【勝手気ままに映画日記】2021年2月
今月の富士山―高尾山〜小仏城山途中のもみじ台から、ちょっと恥ずかし気に小さい… |
またの日の「しっかり」富士山! コロナ終結までは遠出自粛ということで、2月も近くの高尾山通いを続けています。富士山の撮影アングルもいろいろ探すのですが、少し飽きてきた??感じもあります。 スキーはとうとう一度もせずに今シーズンが過ぎて行きそう。 3月に入ると大阪アジアン映画祭ですが、これも今年は自粛かな、一応支援のつもりで会場には行けないけれど応援したい人用のサポーターチケットというのを購入しました。 |
①わたしは分断を許さない②わたしの叔父さん③ハッピー・バースデイ 家族のいる時間④天空の結婚式⑤天国にちがいない⑥フリーダ・カーロに魅せられて⑦ヤクザと家族➇ウォーデン 消えた死刑囚⑨ジャスト6・5 闘いの証⑩花束みたいな恋をした⑪草原の風船⑫秘密への招待状⑬すばらしき世界⑭ブリング・ミー・ホーム 尋ね人⑮劇場版 殺意の道程⑯聖なる犯罪⑰佐々木、イン、マイマイン⑱ファースト・ラブ⑲世界で一番しあわせな食堂⑳マリアの息子㉑私の娘の香り㉒シェへラザードの日記㉓ラシーダ㉔結婚式、10日前㉕ミナは歩いていく㉖汝は20歳で死ぬ㉗ニューヨーク・親切なロシア料理店
①わたしは分断を許さない
監督・撮影・編集・ナレーション堀潤 2020日本 105分
1年前の公開から気にはしつつなかなか見に行くチャンスがなかったので、深夜0時の発売を待ってチケット予約しようとするとすでに10人近い先客が購入済みで驚いた!ということで時間に行くと満席(ただしポレポレ東中野は現在一つ置き販売なので実際は席の半分なのだが)しかも平日午後若い人が多いのにも驚く。テレワーク中?自宅待機中?で、なんかすごく人気のある監督なのかな?予定外に映画の前になんと25分くらいのトークショーつき。村上某氏(有名人なのかな?私は知らないがトークショーなども予定されているとか言っていた)と掛け合いで延々。落ち着いて聞けばなかなか興味深い話なのだろうが、次に予定もあって時間の焦りの中でイライラしてしまう。鑑賞前に「映画の見方」みたいな説明はいらないのだが、監督自身のこだわりという感じもする。
で、香港のデモ場面の警察官の暴虐性からはじまり、この警官も同じ香港人なのだという監督自身のナレーションで、次の福島へ…というような流れで、元NHKにいたという堀氏がその機動性とか人脈を駆使して5年間世界中を駆け回り、香港、福島、ガザ、シリア、沖縄、北朝鮮…とあちこちでのエピソードを繋いで作っている。取り上げられたエピソードはそれぞれの地域でのセンセーショナルな場面中心?と関係者インタヴューもあるが…とにかく印象的なのは自分の顔をカメラで自撮りし歩きながら語る監督自身の映像で、この映画結局それぞれの地域の問題について掘り下げるというよりはそれを題材に監督自身を語るという感じ?題名の「わたし」もそれぞれの問題の渦中にいる人々ではなく堀氏自身なのだと感じられる。それはそれでいいと思うが、この映画のタッチなんともNHK的というかテレビで流すようなわかりやすいというか肌触りのいい映像、そこにかぶるNHKドキュメンタリーっぽい音楽といい、うーん、分かりやすいのだが印象希薄な感じもしてしまう。実はトークのおかげで時間切れ、終わり10分ぐらい前に出てしまった。どうしても座って見続けたいというほどの吸引力が感じられなかったのも確かで…。(2月1日 ポレポレ東中野 29)
②わたしの叔父さん(Onkel)
監督:フラレ・ピーターセン 出演:イェデ・スナゴ― ベーダ・ハンセン・テュ―セン オーレ・キャスパセン 2019デンマーク ★★★
一昨年の東京国際映画祭グランプリ(最高賞)受賞作品だが、1年半たってようやく劇場公開された。デンマーク映画ということで私は映画祭では見ていないので、さっそく見に行く。全体の暗さは私の眼のせい?というよりは自然光で撮られた牧場や家の実際の暗さなのだと思われる。主な登場人物は4人程度で主演女優は元獣医、叔父さん役は実際の叔父、他の登場人物もプロの役者ではないというから、獣医役は本当に獣医?なのかな。どの人物も場面にしっかりはまって実在感がある。14歳で両親と弟を亡くしたクリスという20歳過ぎの女性は叔父に引き取られ叔父の牧舎で牛の世話をしながらともに暮らすが、高校を卒業し獣医科大学に合格したところで叔父が倒れ体が不自由になったため、進学をあきらめ叔父の世話をしながら、ともに牛の世話をする…という日常が淡々と描かれる。
クリスは叔父の着がえから食事、入浴の介護までするが、自分が手を洗ったあと叔父が手を洗おうとすると叔父の手元に石鹸のポンプを置き、叔父は叔父で洗い終わると元の位置に戻すというような細かなやりとりが本当に息の合った感じで描かれる。が、中盤、牛の逆子の出産を無事に世話した彼女を見た獣医が、おりしもやめてしまった助手のかわりにクリスに誘いをかけて牛や豚の往診に付き添わせるようになり、彼女に獣医への夢が再燃し、また父の墓参りの時に教会の聖歌隊にいた青年と出会い、その後彼と往診先の牧舎でも出会いつきあうが始まるあたりから彼女の中にいら立ちが生まれていく様子が繊細な彼女の行動や表情に表されて秀逸。
叔父は気持ちの上では彼女を理解し、彼女が永遠にこの牧場にいるわけではないとも思いそれを口にもするのだが、実際問題として彼女の手助けなしには仕事も日常生活もままならない(というか、彼女がそう思い込み必要以上に面倒を見ている気配もちょっとあるように描かれていてそのあたりも興味深い)わけで、この叔父さんこそ何も言わず、つらく、しかしその克服の方法もなく、老いに抗いつつ任せるしかないというあたりが非常によく描かれている。二人が食事をするとき、叔父は(多分TV)を見、そこではデンマークのみならずヨーロッパ全土やアメリカ、北朝鮮がらみの世界ニュースまでが次々の流されて、この二人の閉塞的な関係の中で外に開かれた扉のように感じさせる。クリスが獣医と出かけるコペンハーゲンで回転寿司を食べるというのも外の世界への扉として描かれているようだ。とはいえ叔父との食事の間、彼女の方はひたすら「数独」の本に顔を埋めているというのも、この二人の気持ちのすれ違いというよりすれ違っていることを見ないようにしている態度だと思われる。そして衝撃的な最後、獣医の講演に誘われともにコペンハーゲンへ2泊の旅に出た間に叔父が倒れ入院、見舞いに来た青年との間にも齟齬が生じ彼は実家を出て希望の道に歩みだす(らしい)…という事件のあと叔父との食卓で、ニュースの音が途切れ立ち上がって様子を見る叔父の目の前にあるのはTVではなく大きな冷蔵庫(とそのうえのラジオ?これははっきり見えなかった)―つまりもともとTVはなく叔父の眼のむけられた世界は幻影で、それを見ようとしない彼女はずーーとこの二人だけの世界にいたのか…とにかくこんな描き方。固定カメラで同じ状況を繰り返しながら少しずつ気持ちの変化が見えていく台所シーンや牧舎シーン、一つ一つに神経が行き届いた、すごく地味なんだけれど雄弁な作品でずっと画面にひきつけられっぱなしであった。(2月1日 アップリンク吉祥寺 30)
③ハッピー・バースデイ 家族のいる時間(Fête de Famile)
監督:セドリック・カーン 出演:カトリーヌ・ドヌーブ エマニュエル・ベルコ ヴァンサン・マケーニュ セドリック・カーン 2019フランス 101分 ★★
70歳になる一家の主婦アンドレアの誕生日を祝い長男ヴァンサン一家や、次男ロマンとその恋人が集まって庭でパーティ準備をしているところに雨、そこに突然の電話でアメリカに行ったまま3年間行方も分からなかった長女クレールが近くまで帰ってきているので車で迎えに来てくれということで長男が迎えに行くところから…。
帰ってきた長女は歓迎されるが、この家に預けられて育った娘エマのボーイフレンド・ジュリアンが黒人であることに不満を示し、こっそりと何やらの包みを本棚の本の後ろに隠すなど波風を立てそうな動き。そして始まったパーティ席上では「この家を売る」という話をはじめ、一家特に長男夫婦は驚く。実はこの長女は母親の先夫との娘で、11,2歳で父親を亡くしその遺産を相続した。母アンドレアはやがて今の夫ジャンと結婚し、長男・次男が生まれたというわけだが、この家を買い戻すときアンドレア夫妻は娘のクレールから遺産を借りて買ったという経緯がやがてあきらかになる。クレールは自分が新しい仕事を始めるのに必要と家の取り分20万ユーロを要求し、すぐに元同級生の兄という不動産屋を連れてきて査定を始める。それにいとも簡単に同意、家を売るというのが母アンドレアで特に長男夫婦は一種恐慌に陥る。長女は実は精神的に不安定で入退院を繰り返してきたようで、アメリカで同居していた恋人のポールともケンカになって母親の宝石を持ち出し5か月も前に行方不明になっていたということがアメリカへの電話で判明する。クレールが本棚に隠した包みはその宝石だった。一方映画監督を目指しているという次男は恋人同伴だが、二人の間もケンカが絶えず、帰ると言って出ていった恋人を次男ロマンは兄の車を借りて駅まで送りながら説得し、切れた大麻を入手、ハイになって帰り道で出合い頭の衝突事故を起こす。しかし彼自身は自分の車でないというので事故証明も出さず、相手に兄の電話番号を教えて帰ってきてしまうという体たらくで、修理費も自分は借金があるから払えないといい、これはもう長男としてはたまったものではないなあと思うし、実際にケンカも起こるのだが、まあなんと忍耐強い長男よ(ストレスがたまりそうな設定の、この長男は監督自身が演じている)。
なんとかその場もおさまり、午後はエマと、ヴァンサンの二人の息子がジュリアンのピアノ伴奏で演じるあたかもこの一家を象徴するような劇を全員で鑑賞、打ち解けた夕飯の席でクレールはしばらくこの家に住むと言い出し、アンドレアは歓迎するが、今度は娘エマがクレールが戻るなら自分は出ていくと言い出す…というわけですったもんだの後、クレールは入院し、ロマンが実はクレールを数か月にわたってかくまっていたことがわかり一家はまたまた…が最後にエマ・ジュリアンと二人の少年の心のこもった行為で、まあ一応穏やかに一家の饗宴は幕を閉じ、さらのそのあと付け足し映像みたいにクレールとロマンの遊びじみた映画撮影シーンも出てきて大人らしい穏やかな終わり方を映画はするのであるが…。
カトリーヌ・ドヌーブの老母役は、昨年来『アンティークの祝祭』(2019ジュリー・ベルトゥリチリ)『真実』(2019是枝裕和)と見てきてこれが3本目だが、前2者がいずれも娘と相容れないような葛藤を抱えているのに対し、この映画では娘の葛藤は母というよりこの一家に向かい、母は娘を受け容れ、この一家に娘側から采配を振るうというような、しかし表面上は今までで一番普通の主婦であり母であるというような、ある意味難しい役どころとも思われたが、さすが、で極めて存在感のある演技で、勝手な家族と受け入れることに苦悩するような息子の非現実を私たちに納得させてしまう。エマニュエル・ベルコの自分勝手な狂乱ぶりのすさまじさもさすが…。二人の息子が何ともいい子たちで子どもらしいふるまいをするが、こんな過程であんな穏やかに素直な子が育つものかしらーまあ長男夫婦の息子なので普段は穏やかな暮らしをしているのか―と思えないこともないが。(2月3日 恵比寿ガーデンシネマ 31)
④天空の結婚式
監督:アレッサンドロ・ジェノヴェージ 出演:ディエゴ・アバタントゥオーノ モニカ・ヴェリトーレ サルヴァトーレ・エスポジスト クリスティアーノ・カッカモ 2018イタリア 90分
舞台となっている天空の城チヴィタ・ディ・バニョレージョに行ったのはちょうど3年前の今頃(2018年冬2月)寒くて天気もあまりよくなくて,人けもほとんどない感じで今回この映画のイタリアっぽい?明るさとは全然別の所みたいだったが、でもよかった…というわけで映画も楽しみに見に行ったが、ウーン、結構予想に反してあまりイタリアっぽくないというかインド・マサラムービーみたいな感じで歌や踊りが入り、でも『マンマ・ミーア』ほどの娯楽的な洗練はなく、まあ息子がゲイであることや恋人との結婚を認め、盛大な結婚式をさせようともくろむ母親の開明ぶりは現代だな…とは思うが、頑固な父親(仲代達也似?の村長)と離婚してもというのは??だし、父親が最後は息子を認め村長として式を取り仕切る過程もウーン、全然納得できない(村の重要な建物である古い教会が突然火事に、息子と婚約者が燃える教会の中にいた父を助け出しって…それ?何?火をつけたのは父親?それとも父親はキリスト像を助けに入った?)いったんは息子を拒否したナポリに住む婚約者の母が、招待状1通にほだされて突然結婚式に現れるというのもウーン。そして絡む人物がみな多かれ少なかれ神経症的というかちょっとエキセントリックな行動をとるのに常識的な周りがほだされていく?という描き方も。これはこれでもいいのかもしれないが今までにたくさん見たイタリア映画っぽさ(洗練・感嘆・情感・それに理屈っぽさも少し)がないのはなぜ?という感じ。(2月3日 恵比寿ガーデンシネマ 32)
⑤天国にちがいない
監督・脚本・主演:エリア・スレイマン 出演:ガエル・ガルシア・ベルナル タリク・コプティ アリ・スレイマン
2019仏・独・カタール・カナダ・トルコ・パレスチナ (英語・仏語・アラビア語・スペイン語)102分
作者スレイマン自身が主人公であり無言の語り手(視点人物)である。パレスチナ・ナザレの自宅では庭のレモンを勝手に取り入れ剪定する「隣人」と称する男、街に出ると何やらわからない黒ずくめの青年集団があたかも襲い掛かるような雰囲気でおどかすようにすれ違う、そんな不穏というか不条理な雰囲気で始まり…作品の新企画を売り込みにパリに向かうと、だれも動じない揺れる飛行機、街を走る戦車、炊き出しの長い行列、果ては公園のベンチ(椅子)を取り合い、老いて杖をついた人が椅子に向かって進む目前でその椅子をさらう若い自転車の男とか、なんか背筋がぞわっとするような光景。スレイマンは「作品にパレスチナ色が足りない」として企画を断られるのだがー多分製作者のいう(混乱・戦乱の)「パレスチナ色」などというものがあるのか?と思わせられるような光景は次のニューヨークでもしかりで、最初に乗ったタクシーの運転手はパレスチナ人を始めて乗せたとあたかも珍獣でもみるような反応、買い物をしてスーパーを出ると人々が老いも若いも子供まで皆銃器を背負い歩いている(すごい、皮肉だね、これなんて…)セントラルパークでは翼をつけた天使を警官が追い回し(すごく戯画化したのろのろの走りなのだが)大勢で捕まえるシーンに遭遇。この時同時進行で部屋でPC仕事をする手元に飛び込んで捕まえた小鳥がPCの上に飛び乗るのをスレイマン自身が何度もそっと払いのけたあとで窓から逃がすシーンの、ニューヨーク人対比のやさしさが印象に残る。作品売込みは、友人(これがガエル・ガルシア・ベルナル、オジサンっぽくなったせいかロングショットのせいか全然わからなかった)が紹介してくれるも相手にもされない感じで、結局ナザレに戻ってくると自宅の庭では相変わらず「隣人」がレモンツリーの水やりに余念なく…という感じで淡々静かに皮肉と寓意に彩られた100分あまり。天国は結局どこにもないのね…と静かに思い知らされる大人の1編。(2月5日 キノシネマ立川 33)
⑥フリーダ・カーロに魅せられて(アート・オン・スクリーン)
プロデュース:フィル・グラブスキー 90分
美術展をみるのは結構好き、TVの日曜美術館などもほぼ欠かさず見ていて美術映像も割合好き、なのだけれど、『ダ・ヴィンチ』『ピカソ』そしてこの『フリーダ・カーロ』と3本同時公開になったこのドキュメンタリー・シリーズ、なんと特別料金で1本2000円、えー?なんで?そんなにお金がかかっているのかな?とちょっと見る気は半減したのだが、とりあえずどんなものか1本だけは見ておこうかと時間の合ったこれを見る。ウーン。フリーダ・カーロ自身(昔劇映画にもなっていた、確か見た)興味ある存在だと思うし、絵もなかなか面白いのだが、映画はなぜかあまり吸引力がない。ただ並べてそれぞれについてキュレーターとかが語っているからかなあ。今回見たのは立川の小劇場・小画面だったので、それならば美術館で見るのと迫力的には変わらず、こういうのは大画面(本当に大きなスクリーンで)みると、また印象が違うかもしれないとは思った。確かにその画家のさまざまな作品を一堂に会したという形で見ていけるのは楽しみではあるが、あ、画集でもそれなら十分だし…。(2月5日 キノシネマ立川 34)
⑦ヤクザと家族
監督:藤井道人 出演:綾野剛 舘ひろし 寺島しのぶ 尾野真千子 磯村優斗 北村有起哉 市原隼人 岩松了 豊原功補 駿河太郎 2021 日本 136分 ★
3つの時代20年を同じ役者が演じているーそれぞれにちゃんと20年分年を取っているのはさすが。特に綾野剛の若いチンピラぶりースタントなしで暴力アクションや車にはねられるシーンも演じたとか聞いた気がするーは特筆もの?さて内容としては99年、街を闊歩するチンピラ青年が柴咲組の親分に拾われ父子の契りを結ぶ。2005年いっぱしの若い顔役?になった彼が対立・抗争する組の者を刺した兄貴分の身代わりになり服役する。このとき好きだった女性のもとに傷を負って転がり込み一夜を過ごした後300万円を置いて警察に。そして14年後満期で刑務所を出てくると…。2012年暴対法の影響で組は縮小、昔の若い仲間は苦労して産廃などの仕事をしていて、ヤクザとのかかわりを避けようとする。親分はガンで闘病中、兄貴分は組を存続させるために昔は手を出さないことにしていた覚醒剤取引をしている。かつての恋人はシングルマザーとして役所勤め中学生の娘(つまり主人公の娘)を育てている。そしてかつて母の手一つで育てられ、組の面々にかわいがられた小学生はいっぱしのチンピラ?になり「ヤクザではない」と広言しつつ地元の飲食店の管理というかみかじめ料の取り立てなどをしているーこれだけはさすが小学生のままとはいかず、役者が変わって磯村優斗が演じているが、金髪で派手なブルゾンなどをまとった姿は20年前の綾野の主人公を彷彿させるような作りになっていて、ヤクザをパートナーとしたばかりにシングルマザーとして子育てをする女性とともに、この映画の「繰り返し」の構造を予感させ―実際に最後のシーンでは主人公が死んだ岸壁で娘と若者が出会うという、さらなる繰り返しを感じさせそうな構造になっている。
さて、映画としては刑務所を出たあとヤクザの組織に戻るももはやそこに昔のような義理や男気の世界はなく、彼自身のみならず、かつてヤクザとしてかかわっていた周りの人々をも含め不幸にし、みずからもヤクザの家族的な世界には心を惹かれつつ、ヤクザでしのぎを削ろうというところでははっきりしないままに、堅気になったはずのかつての弟分に「戻ってきたことによって自分たちを不幸にした」と報復されてしまう(まさに弟分がここでヤクザに戻るわけ)というつらい後半生を描くわけだが…。その苦悩とか人間関係はヤクザ映画というより社会派人情劇だし、ではヤクザ映画部分はどうかというと家族的義理人情を重んじる父のような親分という以外は、まったくもうヤクザ抗争そのもので類型的なヤクザ映画?だが、その登場人物にかつて高倉健演じた主人公のようなオーラがあるわけでなく、暴対法や、それを笠に着て悪徳まがいの行為も辞さない警察官と科にどんどん押されていく世界としてしか描かかれていないーだからヤクザ映画を見ようと思わなければそれなりに主人公の悲劇として納得できる。と、まあそんな作品だった。画面も前半ヤクザ世界が描かれる場面はシネスコ(だが、どうしてかTOHOシネマズこの劇場はスクリーン全体にではなく周りに余白を作って小画面?)だが後半は主人公の閉塞的状態を示すのだろうビスタサイズに変わって、うーん。これって効果があるのかな?意味を考えさせられ、どこでまたシネスコになるのかも考えさせられ案外疲れた。画面サイズに頼らなくてもちゃんと内容で訴えかける勝負できる映画という気がする。(2月6日 府中TOHOシネマズ 35)
➇ウォーデン 消えた死刑囚
監督:ニマ・ジャヴディ 出演:ナヴィッド・モハマドサデー パリナース・イザドヤール 2019イラン 90分 ★★
1966年、空港建設のための立ち退きをすることになったイラン南部の刑務所の引っ越しの1日。移転先の新しい刑務所での絞首台設計を迫られて渋る囚人のようすから。報酬を与えることを盾に強引に迫る所長の少佐は、上司からこの移転任務のあと別の警察署長職への出世をほのめかされ心が動いている。という中で移転後囚人を数えると1人足りない、それも3週間後に処刑予定の死刑囚であるということが判明する。少佐が心惹かれているソーシャル・ワーカーが囚人の情報を持ち赤い車でやってくるが、彼女は囚人の無実を訴えもする。ここで囚人がいなくなれば自分の出世もなくなると必死ながら、彼女に心惹かれてちょっと眉を整え恰好をつけたりする所長のなんかパリッとした見かけに似合わない愛嬌というか憎めなさが出色で、ナヴィッド・モハマドサデーが吸引力を発揮する。あとは降ったりやんだりの天気、逃げるのを見たという囚人が現れたり、外から囚人の妻と娘が彼を探してきたり、独房に少佐自身が閉じ込められたり、何やかやと所内での捜索が続く。ソーシャル・ワーカーの不穏な行動もあったりして所長は切れて彼女を追い出すが…。終わりの方は一策を案じ、いったん引き上げると見せて車を出した所長・看守の一行が途中で引き返すと案の定逃亡囚人?の影が刑務所の入り口あたりにちらりと見え、再び一行は刑務所の門前に。そこに上司がやってきて所長に新しい任務の辞令を渡す。すると…終わりは一種のカーチェイス、最後は囚人自身の視点にカメラは移り、いわば大団円というわけだが、宣伝されたようなミステリー的展開の妙というよりも、所長の格好つけ、上昇志向、その中に潜む人間性というか人間的愛嬌?そういう性格の卑小性のようなものをしっかり見せた人間ドラマ的な様相が、私にはとても面白く感じられた。ツンとしながら焦り、時にぼろを出すという感じの美しいソーシャル・ワーカーも面白い。絞首台設計を言われた囚人は結局どうしても引き受けず、旧刑務所の絞首台が移転していくことになるが、これが物語に大きな役割をしているわけで、最初と終わりもうまく照合されるわけだ。(2月8日 新宿K'sシネマ 36)
⑨ジャスト6・5 闘いの証
監督:サイード・ルスタイ 出演:ペイマン・モハディ ナヴィッド・モハマドサデー ファルド・アスラニ パリナーズ・イザドヤール 2019イラン 131分 ★★
いやあ。これはまた迫力満点(なにしろ出演者たちの顔が「濃い」事も含め)、イランの麻薬取締を描いた「娯楽」?映画。初っ端は麻薬取締官たちが家宅捜索に出向くが何枚ものドアをけ破り裏口に出てしまうというオカシサの上に見つけた怪しい人影を追う取締官(ハミド。子どもを麻薬取引の大物ナセルに殺されたとして私怨も持っている)との街中の延々5分くらい?に渡る追いつ追われつの果てに、とんでもない結末(犯人が金網を越えて飛び降りた先は工事の大きな穴。そこから這い出ることができぬまま、気づかぬブルドーザーが上から土砂を放り込む…。犯人行方不明捨てた麻薬のみを拾ったということでハミドは後々疑われることに)次は土管群にたむろす貧しい麻薬依存者の群れを警官たちが大挙して拘引するという群衆なだれ込み的シーン。この人々が連れていかれるすし詰めの留置場が次の舞台の一つの中心になる。
ハミドのライバル的存在でもある部長刑事サマドがこの映画のいわば主人公で、麻薬界の大物ナセルの検挙に血道をあげ、空港で捕まえた売人からその姪でナセルの元彼女を追求、ナセルの高級マンションに踏み込む。そこではナセルが睡眠薬を大量に飲みプールに沈みかけている。それを救い揚げ拘束。彼も例の留置所に放り込まれることに。後はナセルの助かるためのあれやこれやの画策、それの乗っかったふりをしつつ、翻弄もされていくサマドやハミドたち。そこに障害を持つ貧しい親が子どもを売るがごとくに罪を着せて助かろうとしたりなどのエピソードなども盛り込まれ、ともかくナセルは判事によって死刑ということになる。
ナセルは家族を貧困から救うために麻薬商売に精を出し、その結果両親をスラムから救い出し、甥や姪を海外に留学させ、幼い甥をスポーツ教室に通わせなどが明らかになる。ハミドの子どもを殺したのは自分ではないジャポネだと言い張るシーンも(ジャポネとは日本との麻薬取引をしているギャングで、日本は麻薬の好市場なのだという言葉も出てくるショック…)死刑が決まった彼のもとに親族一同が泣きながら面会に来て、甥っ子は側転やバク転を見せ、弟はオレが麻薬商売を引き継ぐとして情報を求めるという…人情モノ的な場面にプラスされる凄みというかコワさも。そして10人以上が並んでの絞首刑シーン。サマドが自分は警察をやめるとハミドに言うのが最後。なぜならナセルを捕まえれば麻薬は撲滅できるかと思ったが、実際には100万人だった依存者が650万にに増えているからだーこれが「ジャスト6.5」というタイトルの由来らしいーウーン日本も絡んで?繰り返され増殖していく麻薬汚染の恐怖とそれゆえの撲滅のむなしさだなあ。とにかく、圧倒されるような場面の暑苦しさ息苦しさも含め見ごたえのある、息もつかせないような1本でした。(2月8日 新宿K'sシネマ 37)
⑩花束みたいな恋をした
監督:土井裕泰 脚本:坂元裕二 出演:菅田将暉 有村架純 韓英恵 オダギリジョー 2021日本 124分
ウーン。出だし2020年?のカフェで一つのイヤホンを二人で聞きあう恋人を見て「あの二人は音楽好きではない。LとRから出る音は違う」とそれぞれの連れに蘊蓄を垂れる主人公麦(菅田)と絹(有村)。その知ったふうな言い方がなんか感じ悪いなあ、と思ううちに二人はそれぞれ連れとともに立ち上がりでていく。そこから5年前に戻り、明大前で終電に遅れ、一夜を共に過ごすことになった彼ら二人を含む4人。喫茶店で押井守(本人)がいるのを目ざとく見つける麦。絹も気づくが他の2人は映画の話から『魔女の宅急便』の実写へと話が移りしらける二人。そして二人はそのあとの居酒屋で互いの趣味の一致に盛り上がるということで、この趣味は2015年当時の実在の作家とか展覧会とか店とかに及び、二人の蘊蓄合戦と気の合い方がこの物語の恋愛成立の一つの芯になっているわけだが、なんとも排他的に二人ともべらべらしゃべり、それがちょっと嫌な感じ。こういう若者はまあいつの時代にもいるし、恋愛はそもそも排他的なものなのだろうということをまずは納得しないと映画の世界に入り込めない?とはいえ押井守本人まで出すのはちょっと悪趣味じゃないかなあ。で後は二人の仲がどんどん進み飛田給の実家に両親と住む絹は調布の麦のアパートに入り浸り、大学卒業後はイラストレーターを目指す麦と就職活動をするが思ったようにいかない絹はやがて調布駅から徒歩30分の多摩川べりのマンションを借りて同棲をはじめる。二人は卒業してフリーターになるが生活苦もあり、「自分の望む生活をするために」就活を再開、まずは簿記の検定をとった絹が事務職に、麦も営業職のサラリーマンとなる。不本意な仕事の中でやがて絹は転職しイベント業に。一方営業職に邁進する麦は疲れながらも仕事に打ち込みイラストも書けなくなり、学生時代からの志向を崩さない絹を批判するようになる…ということで二人が分かれるまでの5年間をその後も含め、流れとしてはまあ、普通の恋愛の行く末、という感じなのだが、いかにも若気の至り…という感じの二人の性格造形も含め、なかなかに繊細かつ興味を引くようなトピックもちりばめながら、そんなに長さを感じさせずに仕上がっているのはさすがの話題作だった。Googleマップのストリート・ビュウを見ていると自分の姿が写っているとして麦が驚喜する場面(最後のまた繰り返される)があるけれど、そんな偶然まあストリートビュウに人が写っていることもあるからないわけではないんだろうけどね、あるのかな? (2月9日 府中TOHOシネマズ 38)
⑪草原の風船
監督:ペマ・ツェティン 出演:ソナム・ワンモ ジンバ ヤンシクツォ 2019中国 102分 ★★★
2019年11月東京フィルメックスで「気球」という原題で鑑賞済み。結構どの場面も印象に残っていたが、新しい発見もあるかもと、立川にて再鑑賞。いや基本的には元の印象のままだが、面白いと思ったのは画面サイズ(ワイドでなく、ビスタでもなくその中間?確認するとビスタみたいだが、そうかな、不思議な画面の広さを感じる)そして折々の場面で真ん中を分断するような感じで区切る柱だったりストーブの煙突だったり。その向こう側で行われる会話や動作が示唆的に表れる、結構凝ったというか現代アート風なしつらえになっているのだということ。物語では前回見て「妹が中絶経験がある」としたが、そうでもないかもしれない(妊娠経験があってコンドームが何なのかを知らないということがあろうか??)、妻は「中絶したかしてないのかはあいまい」としたが、こちらはやはり中絶したのだろう…そうみると妻と妹のお寺参りはもちろん、家族の男たちが祖父の転生が失われたと知りつつ黙って彼女の行為を受け容れている悲しい諦念が伝わってくるように思われる。草原の描写空の青さ、赤い風船、羊たちの種付けシーンなどが目に沁みすべてこの映画の方向性を一つにまとめている。一昨年の映画日記は以下に掲載(11月㉒)
http://miekobayashi01.blogspot.com/2019/12/20.html
(2月11日 キノシネマ立川 39)
⑫秘密への招待状
監督:バート・フレインドリッチ 出演:ジュリアン・ウィリアムズ ビリー・クラダップ アビー・クラダップ 2019米 112分
きれいだけれどふっくりと中年化した感じのミッシェル・ウィリアムズ、少し老いて?顔がちょっと凸凹ごつごつしてきたジュリアン・ムーアのタグマッチという感じの一作。もともとはデンマーク映画『アフター・ウェディング』(2006 スザンネ・ビ 見たかなあ?多分見ていない?)のハリウッド版リメーク。デンマーク版の男性二人の主人公は女性に変えられている。インドで孤児院経営をするイザベルが多額の寄付をしてくれるという会社経営者テレサに寄付の条件として求められてニューヨーク訪問、そこでさらに経営者の娘の結婚式への出席を求められ、テレサの夫が自分の昔の恋人であり、結婚する娘が二人の間に生まれて育てられず養女に出したと思っていた娘であることを知るーという話。ここまではイザベルはともかく、わざわざ娘の母親を探し出して寄付をし、結婚式にも出させというテレサの真意がわかりにくいというか、むしろ不自然にも感じられるのだが、実はテレサにはもう一つ大きな秘密があったという展開―ウーンやっぱり結構俗っぽい展開だなあ。元のデンマーク映画では西洋人・価値観と対置するインドの貧困、その中にいる主人公の対西洋的ないら立ちなども描かれたらしいが、こちらの場合は、イザベルの服装とか行動に多少はその気配は感じられるものの、すっきりした金髪のラフではあるがおしゃれな姿の彼女のテレサへの反発は(強引な態度に対する反発を別にすれば)なんとなく風俗的な域を出ない感じもして、ニューヨークの富豪生活ばかりが目立つ感じもしないでもない。『死にたくない。まだ早い』と夫の胸にすがって号泣するジュリアン・ムーアの捨て身っぽい演技はさすが!だけれど。(2月11日 キノシネマ立川 40)
⑬すばらしき世界
監督:西川美和 出演:役所広司 仲野大河 六角精児 北村有起哉 橋爪功 梶芽衣子 白竜 キムラ緑子 長澤まさみ
安田成美 原作:佐木隆三『身分帳』 2021日本 126分 ★★
14歳で少年院に入ったのを皮切りに、出たり入ったりで20年余りを刑務所で暮らした三上正夫が13年の刑期を終えて出所し、「社会」にどう居場所を見つけていくのかという物語。幼い時に母に施設に置き去りにされ、そこから脱走して以来暴力団に拾われたり、かといってそこで幹部になるような生き方をするわけでもなく、ある種のマジメさと正義感を持つが、直情的で怒りを抑えられず短絡的な暴力行為に走るいっぽう、何十年も生き別れた母を恋い母探しをするという言葉にひかされて犯罪者の更生を描こうとするTVへの出演を承諾するなど、気のいい幼児性ともいえる一面をもつ人物を役所広司、さすがの体当たり的?演技で観客に共感をいだかせるような演じ方がすごい。
作家志望の売れないTVディレクターは、上司の敏腕ディレクターに与えらえた三上の「身分帳」を材料に彼に近づき母探しを持ち掛け取材をするが、時に彼の怒鳴りや、正義感からとはいえ相手を殺しかねないほどの怒りや暴力の発露に驚かされ恐れつつもだんだんと彼にひかれていく。彼を取り巻く人々は基本的には善意の人なのだが、それぞれにエゴの現れる二面性も見せ、そういうときに前半の三上は荒れる。高血圧症で時に倒れながらごも職探しをするが、獄中で覚えた剣道の防具つくりのミシン職などが生かせる仕事はなく、失効したままの免許を一発試験で取り返そうとするがまったくうまくいかず、不承不承の生活保護暮らし。しかし、万引きを間違われたスーパーの店長はその後何かと気にかけてくれ、身元引受人の夫婦や、途中に逃げ出し九州の愛に行った元のヤクザ時代の弟分夫婦も好意で迎えてくれ、しかし彼らが摘発される場面に遭遇し、東京に舞い戻るーここらあたり『ヤクザと家族』でも出てきた暴対法の結果がチラリとでてきたりするー一生懸命の姿勢は生保のケースワーカーの新しい提案を引き出し、彼は介護施設に就職することになるが、元受刑者や障碍者を職員として受け入れているというこの施設で少々知的な遅れがあるらしい青年を介護士の同僚青年が、知的な問題ゆえに行き届かない行為をしたことを理由にひどくいじめているのに遭遇し、しかもその同僚が入居者に見せる優しい誠実な姿勢をも見、-このあたり目を見開き苦しみに耐えつつ自分の正義の意思―暴力的行為をおさえようとする主人公が真に迫って身につまされるような演じられ方。そして嵐の前いじめられていた青年が自分の仕事として、コスモスが倒れる前にと刈り取り三上にも分け与えるという好意を示すーコスモスを自転車のかごに積み、帰宅して雨に濡れる洗濯物を取り入れる三上、しかし二階の窓辺の洗濯物は半分取り入れられたところであけ放しの窓からカーテンが吹き出されるーあ〜という実にうまい終わり方(予想通りにおわる)だれもが持つ二面性と、悪意も持たないわけではない人の善意の部分によって、主人公も自らを社会の中に生かせるように(それはいじめられている青年をその場で助けないという行為だが、しかしそれで青年は救われないのでなく青年自身の自律性によって主人公に花を与えるという行為をするわけだ)なっていくという、それゆえここは素晴らしい世界?終わりに空を見上げる身元引受人夫妻、ケースワーカー、スーパー店長、そしてTVディレクターの姿にそれが象徴されているようだ。(2月14日 府中TOHOシネマズ 41)
⑭ブリング・ミー・ホーム 尋ね人
監督:キム・スンウ 出演:イ・ヨンエ ユ・ジェミョン パク・ヘジュン 2019韓国 108分 ★
誘拐された子を探す親の話ということで言えば、一時中国でもビッキー・チャオ・黄渤主演の『親愛的(最愛の子)』(2014陳可辛)アンディ・ラウが中国中をバイクで走りまわって子探しをする『失孤』(2015彭三源)などがあったけれど、韓国でも同じような問題があるのだろうか…。この映画には複数の誘拐され半監禁状態で労働に従事させられる小学生年齢の子どもが出てくるが、物語は自分の子どもが行方不明になって、必死に探し求める母を描きつつ、それよりも彼女が子どもを働かせている事業主や、彼らに賄賂をもらっている警察署長らを向こうに回して子どもを救い出そうとする大アクション部分に主眼があるような感じがする。とはいえ、彼女が子どもがいるという情報を聞いて自ら一人でその海辺の漁場を訪ねる過程については、非情・残酷さも含め丁寧に伏線を張っていて納得ができるー子供のいたずら情報電話により探しに行った夫が交通事故死、同情を表し寄ってきた夫の弟夫婦が実は入ってくる保険金目当てで、ヒロインのスマホにかかってきた情報を横取りして情報を売ろうとするーなんかこのあたりはやりすぎのあざとさという気もしたが、要はヒロインが孤独に追い詰められ暴力も使いながら子どもを救う行動に出る必然というものを裏付けているのだろう。義弟にもたらされた子供の情報が、ヒロインに届くところで微妙に脚色される(副爪があるかないか)そしてそれが最後近い場面海にさらわれなくなった子どもをヒロインが見つけ出す場面でドラマティックにいきてくるところなど、あー、なかなかに凝った脚本で娯楽色を出しているんだなと、感心。とはいえあれだけの大騒ぎ死傷者を出した事件の後始末がどうなったのか…2年後のヒロイン(と助けられた自分の子ではない子)が幸せそうなのは、ちょっとそこまでの細かい伏線の貼り方からみるとウソっぽいという感じがしなくもないのだが。(2月15日 下高井戸シネマ 42)
⑮劇場版 殺意の道程
監督:住田崇 脚本:バカリズム 出演:井浦新 バカリズム 堀田真由 佐久間由衣 鶴見辰吾 河合我聞 2021日本120分 ★★
wowowのドラマを劇場版に再編集したというが、TVドラマの方は未見。チラシの写真でみると従兄弟といっても違和感がないように似た雰囲気を醸し出している一馬(井浦)・満(バカリズム)が、一馬の父を自殺に陥れた室岡への復讐殺人を計画するというわけだが、復讐プロジェクト結成のための相談場所探し(ふたりとも自宅に人を招くのがキライ)、相談場所にしたガストでのメニュー選び、そして場所を移して親友の仕事場でのキャバクラ嬢このはとの出会い、彼女のアドバイスで苺フェアという名称が決まるまで、さらに殺人方法の検討や、その道具を買いにホームセンターに行く場面でのあれこれな、張り込み中に買い込んだクリームチーズパンのエピソードなど、ある意味殺人プロジェクトからみたら枝葉末節的な細かい会話が二人の性格やこだわりを映し出しながら、笑いを誘いつつ、この殺人どこに行くのだろう…と話が進んでいく面白さ。途中このはの同僚で占いが得意なゆずきも加わり、なんかシュールにして一つ一つは妙にリアリティもある会話の妙であきさせない。そして…このはの示唆で殺人方法が定まりリハーサルまでしたところで、その方法が父の自殺にも当てはまることに一馬は気づき…、。物語は突然に荒唐無稽的なというかドラマティック?なというか寓話的なというか展開になだれ込みハッピーエンド。いや、さすがにうまい作劇。井浦始め登場人物の大真面目な外し?演技にも楽しまされ、二人のキャバクラ嬢の造形も面白く飽きずに楽しんだ2時間であった。(2月16日 渋谷アップリンク43)
⑯聖なる犯罪者
監督:ヤン・コマサ 出演:パトルシュ・ビイエレニア エリーザ・リチュムブル 2019仏・ポーランド 115分
少年院を仮退所した青年が、就職のために訪れた田舎の村でひょんなことからあこがれていた(しかし犯罪者には資格がないとされた)司祭となり、村人のために寛容の心を持って働くという物語。トレーラーの主演男優のちょっと爬虫類っぽい?風貌に腰が引け、けっこうおどろおどろしい結末かなとも思いつつ恐る恐る見た感があるが、意外に役者は人好きしそうな風貌で、最初と最後の少年院場面を除いては暴力場面もなく、最後は村人に主人公が化けの皮をはがされるというような展開にもならず、主人公は自ら殉教者のごとく聖衣を脱ぎ捨て刺青の裸体をさらして教会の外に歩み去るーそのあとは壮絶な少年院生活に戻るわけだが村人たちは立場を越えて彼の残した寛容的社会に身を置いている様子、あるいは彼の去った村から去っていく様子が描かれ、彼の行為が果たして悪だったのかどうかということが、彼自身が村にいる間に果たした仕事の描写と合わせ観客に問いかけるような、そして最後ボロボロにやられて世界に放り出され彷徨う主人公がキリストのメタファーにも見えてくるような、古い田舎の村の伝統の上に近代の思想や感覚がかぶっているような不思議な感じの満ちた映画だった。間接的にはやはりこの映画はキリスト教の不寛容を批判しているのであろう。(2月17日 新宿武蔵野館 44)
⑰佐々木、イン、マイマイン
監督:内山拓也 出演:藤原季節 細川岳 萩原みのり 遊屋慎太郎 森優作 小西桜子 村上虹郎 2020日本 119分
昨年の東京国際映画祭での話題作でその後わりとすぐに劇場公開されたと思うのだが、年を越え、延々と、特に内田拓也監督がかつて働いていたという武蔵野館での1回上映が続いている。いよいよ月末までだというし、ま、話題作(友人が見てすごくよかったという声も聞いた)なので、時間を合わせて見る。ウーン。27歳、演劇をしているがまだ何者にもなれず、別れた元彼女ともいつまでも同棲を続けているというはっきりしない煮え切らない感じの青年が、高校時代ヒーローだった「佐々木」と共通の友人に再会したことから佐々木を回想し、やがてその死の知らせに甲府に駆けつける…。物語的に大きな展開があるのは佐々木の死だけで、友人との出会いも芝居の状況もどちらかといえばいかにも舞台調のセリフ回しで語られるナレーションとともに「語られて」いる感じで、その青春像は全く鮮烈とはいいがたいし、佐々木はヒーローだというが、中高年的視点からはただの腕白・だらだら小僧にしか見えないし、特に新しい青春像や人生観が描かれているとはみえない。いつの時代も青春なんてそんなに変わらない?とは思いつつも、この映画に描かれる「貧しい青年」の行動はどう見ても飽食の時代に無駄に物を持ちあがいているという風にしか見えずーそれもなんだかな…という感じ。(2月17日 新宿武蔵野館45)
⑱ファースト・ラブ
監督:堤幸彦 出演:北川景子 中村倫也 芳根京子 窪塚洋介 2021日本 119分
トレーラーでは芳根京子の環奈のエキセントリックさが強調されている感じで、そういうもので吸引する映画への抵抗感もあり見に行くつもりはあまりなかったのだがネットでレヴューをよむと結構絶賛という感じだし、島本理生の直木賞受賞作が原作ーならば原作はしっかりしているのだろうとも思い結局遠出する気もしないあいてる休日午後見に行く。
で、結論的には映画は環奈よりもどちらかというと臨床心理士・由紀(映画の中では「公認心理師」となっているが、こうなるとなんか胡散臭げな職業という感じだなあ…それも腰が引けた原因)と、特に弁護士迦葉二人の過去や、それぞれが抱える子供時代のトラウマにより重点が置かれてそれゆえ環奈の状況が解明されていくという描き方になっている(特に迦葉の従兄にして由紀の夫である我聞の描き方のそれが端的に表れている感じで、そのようなトラウマに流されず明るくおだやかに生きていく寛容性をもつ我聞という人物が原作に比べより強調されていて、この映画の結末に原作にはない映画的な視点とそれゆえの幸福感を与えている)。
実は未読の原作をこの映画を見てすぐに読んだ。そういう気にさせられる映画の出来だったのだ。映画は原作の流れを大筋ではたどりつつ、登場人物を整理し(たとえば環奈の親友はでてこない)、また事件を視覚的に創造する(由紀が車の前で倒れ入院して、我聞と話し合い涙する場面とか)ある程度単純化視覚化するという原作準拠の映画作りの見本みたいな、その意味ではとてもよくできた作品だなあと思えた。ただ、原作では割とすっきり理解できる環奈への判決は映画では??(そこに至る過程が結構省略されている感じで)という気がして、その意味では少し物足りなさというか割り切れないところも残ったような気がする。(2月18日 府中TOHOシネマズ 46)
⑲世界で一番しあわせな食堂
監督:ミカ・カウリスマキ 出演:アンナ=マイヤ・トゥオッコ チュウ ・パックホン カリ・ヴァ―ナネン ルーカス・スアン 2019フィンランド・英・中 114分
フィンランドの田舎町、地元の人は来るもののあまりおいしいとは言えない食堂を一人営むアンナ。そこにある日親子連れの中国人が人を訊ねてバスから下り立つ。尋ね人はアンナにも地元の客たちにも心当たりがない(実は中国人が正しく発音できなかったというーこれは距離感を表しているのだろう)が、アンナは子連れの客にあいている部屋への宿泊を提供して親切にする。そこに偶然現れ食事提供を要求する中国人ツアー(というかこれもこのフィンランドの地への中国人進出の表象?)。中国人チェンは急遽中国麺を提供し客には喜ばれ、さびれていた店には久々の高収入をもたらす。というわけであとは予定調和的に、チェンと地元客の接近、子ども一人食べ物も口に合わず、スマホでゲームばかりという息子もアンナや地元の老人の親切と父の作る食事に生気を取り戻し、ともに配偶者を失っているチェンとアンナは…というわけで「しあわせな」結末は容易に予測できるが、フィンランドの美しい景色(なんとなく東洋的な映し方をしている)これを極めて品よくまとめ、フィンランド音楽(これもちょっと東洋調というか演歌調=そういえば弟のアキ・カウリスマキ映画も完全な演歌調だったりする)をセンチメンタルに流してナルほどね…。この映画、特に描き方がうまいなあと思うのは地元の高齢者の男たち。日がな一日をアンナの食堂に入り浸り病気を抱え行儀もよろしくない連中と思いきや、なかなかに人情味を発揮し、チェンの薬膳も含む中国料理に元気を取り戻し、彼ら親子を求めて親身になる様子にリアリティと温かさがある。終わりにビザが切れ、親子は帰国しなくてはならなくなり食堂もアンナもいわば危機に陥るが、この解決も冷静に考えれば結構えげつない気もするが描き方はなるほどの品良さ…。最後は上海の船中風景で、これもとっても品よく美しい。(2月22日 新宿ピカデリー 47)
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⑳マリアの息子
監督:ハミド・ジェベリ 出演:モフセン・ファルサフィン ラフィーク・デルカブリリアン ハディ・ナイニーザータ ゾレイハ・シャダーブ 1998イラン(ペルシャ語・アラビア語・アルメニア語)72分 ★★★
なぜかほぼ満席の夕方〜夜回。アゼルバイジャン国境付近イラン北西部の村を舞台に、家を手伝い牛乳配達をする、学校の成績も優秀なムスリムの少年ラフマーン。母は出産時に亡くなり写真もない。母を知らないラフマーンは村のキリスト教教会のマリア像に母の面影を見て教会に忍び込む。村のキリスト教会は今は信者もほとんどいなくて高齢の神父が一人守っている。その神父が屋根の十字架を補修しようとして梯子から落ち寝込むことになる。ラフマーンは祖母にも言われて神父を看病。やがて弱った神父に、近くの街で神父をしている弟を探して連れてきてほしいと頼まれて出かけていく―もっとずっとしっかりしているし家族の了解もあるのだが、『友だちのうちはどこ』(1987イラン アッバス・キアロスタミ)で友だちを探す設定を想わされたーという話で、弟が見つかるまで、見つかったあとの物語には特に意外性はないのだが、この映画何よりムスリムとそしてそれに対応するようなキリスト教徒の寛容性が画面から滲み出してくるようでそこがとてもいい。少年は神父に牛乳を配達し、少年の父や祖母も神父の世話をすること、一人で少年にとっては遠い町に神父の弟を探しに行くことを認め、街では偶然出会ったクリスチャンの母子が、少年がムスリムとしてお祈りをする場面を見ながら、親切に面倒を見てくれる。もちろん葛藤が全く描かれないわけでなく、少年は神父を看病しながら神父が亡くなった葬列の場面を夢に見てクリスチャンの祈りにかぶせるようにアラーを讃えるムスリムの祈りを叫び目を覚ますなどというシーンもあるし、彼の敬虔さや優秀さは、いくら神父を慕いマリアを慕ったところでこの先クリスチャンに改宗するとも思えないが、それでも異質のものに敬意を表しつつ、自分をしっかり保っていくという姿勢が、「希望」として描かれているようだ。その姿勢は宗教のみならず、この映画には少年の友だちとして同世代の盲目の子が出てきて、少年を助けるというか時に協業しながらユーモラスな大活躍という趣があって、このあたりもこの映画の寛容性というか誰をも同等に見てレスペクトしあおうという主張が見える。私には聞き分けられないが少年の世界を描きながら3つのことばが入り混じりあうという環境も…。要は異質のものが入り混じることを拒否しがちな世界でのそれに対する真っ向からの異議申し立てをしていると感じられる。99年東京国際映画祭出品作品だそうだが当時は見られず、ようやく見られてよかった。(2月23日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 48)
㉑私の娘の香り
監督:オルグン・オルデミナル 出演:クレマンス・ベルニョ― イェルセン・オルデミナル チャラ―ル・エルトゥールル シェリフ・セゼル デニス・アルナ 2019 トルコ・米・仏(仏語・英語・クルド語・トルコ語) 96分
トルコに唯一残るというアルメニア人の村を主な舞台に、2016年7月フランス・ニースの爆破テロで夫・両親・父母を失い、彼らを父の故郷であるこのトルコの村に埋葬しようとやってくるアルメニア系移民二世のベアトリスと、ISISに拘束されトルコ軍に助け出されるもののそこからも逃げ出して難民キャンプにいるはずの姉を探そうとする少女ヘヴィ(監督自身の娘がクルド語を習い演じているとか)の出会い。二人が泊る宿の女主人の孫イブラヒムー彼も2013年5月のトルコの大規模爆弾テロで両親を失ったことが示唆される。このあと彼はアメリカに出国して戻ってきたという設定そして祖母とも従妹とも打ち解けずシリアなど思い出すのも嫌という雰囲気を醸し出すが、祖母に言われてベアトリスとともにヘヴィの姉探しに運転手(兼通訳)として付き合うことになる。いっぽうヘヴィを保護し逃げられたトルコ軍の将校?とその上司である女性の微妙な関係、将校は難民?を助けようとしてISISの銃撃に遭い命を落とすーとおもにはこんな流れなのだが、それぞれの置かれた立場の微妙な食い違い、それでもスマホの翻訳アプリを使って意志の疎通をしあったり、通訳もつけてのやり取りでその微妙な心のありようが丁寧に描かれるが、それだけにぼーっと見ていると話が拡散していってしまう感じもあってなかなかに理解が難しい、が、これはまさに多分この映画の捜索の意図したところなのだろう。込み入った状況の中でいろいろな立場の人が立場を問わず命を落とす悲惨な状況と、それゆえにそこを乗り越えて互いに互いの追悼の意思を重んじるというような寛容性がここでも描かれているのである。(2月24日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 49)
㉒シェへラザードの日記
監督:ゼイナ・ダッカーシュ 出演:ファーティマ・Y マリヤム・Z ハディージャ・S サマーハ・D マファーフ・S 2013レバノン(アラビア語) 81分 ★★
レバノンのバアブダ女性刑務所で監督ゼイナ・ダッカーシュ自身が受刑者とともに行ったドラマ・セラピーによる演劇『バアブダのシェヘラザード』の上演と参加した面々のインタヴューをつづったドキュメンタリー。彼女たちが犯したとされる犯罪は夫殺しとかのほかに詐欺とかそのほかの軽犯罪もあるのだが、インタヴューからはその犯罪の影の女性の自由や尊厳をまったく認めない家族間の男尊女卑やDVにさらされ続けた前半生が浮かび上がってくる。それでも明るくあっけらかんともした感じでしかも美しい女性たちの姿に圧倒されるーセラピーの結果だからここまで来るのにもきっと厳しい過程があったのだろう。黒系の衣装に色とりどりのスカーフを身にまとった彼女たちの舞台衣装もすっきりとしかも温かみを感じさせる何より美しい映像だった。この活動がきっかけとなったのか、出所後の何人かが元気に自分たちの地歩を築き女性解放に向かう運動に歩み始めている姿も描かれ頼もしさを感じる。(2月25日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 50)
㉓ラシーダ
監督:ヤミーナ・バシール=シュイーフ 出演:イブティサーム・ジュワディ バヒーヤ・ラーシディ ラシーダ・ミッサーウィ ザキ・ブールナーフィド 2002アルジェリア・仏(アラビア語・フランス語) 94分 ★★★
1991~2002年、10年続いたアルジェリア内紛中の、若い女性教師の物語。描いたのも女性でアルジェリア初の女性監督映画でもあるらしい。GIA(武装イスラム集団)が無差別テロを行っていた当時、出勤途上(これがロープゥェイなども使い、何ともいい感じなのだが)小学校教師のラシーダは教え子の青年を含む過激派の一団に校内に爆弾を持ち込むように強要され、断ると腹に銃弾を撃ち込まれる。危篤状態に駆け付けたボーイフレンド?が「だから仕事をやめろと言ったのに」と言い捨てるところからまずはぎょっとさせられる。やがて奇跡的に回復しラシーダは同僚の世話で母とともに田舎の町に移り住む。そこからはこの街が舞台で、二人は家にこもり、女性二人の暮らしを恐れるが街には銃撃の音がしばし鳴り響き、銃を持った男が闊歩しという状況。また、好きな女性に言い寄るもその父から厳しい拒絶を受ける失業青年、政府軍に誘拐され、逃げ戻るが今度は父親から家の恥として帰宅を拒絶される女性、将来「月に行く」ことを夢見つつ「父を手伝えといわれている」という少女などなど、女性たちがイスラムの家父長制の中で人間扱いされない状況が描かれる。ラシーダも例外でなく自身が撃たれた事件のトラウマに苦しみ、また結婚式を前に街の女性たちが花嫁を囲んで共同浴場で入浴する場面があるが、「帝王切開の後と誤解されるのが怖い」とそこに参加しなかったりする姿も描かれる。それでも彼女は元同僚の世話で村の小学校に教職を得て勤め始め、共同体に徐々に溶け込んでいく。村のある女性が結婚することになりその結婚式前夜(これも男は男同士で、女は女でだが。これは葬式もいっしょ)村人たちがダンスをしたり盛り上がっているところをテロ集団が襲撃する。ラシーダも含め逃げ惑う人々。翌朝には荒れ果てた村に布でくるまれた遺体がいくつも並ぶ…もはやこの村にもいられないと打ちひしがれる母をしり目に小学校に向かうラシータ。三々五々集まってくる子供たち…学校のシーンでこの映画は終わる。
終わり近くまでラシーダは自ら主人公でありながら、実は村の人々ー特に女性たちの様々に置かれた状況を描くことによってこの絶望的なまでに差別的・暴力的な社会の理不尽が描かれているそれを見つめる存在としても描かれ、最後の場面で彼女自身が教壇に戻ることにより観客に彼女の位置を問いかける側に立つ。彼女を囲む人々の中での母の存在は大きく、彼女が銃撃され入院する場面では絶望的に付き添うだけなのだが、実はこの母、恋人に新しい女ができたことで婚家?を追い出されシングルマザーとしてラシーダを育てたという、この家父長社会では追いやられる被害に遭いつつも負けずに頑張り、娘との人生を築き上げた人物として描かれる。しかも娘は高等教育を受けて学校教師として自立するわけだし、ラシータ自身もイスラム女性にある種義務付けられたヒジャーブを決してかぶらない女性として育つわけだから半端ではない。この母も含め、彼女を助ける同僚、また誘拐から逃げた女性を男性の指弾からかばう女たち、結婚式で花嫁の幸せをともに願い身支度をしてやる女たちなど、テロと男たちからの二重の弾圧の中で手を取りあって、静かにではあるが苦悩を乗り越えようとする女たちの姿が描かれて印象的な、迫力がある映画だった。(2月25日 渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 51)
㉔結婚式、10日前
監督:アムルー・ガマール 出演:サーリー・ハマーダ ハーリド・ハムダーン カースィム・ラシャード バッカール・サーレフ ムハマンド・ナージー 2018イエメン(アラビア語) 121分
イエメン、アデン、結婚式を10日後に控えたカップルの1日ごとのトラブル勃発とそれをいかに乗り越えていくかを描いたコメディ。コメディとはいうもののイエメン内戦の影響が人の上にも瓦礫と化した街の一隅にも残る中で、どうしようもなくだらしないくせに家父長制下で父権を振り回し女を抑圧する男たちー本当にどうしようもない男權主義者もいれば、人はいいが制度や社会に疑問も感じずその中で自分も決して居心地がいいわけではないのにあたふたしている男もいるーと制度や男に抑圧されつつ自分の意志によって生きようとする女、あるいは功利主義を振りかざして戯画的に描かれた「強い」女の描かれ方があまり心地よいとは言えず、ハッピー・エンドもこれでいいのか?という思いもなんか残る。
10日前、叔母所有の家に新居を定めようと思っていた花婿・マアムーンは叔母が離婚別居して家に戻るというので、ひっこし先の目処もないまま友人や花嫁ラシャ―の兄(いい奴だが口が軽い)に手伝ってもらい一時的に花嫁道具を置いてくれる場所を探す。友人の紹介で見つけた庭は雨ざらしだが、持ち主の女は強権発動という感じでぼる!というところからはじまり、二人は新居を探して街の中の貸家を歩くがどれもうまくない。そのうえ彼の経営するネットカフェがラシャ―に横恋慕する彼女の叔父サリーㇺの策略もあって借金のかたに取られてしまうー困り果て無策のマアムーンを叱咤激励し知恵を働かせて結婚式場を変え手小規模パーティにすることによりなんとか結婚にこぎつけようとするラシャ―だがマアムーンは花嫁の両親の承諾を得ない結婚はできないと言い張り、ラシャ―の両親は家を借りている(このあたり男たちが家も仕事も皆ないのは内戦中の破壊で奪われたということのよう)叔父(妻子持ち)に家を奪うと言われラシャ―を彼の第2夫人として結婚させることにしてしまうという、まあいかにもイスラム社会という展開で見ていて苦しくなるばかり。
ラシャ―が家を飛び出し、マアムーンが愛を自覚し彼女を探すということで予想通りのハッピーエンド展開になるが、結婚式も男女は別々に盛り上がり、「内戦で奪われた自分と愛した夫との関係を顧みて、娘には同じ思いをさせたくない」として一度は娘を妻子持ちの「叔父」に嫁がせることにしたラシャ―の母は満面の笑みであるのに対し、娘や妹をサーリムと結婚させられなかった父や兄は祝いの場面では姿を消しており、これもなんかなあ…二人の行く末が思いやられるわ…という展開だ。音楽(歌)もたっぷりのマサラ・ムービー的な雰囲気。(2月26日渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 52)
㉕ミナは歩いていく
監督:ユセフ・バラキ 出演:ファルザナ・ナワビ ガディル・アリティ ヘシュマットラ・ファナイ マリナ・ゴルバハリ 2015アフガニスタン・カナダ(ダリ語・パシュトー語)110分 ★★
こちらはアフガニスタン。先のイエメン映画では父にたかられているとはいえ、ヒロインは一応自立した給料取りだったが、こちらは認知症の祖父と薬物中毒の父に支配されつつ依存もされていて、彼らの身の回りの世話のみならず街で元締めの男に搾取されつつ物売りをして経済的にも支え、学校にもきちんと通っているというけなげな小学生(12歳とは見えない大人っぽいというかむしろ生活の裏までわかっているようなまなざし)のミナ。父は彼女の物売りの元締めで麻薬の売人でもあるバシールから麻薬を買って中毒に。それをやめさせるためにミナはバシールに自分の売り上げの1/3を差し出しているという―ウーンなんというか許し難い状況。その中で祖父が亡くなるが、その時も父は麻薬に酔って人事不省に近い状態でまったく頼りにならず、近所の人に頼ってミナは祖父を葬る(このあたりの隣人たちを演じている中にミナを演じるファルザナ・ナワビの両親も出演しているとか)。バシールに怒りを感じその麻薬を持ち出して隠したミナは逆にバシールに脅かされ、彼を「自爆テロの犯人かもしれない」と警察に密告。そのために警察に踏み込まれバシールは殺される。父は怒り、街の人々からも排斥されて物売りなどもできなくなるミナ。そんなミナを父は結納金目当てで知り合いの老人に嫁がせることにする。ミナは父を捨て家を出、「技術があるからいい」と言われた母の形見のミシンを売り体を覆うブルカを買って、物乞い女をあっせんする車に乗り込む…
かつて『アフガン零年』(2003セディク・マルバク)という映画で主人公の少女は男の子に化けて金を稼ぎ、タリバンの指弾を受けて最後は無理やりに老人の妻として売られてしまった。それに比べるとこの映画ではミナは少なくとも自分の意志で家を出た…というのだが、たしかに20年近い時間、タリバン時代との違いはあるんだろうが、それにしても救いがない…。ミナが認知症でどこかに出かけてしまう祖父の足を縛り仕事や学校に行くのを父は祖父を大切にしないと言って怒り、ミナに自分の頭を洗わせておいて稼ぎが少ないから安いシャンプーしか買えないと怒り、まったく理不尽ないたぶり方をする。見ているとムカムカしてきて本当に今日はどうしようもない男のオンパレードだなあと…(しかも『結婚式、10日前』も含めどちらも中高年のダメダメ男の見かけの偉丈夫さ!むかつく!)。30過ぎくらい2歳でカナダに移民したというアフガニスタン人の監督が地元19日の滞在で役者も多くは地元の人という撮り方をしたインディペンダント映画に近いものらしいが、映像や音楽の完成度は高い。ミナの学校の先生を演じるマリナ・ゴルバハリはかつての『アフガン零年』のヒロイン役だそうで言われて見れば面影が…。 (2月26日渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 53)
㉖汝は20歳で死ぬ
監督・脚本:アムジャド・アブー・アラー 出演:ムスタファ―・シャハーク イスラーム・ムバラーク マフムード・マイサラ・サッラージュ ブ―ナー・ハーリド 2019スーダン・エジプト・ドイツ・ノルゥェイ・カタール(アラビア語) 102分
スーダンのイスラム教の一派スーフィーの習俗ー歌い踊り狂い祈りの果てに倒れるみたいな…で、生まれたばかりの赤ん坊ムザンミルは「20歳で死ぬ」と予言されてしまう。父はその予言の重みに耐えかねて息子を妻に任せて出稼ぎに、母はひとり耐えながら壁に息子の生きた日数を刻み、過保護に育てつつ、ときになんとかこの「罪」を払うべく祈祷とか、老師に頼んだり…。「どうせ死ぬのに学んでも仕方がない」と息子を学校にも行かせなかったが、これは老師に「たとえ死ぬのであっても宗教的な義務はある」とか言われ少年は学ぶようになり、やがてこの村での少年たちの中で一番のクルアーン(つまりコーラン?)の詠み手になる…、とそんなふうにしていよいよ二十歳も近づいてきたあたり、青年ムザンミルは外国帰りで村では一種の半端もの的な暮らしをしているスレーマンという男と知り合いになり、彼を父代わりに慕い、外の世界のさまざまなことを知るようになり、幼馴染の村の少女を好きになるが彼女は死にゆくものからは離れて他の男と結婚することに…。その間にも母や出稼ぎから戻った父は息子の葬儀の準備!をし、スレーマンはある日急死する…と筋書き的にはこんなものだが明暗を印象的な切り取り方をした画面の中で、最初の祈りや、川に浮かぶ教団の船とか、娘の婚礼行列?とか、そして最後の青年の描写などを除くと割合に動きのない画面のアートっぽさはこの映画の印象を形作るものではあるし、宗教の緩慢な残酷さを示しているようでもあるが、見ていてかなりくたびれるものでもあった。とにかくこんな運命を押し付けられ、その宗教から逃れることもできない閉塞状況を生きるとしたら耐えれられないだろう。その残酷さは押し付けられた当事者の青年にとっては動で、そして苦しむ母(やスレーマンも?)には静のイメージで映画の背後にぴったりと張り付いている感じ。(2月26日渋谷ユーロスペース イスラム映画祭6 54)
㉗ニューヨーク・親切なロシア料理店(The Kindness of Strangers)
監督・脚本:ロネ・シェルフィク 出演:ゾーイ・カザン アンドレア・ライズボロー ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ タハール・ラヒム ビル・ナイ 2019デンマーク・カナダ・スェーデン・仏・独 115分 ★
マンハッタンの老舗だがさびれた料理店、そこにわけありげなマネージャーが雇われDVから逃げ出してきた母子が身を寄せというような話は『ノッティングヒルの洋菓子店』(2020英 エリザ・シュローダー 12月掲載)とか先日見たばかりの『世界で一番しあわせな食堂』(2019 ミカ・カウリスマキ⑲)のような話かと思ったらこれが全然当て外れ。題名もそもそも『The Kindness of Strangers』でどこにも「ロシア料理店」を思わせるものなし。ロシア料理店はご都合主義的だが非常に寛容なロシア語訛の英語話者(のふりをしている英語話者)のオーナーを始め、見かけの少し古めかしい重厚さとは別に極めて人々に寛容な開かれた場所として存在しているという設定。そこに雇われてレストランビルの最上階に住む刑務所帰りのマネージャー、彼の弁護士、店の常連で教会でのワークセミナーやホームレスへの給食などの活動をする看護師、そして仕事も家も失って凍死しそうになりながら彼女たちに助けられ自分も活動に加わり母子を助け、やがてロシア料理店のドアマンに雇われる青年らがそれぞれのやり方で夫から逃げ出した母子に献身し、母子は弁護士の助けを借りて夫を刑務所に送り自立をするという―ただし彼らがペアは作りつつもべったりのファミリーっぽくならないところがなかなかニューヨーク(都会)っぽくてなるほど、な、映画。DV夫は警官でたくさんの警官仲間もいて、母子は夫の暴力から逃れても警察に駆け込むこともできないというのがまたまた今時のアメリカという感じも。人のつながりがそんなに「濃く」は描かれないからこそ、「ロシア料理店」が厳然としてそこにあるということ自体が意味を持つのかも…。(2月28日 下高井戸シネマ 55)
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