雰囲気もうーん、なんか心に残って、不思議な生と、死に至る運命的な世界の雰囲気に満ちた作品だ。ロードムービー部分は予告編ではここを中心に描いた映画?に見えたが、それよりはずっとシンプルで短い感じ。(6月27日 新宿武蔵野館 204)

㉘マリとユリ
監督:メーサーロシュ・マル―タ 出演:マリナ・ヴラディ モノリ・リリ ヤン・ノヴィツキ ヴラジミール・ヴィンツキ― ツィンコーツィ・ジュジャ 1977ハンガリー 98分



出演者中姓が先、名が後の人(モノリ・リリら)はハンガリー人、名が先のマリナ・ヴラディらはフランス人、ロシア人など外国人というわけで、すでにこの時代から多国籍乗り入れで、内容的にはまあ普遍かもしれないが舞台はローカルな映画を撮っていたんだ…。
とにかく70年代ということを考えに入れなくてはならないとは思うが、二人の女性マリとリリの夫からの抑圧を受けながらの共依存性にくたびれる映画だった。今まで見たメーサロシュ・マル―タ作品と同様に工場が舞台だが工場で働くシーンはほとんど出てこず、この映画の場合は工場の独身寮で、そこで住み込みで責任者を務めるマリと、夫の飲酒癖・DVに娘を連れて寮に逃げ込むユリが、それぞれに夫との確執に悩みつつ離れることもできず、マリがリリの面倒を見るというような形でーリリは結構傍若無人な女だがマリに新しい生き方の目を開くと言ったらよいだろうかーで女性同士の連帯というか共感を描いているわけだが、どうもその共感の先がどうなっていくのかという点であまり希望は抱けないような仕組みになっているのは⑮『アダプション』と同じ。ただし、あちらは曲がりなりにもヒロイン二人は新しい道に歩み出そうとするわけだが、こちらは二組とも夫婦関係としては共依存を抜け出せないと思われるので、ウーン、この先この女性たちはこの女性同士の共感関係を人生の中でどのように生かしていけるのだろうかと思えてしまい、辛く重苦しい感じが抜けない。マリに関しては偶然言い寄る男が現れるのだが、それこそここから開けていくとすれば不倫の泥沼なんじゃない?と思えてしまうのだ。メーサーロシュ・マル―タ特集今回上映作品最後の1本、最終日にようやく見る。(6月27日 新宿シネマカリテメーサーロシュ・、マル―タ監督特集女性たちのささやかな革命 205)

㉙クリーン
監督:オリヴィエ・アサイヤス 出演:マギー・チャン ニック・ノルティ ベアトリス・ダル 2004フランス・イギリス・カナダ 111分

舞台はバンクーバー、ロンドン、パリ、そしてサンフランシスコと飛び、ヒロインを演じるマギー・チャンの役は特に中華系である必然はまったくないと、いうか、移民してきたというような経過は全く描かれない。アルバイトとして中華料理店で働くシーンはあって、そこでは簡単な広東語の会話が出てくるが、全体としてはフランス語と英語という「現代的」な映画で、夫に死なれ自らも職もなく(夫の残した貯金2~3週間は暮らせるという感じは持っているとわざわざ言う場面がある)どうやって移動の費用を出しているのかいささか心配になってしまうが、これが香港映画からフランスやアメリカに活動の場を移したマギー・チャンら中華圏映画人たちの「実態」でもあるんだろうな、と約20年前の映画にナットクした。ロック歌手の夫が薬物中毒で死に、本人も居合わせ、薬物を入手したとして収監されてしまった歌手志望(というか売れていない歌手)のエミリー・ワン。一人息子はバンクーバーの夫の両親が育てているが、引き取ることもできない(夫の母は彼女を恨んでいるが、病を得て余病僅か、夫の父が最終的に彼女が息子を引き取れるようにと理解を示す。演じるニック・ノルティが「いい人」らしい)というところから、心は揺れつつも薬を断ち、仕事(アルバイト)をしながら、友人の援助もあってオーデションにこぎつけるまで―間で子どもと会うが、なんか打ち解けない息子―で話の展開に目新しさはないが、『欲望の翼』とも『花様年華』とも全く違う女性になってパンクな髪形革ジャンにデニムというスタイルで揺れる心と悩みと矜持の狭間にあるマギーの姿はさすが、この映画でカンヌ映画祭の主演女優賞をとったのもうなずける。当時マギーはアサイヤス夫人だったんだね。その夫の愛情も彼女の姿に反映している気がする。
文化村渋谷宮下のこけら落とし特集。(6月28日 文化村ル・シネマ渋谷宮下 マギー・チャンレトロスペクティブ 206)

       ↓下のビックカメラの喧噪が嘘みたいなルシネマのロビー


㉚阮玲玉
監督:スタンリー・クァン 出演:マギー・チャン レオン・カーフェイ チン・ハン ローレンス・ウォン カリーナ・ラウ イップ・トン レイ・チーホン 1991香港 モノクロ・カラー154分


日本公開は93年で、劇場で見たような気も、いや香港製のDVDか?例えば蔡楚生に扮する梁家輝の「中国人がしゃがむ」ことへの考察部分などよく覚えている部分もあるのだが、全体的な構成ーマギー・チャン扮する阮玲玉の二人の男性と幾人かの映画監督中でも楚蔡生とのドラマ部分、阮玲玉が演じる1930年代当時の映像部分、同じ部分を撮影するドラマ部分、そして阮の過去の映画や当時の彼女を知る人々黎莉莉らのインタビュー映像を見ながら監督スタンリー・クァンと若い出演者たちが阮玲玉の生き方についてディスカッションする部分と何重もの構造を持った映画であることさえも実は頭からはすっぽ抜けていて、今回はその意欲作ぶりも含め大いに楽しめた。香港作品だが大陸が舞台で上海クルーなどもクレジットされ、ことばも広東語・普通話(というより北京語か)・上海語それに英語も含めかなりリアルに作っているのかなと思われる。広東語母語話者だったらしい阮玲玉は北京語を後輩女優の黎莉莉に習っており、彼女を演じているのが若い(マギーももちろん若いが)カリーナ・ラウで、スタンリー・クァンとのディスカッション場面ではカリーナが老いた黎莉莉のインタビュー映像を見ながら、「彼女は阮玲玉などに比べればそんなに大した女優ではなかった」と言ったりマギーが「あなただったら?」と聞かれ「わたしは死を選ばない」と言い切るところなど、その後の30年余りの彼女たちの歩みを見るとなんか思わず微笑んでしまう感じもある。この4年前スタンリー・クァンは『胭脂扣』を作っているが、今回のマギー扮する阮玲玉は、かの映画のアニタ・ムイ扮した芸妓のやや若い(品のいい)有名人版という感じだし、この後の『花様年華』のあの忘れがたいマギーの美しさへの萌芽もしっかりとあって脈々とつながる映画の流れも感じさせられるような「映画作りを描いた映画」という要素もたっぷり。全体に紗がかかったような映像なのは、今までだったら私の眼のせい?と思えてしまうところだが、どうなんでしょう。そんなことはないと思えるのだが。マギー・チャンはこの映画でベルリン国際映画祭女優賞をとっている。(6月30日 文化村ル・シネマ渋谷宮下 マギー・チャンレトロスペクティブ 207)

㉛キンキーブーツ(松竹ブロードウェイシネマ)
監督:ブレッド・サリヴァン 脚本:ハーヴェイ・ファイアスタイン 音楽・作詞:シンディ・ローバー 出演:マット・ヘンリー キリアン・ドネリー ナタリー・マックイーン 2018 122分


『キンキーブーツ』は2006年日本で公開された映画版(ジュリアン・シャロルド)もあるのだが、今回は2018年ロンドン・ウエストエンド公演舞台を撮影したもの。文化村ルシネマ渋谷宮下のこけら落とし上映として行われているのをマギー・チャン特集を見に行って見つけ、ちょうど時間が合う1本を見ることに。入場料は特別料金3000円。そのせい?かけっこう大きな会場(200人くらい?)に10人くらいの観客パラパラという感じ。日本でもミュージカル舞台として上演されたりしていてよく知られている内容だからということもあるかもしれない。まあ、いかにもらしく楽しめた。実は実際の舞台よりもこういうほうがハラハラしないし、汗が飛び散る暑苦しさもなくて私は気楽に楽しめる気がする。不遜なのか、年のせいなのか。
物語的に言うと白人の工場主の息子と黒人のドラーグクイーンということで人種問題・LGBTG(つまりジェンダー)問題を織り込んだ話(日本でも三浦春馬・城田優がこの話のローラ(ドラーグクイーン)を演じているが、こちらは特に黒人であるという作りはしていない。それって正しいと思う。つまりこの話においては芸達者なドラーグクイーン役が偶然黒人であったということで、特に内容的に人種問題を扱っているわけではないと思われる。ただし舞台映えという点では白黒のコントラストは特に最初の子役の場面ではビジュアル的に生きているとは感じた。さらにこの話、主人公のチャーリーもサイモン(ローラ)も父の望む「男らしい」息子像どおりには生きられない生きたくないという葛藤を抱えて悩むわけで、ウーン、これってヨーロッパ的父系社会での息子の悩みなのかな…、少なくとも現代日本ではこういう悩みを男性が抱えているというのはあまり実感できないと思える。と舞台映像をつらつら見ながらボーっと考えた120分あまりだった。(6月30日 文化村ル・シネマ渋谷宮下 ミュージカルが好きだから 208)


白内障の手術をしました!

『日記』のあちこちにも書いてきたように、6月10日、17日にそれぞれ右、左の白内障の手術を受けました。
もともと近視・乱視はあって映画・芝居を見る、運転する、テニスやスキーをするなどのときはメガネなしでは動けなかったのですが、左右に差があって、いい方はまあまあなので日常生活ではメガネをかけることは少ないという暮らし、幸いにも「老眼」というのにはならなくて、手元や細かい字などもまあそこそこには見えた(ちょっと針に糸が通しにくいとか、細かい地図を見ながらのナビゲーションとかは勘弁ということはあった)のですが、数年前、健康診断で「白内障になっていますね」といわれ、最初は自覚症状はほとんどなかったのですが、定期検診だけは続けてきました。

ところが、1年くらい前からどんどん進んできて、ただ視力そのものはそんなに落ちなかったので医者にも「手術はまだまだ」と言われて点眼薬などを使ったりしていました。とうとう昨年暮れくらいからは、特に右目の前に薄黒い紗が下りたような感じで色も濁るし不快この上なく、メガネをかければモノの輪郭などは普通に見えますが、映画の見にくさなどたまらない感じで、こちらからお願いして、ついに両目とも手術ということになりました。

手術は今では日帰りで行われるのが普通のようですが、前後の通院、手術後1週間は洗顔・入浴ダメ、3回くらいの通院、2週間までは目をこする、衝撃を与える、激しい運動は避ける(登山も水泳もです)週1度の通院、その後もしばらく回数は減るものの通院は続き、1ヶ月は朝昼晩3種類、その後2か月(通算3ヶ月)は朝晩の点眼も必要とか。つまりそこまでは通院検診は続くということらしい。6月は両目で何やかやで「目」で明け暮れた感じです。
おかげさまで、両目とも無事に手術が終わり、遠中近の多焦点レンズを装着しました。

遠いところについては視力が1.2まで回復しましたので、何十年も映画・観劇や運転や、スポーツには必要だった近視・乱視のメガネが不要になり、なんか不思議な感じです。
近くについては0.8くらいで、遠くを見るほどの視力は得られませんでした(これは入れた眼内レンズの特性で、あらかじめ知らされていました)が、手術前とほぼ同じ視力なのでPCも本を読むのもまあ普通にできて困りません。
スポーツとか山とかはまだ試していないのでわかりませんが(6月末現在)、まあ、大丈夫かなと楽しみにしているところです。

ただ、やはり手術の影響はあって、まだ何となく時間や明るさ、場所によって目の上に幕が張ったような感じがしたり、ちょっと霞んだりすることがあります。ドクターにそう言ったら「視力はちゃんと出ている。それはあなたの錯覚だ。あなたは手術に期待しすぎだ、私を困らせるな!」と怒られました。ずいぶんな言われ方だとアタマにきたのだけれど、錯覚ということはないだろうと、さらに説明を求めると「目が悪いのは水晶体だけが問題なのではない、他の部分の不調も見え方に影響する。老化によって数年後にそのような不調が起こり(今回獲得した)視力が落ちることもある」とのこと。まあ確かにそういわれれば…。でもそれなら、そうと怒らずに説明してくれよ〜

また光の方を向いて顔を傾けたりすると、おもに左目ですが視界の左端に数本の光の筋が出ることがあって、これは入れた眼内レンズの端に光が乱反射することによるらしい…そのあたりや先に書いた「幕」や「霞み」はネットでいろいろ検索して情報を得ました。
3ヶ月は点眼薬を使いながら経過観察をしていくことになりますが、まあ、よく言われるところの「世界が変わったほどの明るさ」というほどではありませんが、おいおいぼちぼちと「新しい水晶体」と付き合っていくしかなさそうです。
以上手術報告、『日記』と合わせご笑覧ください!

ながながお付き合いありがとうございました。
7月2日岩木山(バスとリフトで9合目まで😀)3日八甲田山に行きました!
このあとは、四阿山、雨飾山、そして北岳の予定です。
7月はたっぷり【山ある記】報告ができそうです。お楽しみに!!





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