【勝手気ままに映画日記】2021年3月
春霞・・・もやもや富士山(@高尾山から 3月11日) |
神奈川・厚木近くの里の春(3月30日) |
①レンブラントは誰の手に②ある殺人、落葉のころに③春江水暖④少女ムシェット⑤ステージ・マザー⑥あのこは貴族⑦夏時間➇ターコイズの空の下で⑨私は確信する⑩ラモとガべ⑪タルロ(塔洛)⑫空に聞く⑬亮亮と噴子⑭息の跡⑮波のした、土のうえ⑯小死亡⑰夏の夜⑱ラブリー・マン⑲WHOLE⑳ビバリウム㉑ミナリ㉒陽に灼けた道(太陽総在左辺)㉓生きろー島田叡 戦中最後の沖縄県知事
①レンブラントは誰の手に
監督:ウケ・ホーヘンダイク 出演:ヤン・シックス エリック・ド・ロスチャイルド男爵 ターコ。デイビッツ(アムステルダム国立美術館)エルンスト・ファン・デ・ウェデリング教授 バックル―公爵 2019オランダ(オランダ語・英語・仏語)101分
レンブラントの3つ(4枚)の作品の「持ち主」をめぐるドキュメンタリー。1枚目は読書をする老人?の小品で持ち主のバックル―公爵は高額で入手したいという美術館の要請などには目もくれず、屋敷の暖炉の上にこの作品を掛けてひたすらに愛でる。もう一つは肖像画にも描かれたヤン・シックスの11代目の子孫で代々画商を営む家系?のヤン・シックスが競売で求めた絵を鑑定し実はレンブラント作品だと発表してからの真贋問題の中でのごちゃごちゃ。そして最後は2枚組の等身大の夫婦の絵が売りに出され1億6千万€とかの値がついたこの絵をアムステルダム国立美術館とルーブル美術館が争奪戦、結局政治的解決で共同購入することになり絵がオランダとフランスを行ったり来たりするという、この3つの絵画所蔵のしかたみたいなものが並列的に描かれる。
なかなかに興味深い世界だけれど、うーん。アートの価値に命を懸けるみたいな世界は、金もなく命に限りもある(永遠の所蔵なんてできないし)人間にはとっても踏み込めない世界だなあなどと、まあこういう映画で拡大されたレンブラントの画面を見ることにせめて喜びを見出したいと思う。それにしてもかつて、ウフッツイ美術館からポンテ・ベッキオを渡って川をはさんだビッティ宮の美術館(レンブラントではなく、ラファェロやカラヴァッジョなどだったが)の大量な画群をほぼ一人埋もれるように見た至福の時を思い出す。私にとっては絵はあれでいいなあとー (3月1日 渋谷文化村ルシネマ56)
②ある殺人、落葉のころに
監督:三澤拓也 出演:守屋光治 中崎敏 森優作 永嶋柊吾 2019日本・香港・韓国(日本語)
昨年の大阪アジアンのJAPAN CUT Award受賞作。香港のオムニバス映画『十年』の黄飛鵬(「冬のセミ」監督)のプロデュースで製作も3か国にまたがっているインディペンデント作品というのにひかされて見たのだが…ウーン。
中学時代の同級生でバスケット部員(として他の一人をいじめていた)だった4人が、今もその一人和也の父の土建屋に勤めながら自堕落な感じで暮らしている。その中でバスケ顧問だった和也の伯父が突然死、しかも知らぬ間に結婚していた、とかその妻と4人のうちの一人が関係を持ち、その男に対してもう一人が恋心を自覚?和也は先輩?に強要されて産廃の不法投棄…和也の家では認知症の祖母と、母の争いが絶えず祖母はやがて家を出て迷って帰らない。仲間の一人はガールフレンドを和也に乱暴されそうになりとか、なんか不安で不穏なしかし大事件というほどではない世の中にはよくありそうな出来事が続きという感じで見ていて全然楽しくない。若者たちもイケメンとも言えず演技もイマイチだし、ただアングルとかカメラの流し方とかは妙に凝っていてそこだけ見るとすごいアート作品で楽しめるのだが、映画に描かれた若者たちの世界に置くとちょっと奇をてらっている感じもするし―ウーン。こういう映画を見ると近頃本当に自分の老いを自覚させられる。映画の若者たちに共感できるような立場・年齢の人々にとっては素晴らしい作品であるのだろうと思いつつ。(3月1日 渋谷ユーロスペース 57)
③春江水暖
監督:顧暁剛 出演:銭有法 王風娟 孫章建 章仁良 2019中国 154分
2019東京フィルメックス審査員特別賞受賞作
初見は2019東京フィルメックス。今回見て思ったのは、景色の美しさはまあ、初見とかわらないけれど、描かれる一家との距離感が遠いというかどの世代に対しても客観的な位置から俯瞰してるように感じられること。言わば神の目?絵巻物を描く画家的視点かな。それは意図的なもので、例えば今読んでいる最中(文庫化されたばかりなので)の橋本治『草薙の剣』を思わせるような視点で、それが今回は成功していると思うが三部作の一部としてはいいとしても、ほんとうにこれで二部、三部と続けていけるのかな、あるいは二部以後では方式を変えるのかなと、そんなことが気になった。前回も感じた「ドキュメンタリー的」というのはつまりそういうことだろう。(前回感想については以下URL参照)二部以後は同じ人物に違った一家を演じさせるなんていうのが面白いかもしれない。http://miekobayashi01.blogspot.com/2019/12/20.html
(3月3日 渋谷文化村ルシネマ 58)
④少女ムシェット
監督:ロベール・ブレッソン 出演:ナディーヌ・ノルディエ ジャン=クロード・ギルベール 1967仏 80分
母は重病、父は飲んだくれのDV男、乳児の世話をしながら学校に通うがそこでもいじめられ浮き上がりという14歳が、ある日学校帰りに森に迷い込み嵐に会って助けられた中年男にレイプされる。朝になって戻ると母は死に、周囲の大人たちは母の死に同情しつつも彼女自身には「ふしだら」的な冷たい目を向け、彼女はますます居場所を失う…というまさに悲劇を背負った少女なのだが、このムシェットの面構え、前作『バルタザールどこへいく』の少女の抑えたような忍耐とも、またアジア映画の悲劇的な少女の雰囲気とも違って、なんか常に一言二言言いそうだし実際友だちになどは隠れて石や泥を投げたりして「仕返し」的なこともするし、赤ん坊の世話をする手つきなどにもかわいげもなく世話を焼く風の温かさもなくモノのように扱っているし…そこがとっても面白い。かわいそうな少女としての同情はあまり感じられないが彼女の心の中のもやもやには大いに共感はできるという感じかな。その面魂が最後の悲劇的な場面で単なる悲劇というより、行為による反抗というか復讐のふうも感じさせてなるほど感がある。(3月3日 下高井戸シネマ 59)
⑤ステージ・マザー
監督:トム・フィッジェラルド 出演:ジャッキー・ウィーバー ルーシー・リュー エイドリアン・グレニアー マイア・ティーラー タンジェリン 2020カナダ 93分
カナダ映画だがなぜかおもな舞台はサンフランシスコ。テキサスの教会の聖歌隊の指導者メイベリンという女性が、息子の死の知らせを受けサンフランシスコに(父親である夫は最初から葬儀不参加、妻にも参加するなという姿勢で、要は超不仲)。行ってみると葬儀は息子の「仲間」のドラーグ・クイーンのミニコンサートの体で、実は息子はゲイバーを経営し、息子の死によって店を奪われると思う共同経営者の友人は彼女を敵視、しかも息子がドラーグ・クイーンであったこと自体が彼女には初耳、その店は経営が傾いている…というわけで彼女が聖歌隊での手腕を生かし店を立て直す…とまあこういう展開になるわけだが…。
主演のジャッキー・ウィーバーは金髪の少女がそのまま老婆化したような雰囲気で話声も甲高い嗄れ声、なんじゃこれはという雰囲気であり、そのままゲイバーの世界に溶け込んでしまう感じは、彼女が自身の葛藤の中でこのゲイバー立て直しをするとは見えないのでなんか乗れない映画だなあと思いつつ、迫力満点芸達者なクイーンたちの演技に見とれるというところもあったのだが、夫の介入で、一度テキサスに戻ったあと、別れて再度サンフランシスコに戻ってからの彼女自身の舞台での歌唱、そのあとサンフランシスコのホテルのコンシェルジェ長との恋?への展開辺りは,役にぴったりという感じで見ごたえがあってよかった。(3月4日 キノシネマ立川 60)
⑥あのこは貴族
監督:岨手由貴子 出演:門脇麦 水原希子 高良健吾 石橋静河 山下リオ 高橋ひとみ 銀粉蝶 2021日本124分
あちらに行ってもこちらに行っても予告編を見せられて、興味がわいたというところ。松濤に住むお嬢様榛原華子(医者の家庭の娘)と富山から慶應大に合格するも家庭の経済状況で中退、それでも自力で何とか仕事を見つけて自活する美紀が、華子にとっては見合い相手(榛原家よりさらに上流?の政治家一家の後継ぎ)、美紀にとっては大学時代の同級生(ただしこちらは幼稚舎から上がってきた「内部」組)で今は会社の顧問弁護士という縁もある青木という男、それに華子の親友のバイオリニスト逸子の仲介もあって触れ合うというかすれ違うというか、互いに本当にあっさりした付き合いでしかないところが、現代の東京の物語だなあとは思われるが、その中で華子がそれまでの受身一方の人生から自分の足で踏みだすという話。
見ている間は華子側の家族(実家も婚家も)の上流?意識丸出しのステレオタイプにして俗っぽい会話に辟易し、流されるままの華子にはちょっとイライラもし、かといって美紀も実は東京に搾取され、ある意味流されているわけだしというわけで、また間にいる青木の描き方も生ぬるい感じでその長さ2時間たっぷりを感じてしまい、ときにあくびもという感じだったが、終わってみるとなるほど、これがこの映画の戦略そのものなんだなと、感心もした。(3月5日 キノシネマ立川 61)
⑦夏時間
監督:ユン・ダンビ 出演:チェ・ジョンウン ヤン・ワンジュ パク・スンジュン 2019韓国 105分
父の事業の失敗と離婚から夏休みを郊外の祖父の家で暮らすことになった高校生?の娘と小学生の弟、そして父の一家。老いつつある祖父、そこに突然転がり込む夫と不仲だという叔母(父の妹)の夏の日常を淡々と描きつつ、そこに在る娘の孤独や不安苛立ち、そして最後に訪れる感情の解放(号泣!身につまされるような)までをとても繊細に描く。
最初の方の寝室の奪い合いから始まって、素直に母を慕い、状況の中でおどけ、感情を自然に表出する弟(『愛の不時着』にも出演した天才子役だそうだ)との対比ーケンカもする、弟に支えられたり、また弟をひそかに思いやるシーンもーもすごくうまく描いているし。しかも都市近郊の古い家の庭とか、周辺のどうということもない自然の緑の鮮烈さが、全体的には少し靄がかかったようにも見えるほんわりした空気との対比でなんとも懐かしい景色を生み出している。
小津とかエドワードヤンとか侯孝賢の世界と並べられているみたいだが、まさにそうなんだけれどもっと現代的?かつ若い女性の心情世界を表しているという点では彼らよりもしっかり女性視点が行き届いたような感じ(あんまり「女性視点」とは言いたくないが、むしろ「少女視点」だろうか)。その意味では最近大活躍の韓国の若い女性監督作品の中でも、昨年公開の『はちどり』とも並ぶような、と言いたいが、それよりももう少し事件も感情も普遍的(ドラマ性は少ない?)。それだけにそのあたりにいそうな少女に感情移入ができそうで、映画世界への親しみが感じられるという点ではこちらの方が個人的には好きだ。(3月8日 渋谷ユーロスペース62)
➇ターコイズの空の下で
監督:KENTARO 出演:柳楽優弥 アムラ・パルジンヤム 麿赤児 2020日本・仏・モンゴル(日本語・モンゴル語)95分
ウーン。最近老いて少し目に来ている?と思われる中でのこの画面の色合い、フォーカスの鮮明さはちょっと比類がなく、クリアな目で見たらくらくらしてしまうのではないかと思えるほど?始まりは日本の厩舎から馬を盗んで疾走するモンゴル人アムラからで、ちょっと意表をつく始まり方だし、全体を通じてリアリティ追及をすると作者の罠にはまるのかなと思えるほどに作品設定も主人公の設定も事件の動きも非現実っぽい気はする。
第二次大戦後に(ソ連軍の?)捕虜となりモンゴルで強制労働中にケガをして入院、看護婦をしていたモンゴル娘との間に娘を作るという設定、その祖父は年齢的には少なくとも90代半ば近いはずだが矍鑠と会社社長をしながら後継ぎにしたい孫息子の自堕落・贅沢三昧放蕩ぶりを危ぶむ。孫息子のほうの放蕩ぶりの映像もなんか今風ではないしーというようなところを受け容れられられないと、映像美だけを追求したおバカ作品に見えてしまいそう。柳楽優弥が主人公と重ねモンゴルでの俳優としての苦労やその中の成長を語るインタヴューを見た気がするが、確かに演じる本人にとっては過酷な状況であろうが、映画世界の主人公タケシに関していえば、いわばその場その場の感情を切り取ったアクション映画の感あり。オオカミに襲われて乗ってきたサイドカー付きのバイクを燃やすとか(=アクション映画的迫力あり)、ノマドウーマン(とエンドロールに示されたゲルに一人住まいし、彼を拾う女性)の出産シーンとか…。
自堕落な都市生活者としての感覚しか持たなかった彼が、最後に草原で馬が倒れて途方に暮れる少年を拾い(といってもこれもアムラがいなければどうにもならなかったろうが)その結果祖父の探していた女性に出会うというのも、少年を拾った(他者に思いやりを持った)タケㇱの成長?なのだろうが、それよりやっぱし安直?という感じ。ただ柳楽優弥の感情表出はさすがなかなかで、出産シーンの涙とか、草原で勘定が解放されてはしゃぎまわるシーンは安直感はありながらも熱演だし、脚本にも参加しているアムラ・バルジンヤムの劇中アムラの造形もなかなか面白いとは思った。(3月8日 アップリンク渋谷63)
⑨私は確信する
監督:アントワーヌ・ランボー 出演:マリーナ・フォイス オリヴィエ・グルメ ローラン・リュカ フィリップ・ウシャン インディア・ヘア 2018フランス 110分
フランスで実際に起こったというヴィギエ事件を描く。3人の子どもを残して主婦が失踪、法学部教授の夫に殺人の疑惑ががかかる。証拠もなく第1審では無罪となるが、検察が控訴し10年後に2審が行われる。この映画の主人公は夫婦の娘に息子の家庭教師を依頼しているシングルマザーのシェフ、ノラ。なぜか被告の無実を確信し、その娘のためにだろうが、有名な弁護士に自ら作った1審の記録をもって弁護の依頼に行き断られるも食い下がる。弁護士は実在の、法務大臣にもなったエリック・デュポン=モレッティで、最初はノラに取り合わないが、この事件に興味を持ち、ノラが250時間に及ぶ通話記録を調べることを条件にこの事件を引き受ける。ノラは自分の仕事も、息子とのスキーも、その他何もかも犠牲にする感じで調査に打ち込むが、単なる素人なので時に弁護士を怒らせるー例えば彼女は実は一審の陪審員だった、そのいわば後悔?もあってこの裁判に打ち込むのかもしれないーしかしそのことを弁護士には言わなかったので、関係者はかかわれないということで、弁護士の怒りを買い仕事から外されてしまったりも。また息子を放りっぱなしにしてボヤを出したり、そちらにかまけて車にぶつかったり、それでもあきらめないあきらめない、なんで?と思うようなその迫力がこの映画の見どころ。
裁判では失踪した妻の愛人だった男に疑惑がかかるが、こちらももちろん証拠がなく、被告の無罪も立証できず、しかし弁護士の最終弁論の迫力もなかなかの見どころ、一方の疑惑がかかった被告(娘によれば父はうつ病というが)の迫力のなさ、疑いのかかる愛人のふてぶてしさ、その愛人を手引きしたノラが疑う被告の家の元ベビー・シッターの頼りなさなどが、このわけのわからない法廷劇を盛り上げている。そして被害者である妻は結局最後まで殺されたのかそうでないのか生きているのかいないのか、もちろんどこにいるかもわからないという結末のままなのが不気味と言えば不気味。(3月10日 新宿武蔵野館 64)
⑩ラモとガべ
監督:松太加(ソンタルジャ)出演:ソナム・ニマ デキ スィチョクジャ
2019中国(チベット)チベット語 110分 ★★★
出だしは、婚姻届けが受理されず怒るラモと困惑するガベ。そんなことがあるかと思うが、4年前ガモはある女性と結婚の話があったが、途中で破談になり結納品も返された、その女性との婚姻届けが出されていたのだとわかる。病気の父が息子の結婚を楽しみに入院中の病院から退院し家で準備をするという。一方のラモは怒って戻り、村で行われる英雄叙事詩「ケサル王物語」の公演のヒロインの練習に行くが、この劇、ケサル王が罪深い女アタク・ラモを地獄に救いにいく話で、劇中の歌として繰り返し繰り返しアタク・ラモの悪行や罪深さが歌われるのに耐えられないラモが切れて芝居を投げ出し家に帰ってしまう。そして家で預かっている甥っ子を学校に迎えに行くラモ。驚くべき激しさで甥っ子を叱り飛ばしー学校に行かないと自分のように字も読めない人間になるという。そして芝居練習に行かないラモを母は人に迷惑をかける世間体が悪いと叱り、ラモは反発する。二人が縛られている伝統社会とそれを逸脱したりすり抜けようとして抜けられずがんじがらめみたいな状況が実にうまく描かれている。
そのあとはガベが離婚届を出すために戸籍上の妻を訊ね彼女の出家を知り、離婚を求めて彼女の死亡届を捏造しようとしたり、役人に頼んで出家先の寺を訊ねて離婚証明にサインをもらうまでの彼の苦悩とかゴタゴタと、ラモの甥っ子の学校問題(登校拒否、寮から抜け出し、いたずら)などなどに絡め、ラモの抱える秘密が明らかになっていく。ガベの新居準備も含め結婚に向けてのいちずな行動が描かれる反面、ラモが怒って母といさかい、甥にあたり、芝居を拒否する様子に最初はジェンダー問題?とも思ったがじつはこの秘密が彼女をこんなにも怒らせ苛立たせているのだとわかったあと、さてガベはどうするか…、ラモは…、というのがみなまで言わず観客にも想像の余地を残しながら終わっていくうまさ。出家した元妻が結婚の前に作ったガベの衣服に託して書かれた手紙、それを読みラモに渡すガベ、字の読めないラモが甥っ子に読ませてその内容に物思うという展開も秀逸。この映画チベット人がチベット語で作った映画だが、劇中のTVは漢語をしゃべり、ガベが書類の偽造を頼む交渉も漢語。チベット自治区における漢語や中国の位置づけが鑑みられるような映画で、竜のマーク付きの「中国映画」だったのもちょっとショック。(3月17日 岩波ホール 65)
⑪タルロ(塔洛)
監督:ペマ・ツェッテン 出演:シデ・ニマ ヤンシクツォ 2015中国(チベット)チベット語 123分 ★
身分証を作ろうとして身分を失う男の話。最初に毛語録を延々と漢語で暗唱するタルロ。彼は小3まで行った学校でこれを覚えたが、孤児で親戚にも放棄?され秀でた記憶力でヒツジを見分けて覚えるということから羊飼いの仕事を与えられチベットの草原で他人のヒツジと自分のものとした100頭を放牧しながら暮らしている。身分証を持たないことから警察署長に証明写真をとるように言われ近くの街の写真店へ。そこで前にある理髪店で髪を整えるように言われ親切な理髪店の女性と知り合う。一緒にカラオケに誘われ(ものすごい調子っぱずれの女性のポップス。一方タルロは草原で鍛えて朗々たる伝統的な恋唄を歌う)飲んで、一夜を共にするーまあ夢のような出来事が起きるわけだ。女性にはヒツジを売ってどこかに行こうと誘われる。その時は草原に帰って普通の生活に戻るのだが単調な生活の中でヒツジをオオカミに襲われ、雇い主にビンタを張られて死んだヒツジを解体して食べ反省しろなどと屈辱的な扱いを受ける。そして1か月後身分証ができるときに再び街に出たタルロは16万元の札束を女性の前に積み上げ、女性は三つ編みのタルロに姿を変えるために髪を切るように勧め彼の頭をバリカンで丸坊主にしてしまう。二人はともに巡業してきた歌手のライブに行ったりしてタルロは女性のたばことか、音楽の趣味の違いとかに辟易はするが、まあ楽しい時間を過ごし…そして翌朝、16万元とともに彼女は消える…とネタバレだがこのあたりは見ていて容易に想像ができるのでまあ…とことで。髪をそってしまったので写真と全く違う本人確認ができないから写真を取り直すようにと身分証も結局手に入らず…社会から孤立して伝統的に素朴に生きてきた男が身分証を手に入れ社会の一員太郎として、結局自身のアイデンティティまで見失っていくという寓話なのだが、モノクロで情報を極力排したような、そして登場人物が常に画面の端の方に(二人だったら両端にというのもある)寄っているような構成といい、なんか不安感を掻き立てるようなこの映画の世界を特徴的に表していて印象的だ。2015年の東京フィルメックスグランプリの当時から話題作品だったが夜9時上映の2時間以上に腰が引けて行かなかった…のをようやく見ることができた。(3月17日 岩波ホール66)
⑫空に聞く
監督:小森はるか 出演:阿部裕美 2018日本 73分 ★
東日本震災後陸前高田で立ち上げられた「陸前高田災害FM」というラジオ放送でパーソナリティを勤めた女性を描く、仙台を拠点に震災後の人々を描き続ける小森監督作品。これも話題作でありながらなかなか見られず、ようやく見に行く。彼女はもともとこの街で和食の店を経営していたが震災でつぶれ、実家も津波で流され?、それまで経験したことのないラジオ・パーソナリティの仕事をしたとのこと。その中で街のいろいろな人々にインタヴューをした番組を作ったりしたのだが、その収録部分の出演者(86歳のおじいさんとか)がなかなか魅力的。素人と言いつつ相手をリラックスさせて話を引き出す技は和食レストランの女将としての経験によるのかもしれないが、最後の方でラジオ放送が終わり、新たに店を再建して働く彼女の姿は、なんかパーソナリティ時代の姿と全然違う印象で、多分この人の重層的な魅力が引き出されているのだろう。いろいろなものを失いつつ、つらい悲しい体験をインタヴューイたちと共有もしながら、それを忘れるのでなく心に持ちつつラジオの仕事を通して前を見ようという気になり店を再建したという彼女自身の言葉も印象的だった。とても淡々と、ドラマチックにではなく描かれているのだが、それゆえにむしろ印象に残るような描き方がされている。(3月18日 ポレポレ東中野 67)
⑬亮亮と噴子
監督:李宜珊 エンジェル・リー(李雪)チェン・イェンシー(陳彥希)リウ・インシャン(劉引商)ウー・ホンシウ(吳宏修)2017台湾 30分 ★
もう、明日までというときになり、ようやく時間がとれてやっと見た大阪アジアン映画祭オンライン座。の1本。18歳の誕生日を迎えたのに、自宅に転がり込んだ兄嫁?は男を引き込み、赤ん坊の世話は亮亮に任せっぱなし。だれにも祝ってもらえず赤ん坊を連れてアルバイトに行き叱られ兄を探して歩き、恋人?の警官とも赤んぼ付きでは映画も見られず何事もうまくいかないという、仏頂面で口も利かず(まったく台詞なし。表情とちょっとしたボディランゲージだけなので亮亮は口がきけないという設定かと思ったらそうでもないらしい)…。最後は翌日で状況は似たものながら、祖母の入れ歯の世話をすることで気を取り直す亮亮と彼女を祝う祖母はじめ周囲の人々がほほえましく、30分という短い素材に込めた情報量、心情などが大胆にして繊細という筆致で描かれる。噴子の赤ちゃんがなんとも芸達者で(というか演出がうまいのかも?)で驚かされる。オンライン座は短編は500円でわりと気軽に見られる。(3月19日 大阪アジアン映画祭オンライン座 68)
⑭息の跡
監督:小森はるか 出演:佐藤貞一 2016日本68分 ★★
これは何と言っても陸前高田で「佐藤たね屋」という苗種店を経営しながら、震災の記録ー記憶を自費出版している佐藤貞一氏の個性ですべてを語りつくしてしまっているような映画だ。この人の記録は「日本語では記憶が生々しすぎて書けない」ということで、読者のあてもないままに独学の英語や中国語で書かれているというのもすごいー隠れた語学の天才かもしれないー時にインタヴュアーの若い(23歳とか言っていた)小森に説教したりしながら、朗々と語り続け、自らの書いた本の英文を朗読する、その迫力。震災を越えて―実際に育種店は津波で流されてしまったのを再建したとかー生きていき自分の記録を残そうとする執念と表現の迫力で最後まで席にくぎ付けというような映画だった。(3月19日 ポレポレ東中野 69)
⑮波のした、土のうえ
制作:小森はるか+瀬尾夏美 出演:阿部裕美 鈴木正春 紺野勝代 瀬尾夏美 2014日本68分
前作『息の跡』の前に、小森がともに仙台に移り住んだ相棒の瀬尾夏美(作家・画家)とともに制作したもの。『空に聞く』の阿部裕美さんが津波で失われた実家や店の跡を訊ね、鈴木正春さんが震災の経験や思いを語り、紺野勝代さんが復興前の空き地に花畑を作ったプロジェクトと、工事に入って花畑が潰されていった経過を、それぞれ瀬尾が詩文の形に直したインタヴューの談話の朗読で3部作の形で綴る。前2者は多分ご本人の朗読で、災害放送のラジオ・パーソナリティだった阿部の朗読はなかなか聞かせるし、鈴木も臨場感があったが、紺野部分は年の若い瀬尾の朗読?なのか、声が若くかわいらしすぎる感じで少々違和感が抜けず。画面の方は集団で、また金沢からの北陸学園大学生のボランティアたちも出ていて元気があるせいか、それでなんとか…という感じかなあ。平日昼だがこの小森特集(一つ置きの販売とはいいながら)ほぼ満席というのがすごい。この日はそのあとポレポレ坐で小森監督のトーク(1000円ドリンク付き)があってこちらも盛況だったようだが私はいっぱいいっぱいで失礼する。(3月19日 ポレポレ東中野 70)
⑯小死亡
監督:イベット・チョウ(周良柔) 製作:桂綸美 出演:陸弈静 2018台湾 17分
「小死亡」はオーガズムの意?らしい。昼夜仕事を掛け持ちして家計を支える高雄の中年女性を陸弈静が演じる(この人何歳なのか?何十年も同じ年頃の中年女性を演じている気がする・・調べたら62歳!ふーん)。夜間のトイレ清掃の仕事をする彼女の前にトイレの個室になだれ込むように性関係を持つ男女が現れたことから、彼女の心穏やかならざる状況が描かれていくというもの…解説や監督インタヴューではそれが新しい人生への希求のようにも描かれているというのだが、うーん、そんなふうにはいかないだろう、行かないところがこの映画の切なさであり中高年人生の切なさではない?というのはあまりに悲観的な見方か…。(3月20日 大阪アジアン映画祭オンライン座 71)
⑰夏の夜
監督:イ・ジウォン 出演:ハン・ウヨン チョン・ダウン 2016韓国31分 ★★
コンビニでバイトをしながら就活に励むがなかなかうまくいかない大学生ソヨン。彼女が家庭教師を頼まれ勉強につきあうことになる高校生ミンジョンも、飲んだくれの父親にほぼ放置されハンバーガーショップでバイトをして稼ぎその金で自ら家庭教師を雇うという境遇。ある日バイト先の都合で決まった授業日を変更せざるを得なくなったミンジョンと頼まれて自分の仕事や就活のための研究会などのやりくりがつかなくなるソヨンのごたごたを描き、二人の置かれたともに厳しい状況ーそうしても受験し、大学を出ていい就職をすることがしあわせの前提となっているような韓国女性の状況も合わせてーが30分でコンパクトに描かれえる。最後に酔っぱらった父親に家から閉め出されせっかく確保した勉強時間を深夜のファストフード店で勉強しながら過ごすミンジョンとソヨンの姿に共感と共闘がうまく映し出されて、つらいがなんかほっとさせられる。ソヨンを演じたのは『家に帰る道』(パク・ソンジュ 2019/2020大阪アジアン映画祭)のハン・ウヨン。監督も、今活躍が目立つ韓国の若い女性監督群の一人であろう。(3月20日 大阪アジアン映画祭オンライン座 72)
⑱ラブリー・マン
監督:テディ・スリアアトマジャ 出演:ドニー・ダマラ、ライハヌン・ソエリアットマジャ 2011インドネシア 72分 ★★★
主人公の少女のきりりとした表情や、彼女が到着したジャカルタの夕景の色合い、そこにいる老人など行きずりの人々のアップの表情、また彼らを撮るカットのアングル、それに映画全般の彩りー特に男娼となっている父を取り囲む赤と濃茶に近い黒の世界、娘の清純を表す?白とそれに茶系の配置、にじんだ光の玉のようなフォーカスととにかく美しい画面(撮影)が印象的。物語は妊娠して(これは最初は明かされないが案外すぐにそうかなとわかるような描き方で父親も見抜く。ということは少女と母の関係の希薄さの象徴ともなっている?)が長年生き別れたまま(とはいっても母に送金は続けていた)父に一目会いたいとジャカルタにやってきて、男娼として暮らす父に遭遇し、ひょんなことから一夜を過ごして翌朝別れるまで。一夜の中だが事件が起こりそれによって父は大きな決意をするあたりまで、ちょっと繰り返しっぽさは目立つが、全体的に印象的な場面の連続として描かれ、物語の結末は予想はつきつつ、観客の期待は裏切らないような達者なつくり方の映画でもある。父親にして男娼役の役者はどっちを演じているときももきれいで、娘ともども繊細にして切ない映像美。 (3月20日 大阪アジアン映画祭オンライン座 73)
⑲WHOLE
監督:川添ビライル 出演:川添ウスマン 海・星野サンディ 2019日本 44分 ★★
ともに外国人の父と日本人の母を持つ二人の青年。誠は「ハーフ」かと言われると適当にはぐらかし(時によって父はブラジル人といったりイラン系と言ったり。しかし彼が父から受け取る手紙は、彼には読めない英文)。彼は小さなマンションに夜働く母と住み建設作業員として働いているー演じるこの映画の脚本家でもある川添ウスマンの存在感がリアルでいいー。もう一人は留学先の大学をやめて豪邸に帰るハルキは見るからにおどおどして人間関係を作りにくそうな造型。母との関係もなんか疎遠で、帰国後も放置されている感じだし家を閉め出されたりする。留学志望のガールフレンドが一応いるが、こちらとも意見は食い違いギクシャクしている。彼は「ハーフ」かと聞かれると「ダブルだ」と答える。誠もハルキも「ハーフ=ダブル」であることがそれぞれに対処の仕方は違うが一種の重荷にはなっているわけである。この二人がひょんなことから知り合い、付き合い、やがてハルキが頼まれて英語で書かれた誠の父の手紙を読み翻訳するというのが物語的展開だが、その中で二人がなんというか、それまでと違った自分の部分に出会い獲得してともにwholeになっていくというのが意外に説得力を持って描かれている。若い監督・作者・演者なのだが自分の世界を描いているから、かなと思われる。(3月20日 大阪アジアン映画祭オンライン座 74)
⑳ビバリウム
監督:ロルカ・フィネガン 出演:ジェシー・アイゼンバーグ イモ―ジェン・ブーツ ジョナサン・アリス
2019ベルギー・デンマーク・アイルランド 98分 ★★
出だしは卵や雛を蹴落として巣を占領するカッコウのグロテスクな大きな口とそこに頭を突っ込み食べられそうな感じで餌を与える巣主の親鳥、というわけでその巣のある木の下であった恋人同士のトムとジェマ。そして巣から落とされた雛の死骸を植木屋(車にシャベルやつるはし、脚立を積んでいることの意味のひとつでもある)のトムは木の下に埋めてやるという、トムの性格のみならずこの映画の成り行きまでも象徴するような印象的な始まりだ。しっかり者の教師のジェマとトムはともに住む家探し中。立ち寄った不動産でちょっといわくありげな雰囲気の担当マーティンに強引に誘われ、ちょっと見に行くつもりで郊外の新興住宅街ヨンダーの9番地の家を内見に行く。ところが中庭に案内され少し目を離したすきにマーティンは消え、取り残された二人は早々に退散しようとするが、車でっ元来た道をたどり覚えのある角を出口へのつもりで曲がっても、いつの間にか周回して9番地に戻ってしまい、出ることができなくなる。屋根に上って遠くまで続く同形の住宅に絶望し、太陽に向かって歩き出すもまたまた9番地に。家の前には食料品の入った段ボール。怒ったトムはこの段ボールに火をつけ家を燃やしてしまう。ところが朝が来ると家は元通りでおまけに家の前に置かれた段ボールに今度は生まれたばかりの男の赤ん坊が…。というわけでこのあとは二人と赤ん坊の暮らし?が描かれることに。赤ん坊は98日で小学生くらいの大きさに成長し大人の声で話、お腹がすくとキーッと叫び声をあげるというかわいげも何もない「ミュータント」ということで、トムはこの子を憎み排除しようとするが、ジェマは気味悪がり「母ではない」と、ことばでは拒否しつつも世話を焼くようになるーということでここには家の中で母性に縛られる女性の寓意と思われる。一方のトムはひょんなことから芝生の庭に穴を掘り始め、目的もわからぬまま何かを求めて大きな穴を延々と、息も絶え絶えになりながら掘り続けるということで、これも家族や家庭を顧みず、自らの興味(仕事)を正当化して他を顧みない男の寓意?という中で子どもは、大きな大人になって力をふるうように…、そして穴の中に何か?を見つけたトムは息絶え、子どもは彼を死体袋に詰め穴に投げ込む。ジェマはミュータントの正体を現したかのような彼につるはしで殴りかかるが…ここからはそれまでの人工的なしかし整った箱庭模型のような住宅の内外から一転して今風のCG作成の目くるめく状況へと展開し、ま、予想はつく範囲なのだが悲劇的かつ皮肉的なオソロシサを感じさせる終わりへと展開していくが少し時系列が分かりにくかった。98日で赤ん坊から小学生サイズに成長した子どもは次のシーンで大人(これもいかにも象徴的な白シャツ黒ズボンネクタイ姿)になって出てくるが、トムとジェマは衣装も変わらずくたびれ果ててはいるもののそれほど年を取ったふうでもない。しかし最終シーン二人をヨンダーに案内した不動産屋はすっかり老いて新しいマーティンにとってかわられるというわけで、うーん。ま、その不安さも含めてホラー仕立てということなんだろう。ホラーもだが私には男女が営む家庭の牢獄性?の寓意とその破綻の描き方のほうがとても面白く感じられた。映画com.では☆3/5だったが、私はこういうシンプルにしてぐっと言いたいことが迫ってくるような劇は好きだなあ。(3月24日 キノシネマ・立川75)
㉑ミナリ
監督:リー・アイザック・チョン 出演:スティーブン・ユェン ハン・イェリ ユン・ヨンジュン 2020米韓国語・英語 116分
米・アーカンソー州に移住した韓国人一家を描く話題作(アカデミーは作品賞・監督賞などにノミネート。ゴールデングローブ賞では外国語映画賞にノミネートされたとかで、移民系映画の冷遇?ともされたよう)。妻の反対を押し切りアメリカに成功の夢をかけ邁進する夫、水も出ないような田舎でのトレーラーハウスでの生活に苦しみ、息子の体を心配しながら家計を支えて雛鳥選別の仕事を続ける妻、一家をちょっと客観的に冷静に見ているようなしっかり者の娘、そして心臓病を抱える息子。妻の希望にこたえて韓国から一家に手伝いにやってきて病を得てしまう祖母。一家だけでなく隣人も含め誰もが映画の主人公になってもいいような個性や体験の持ち主だが、この映画はひとりに焦点を当てることはなく(どちらかといえば焦点が当てられているのは祖母や、幼い息子などやや副人物的な立場にほんのちょっとという感じ)等距離に俯瞰して客観的に見ているような感じで、それをドラマティクにしすぎず(とはいっても祖母が倒れて以後の一家は結構ドラマティックな展開の中で右往左往感は半端ではないのだが)品よくまとめられている。隣人との関係でも移住したアジア人が地域社会で置かれた非差別的立場を感じさせるようなところはなくはないが、それを激しく告発するということはなく、厳しいいろいろな状況も誰かのせい、というよりも厳しい開拓的生活の中でしかるべく起こったことという描き方ではあるが、それがリアリティを感じさせるのかもしれない。ミナリは祖母が韓国から持ってきて近くの水辺に植えたセリのこと。2度目以後の収穫がよいのだそうで2代目以後への希望を託す植物として父と息子が摘む場面で映画は終わる。祖母を演じるユン・ヨンジュンはさすがの存在感で韓国の習慣を維持しつつ、孫とのギャップや一家のとの生活感に食い違いを見せ、脳卒中で倒れながらも一家の希望の象徴でもあり続けるという役を演じている。(3月24日 キノシネマ・立川76)
㉒陽に灼けた道(太陽総在左辺)
監督・脚本:ソンタルジャ 出演:イシェ・ルンドゥブ ロチ カルザン・リンチェン 2011チベット・中国? チベット語 89分
ソンタルジャの長編デビュー作。荒々しさはあるものの才気あふれる必見作、というのがプログラムの評だが、ウーン。ソンタルジャ監督独特のある種の省略話法というか象徴的手法がよく表れているが、その効果は今一つという感じだ。母を失い(これも解説のあらすじでは自分の過失でということのようだが、どうも過失のありようがはっきりせず、兄の運転するバイクに同乗した母の赤いスカーフが車輪に絡まる、次の瞬間、音と真っ暗な画面だけで次のシーンではバイクと兄は倒れ、母は主人公の青年ニマの運転していたトラクター?の下敷きになっているという展開で、そこを逃げ出して、葬儀も遠くに見るだけの二マの苦しみが過失?によるのか、逃げたことによるのか、それとも母の死を単に悲しみ直視できないのかつかみにくい。ともかくその苦しみの中彼は五体投地でラサ巡礼に出かけたらしいーこれもリュックに付けられた手に履く「ゲタ」と老人のことばから分かるだけ。しかしラサ巡礼の成果?はなかったらしく、故郷への道を進みたくない(戻れない)青年の姿がチベットの広々とした半砂漠状の荒野とそこに通る1本の道だけで示されていく。
バスの中で声をかけてきた老人がバスから下りてヒッチハイクもしない(チベットでは一人歩いているとみんな声をかけて車に乗せてくれようとする…ほんと?)青年につきあってくれる。人は皆子供時代から年を経て結婚し、子どもを育て、子どもを結婚させやがて老いて死んでいくーそういう自然な在り方を受け容れよというのが、まあ老人の語るところの要約なのだが、老人自身も独立した息子・結婚した娘との関係ではそうスムーズではないようなのが彼の携帯電話での息子・娘の会話から示される。ここでは老人は携帯で外部世界につながっているが若者は携帯も使わず(母の死の前の最初の方で恋人がいて結婚間近という雰囲気が示されるにもかかわらず)いかにも閉ざされた世界の住人という感じ。それが老人との数日の間で少し変わる微妙な表情、行動の変化そのあたりの映像の切り取り方はすばらしい。そして荒野はともかくその上にある空の青味、常に一つの視点を感じさせるような固定的なアングルなど映像的にはさすがに…という感じ。
最後老人が風に飛ばした帽子を拾いに行ってバスに乗れず老人に置いていかれてしまう青年は、その後自分からバスに乗り、赤ん坊を抱いた兄の出迎えを受け、家近くのタルチョ(祈祷旗)に同乗した兄のバイクを止めてもらい母の骨を葬る(これができないから帰宅を遅らせたわけか…)それを見つめる兄の赤ん坊の珍しい?クローズアップは映画中で未来の象徴とされた子どもの姿を彷彿とさせるわけだ。字幕は樋口裕子さんで中国語字幕からの翻訳と思われるが、題名は??『陽に灼けた道』というのはミスマッチな感じがする。原題(中国語)は「太陽はいつも左側にある」意で、劇中セリフにもそういう発話あり(若者の頬をさして「陽に灼ける」と老人が言うシーンが続くのでそこから邦題はできた?)、多分ラサから西の方に進むチベット自治区のどこかに故郷があるということなんだろう。つまり帰りたくない帰宅の道というのが題の意味するところかなと思うのだが。(3月26日 岩波ホール 77)
㉓生きろー島田叡 戦中最後の沖縄県知事
監督:佐古忠彦 出演:山里和枝 太田昌秀 隈崎勝也 牛島貞満 山根基世 佐々木蔵之介 津嘉山正種
2021日本 118分 ★★★
1945年1月、前任知事の内地機関・職務放棄(これも、陸軍から軍官民共生を命じられ受け入れられない苦悩からの勇気ある選択であったとされる)に伴い、新たに沖縄県知事に任じられ赴任し、沖縄激戦下の最後の官制知事となった島田叡の最後の5か月を描く。すでに沖縄に米軍の攻撃があることは予想され、その中で住民も軍に協力し戦い玉砕することまでも求められるような状況下で、住民を守るために台湾からコメを買い入れ輸送したことを始め、軍部に対して住民を守る行動を続け、立場上もあり、果たせず、最後は周辺にいた若者(沖縄住民、日本軍兵士などにも)に「生きろ」とメッセージを送りつつ、自らは最後まで軍に戦闘をやめ住民の命を救ってほしいと申し入れつつ果たせず、行動を共にした警察本部長(この人も栃木県出身で沖縄に送り込まれた人)とともに最後は軍部壕を出て消息を絶つという最期を迎えたという生き方である。
当然赴任時から死を覚悟し、成果は住民の死が少しでも少ないというようなことしかない、しかも表立って軍に反対できる立場でなく板挟みになりつつ抵抗をしなくてはならないという壮絶な赴任だったわけだが、神戸出身で中学時代から野球少年、三高・東大時代は名選手として野球殿堂に名前が刻まれているほどの結果を残したという「明るさ」「強さーチームスポーツの協調性も含む」、そういう性格というか人間性がそれを支えていたのかもしれない。生き残っている当時の関係者やその子孫たちがインタヴューでこもごもに語る魅力が印象的。
映画は島田を演じる佐々木蔵之介をはじめナレーションなどがしっかり入って、監督の佐古がテレビ出身であることを思わせるような「分かりやすい」作りになっていて、それはある意味で島田という人物やその行動を一面で切り取って観客にアピールすることになるが、この人物の魅力と苦悩を考えるとそれはそれでいいのだろうなあとは思わせられる。(当時の軍人やその家族や、牛島司令官の息子までが出てきて島田を評価するが、実のところ彼の苦悩はその評価からははみ出すようなところもあっただろうが、そのあたりは描かれない)★3つは映画の良さというより、この知事の生き方への驚嘆と共感?(3月26日 渋谷ユーロスペース 78)
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